第23話 無秩序(1)

 凛音りんねは自室のベッドに横になって本を読んでいた。本とはいってもトラベルミステリーでも海外ホラーでもない。アダムの黒い本だ。

 エジプトの象形文字のような謎の言語で書かれているのに、文字の羅列られつが自ずと意味を語りかけてくる。本が付与する様々な能力――自分ができるのにできると気がついてない能力が何なのかが理解できる

 この本との出会いから一週間、凛音のいろいろなことが変わった。

 仲間と友達が増えたことは言うまでもない。

 生活も変わった。食欲が恐ろしく増えた。親には従来のほぼ倍の量の食事を求めているし、朝は食パン一斤食べてしまった。

 知識量が飛躍的に増した。教科書はすべて読む必要がなくなった。数学のドリルも英単語帳も学年末の分まで全て完了した。

 キネタにかけた治癒ちゆ術も自信をもってやれるようになったし(今後友達が治癒術が必要なほどのケガを負うような状況に陥るようなことはなければ良いが)、催眠時や幻覚の使い方にも理解を深めた(だからって裸で街中を歩くつもりはないが)。

『今何キロ走ったん? モードはどれにしてんの? ハード?』

 上の階にいる誰かが言った。若夫婦の夫の方だ。

『沈黙せよ、ケント! ドラゴンの怒りを味わいたいか!』

 また誰かが言った。下の階から聞こえてきた声はテレビから流れてくる舞台劇の音声であるのに間違いない。

 ――これが“場所”の効果。

 場所に近づく存在――例えば部屋の外で掃除機をかけて回っている親や休日を持て余してウロウロしている妹の存在が感じ取れる。シルエットのように視界に浮かび上がってくる。

 水平方向だけでなく上下方向にも有効で、下の部屋でシェイクスピア劇を観ながらカウチに横たわっている人や、上の部屋で夫婦でランニングマシーンに勤しむ住人たちの声、身動きが感じ取れた。

 場所を作るときは注意が必要だ。

 使徒同士は自由に精神を行き来させられるのである。誰が場を張っていて、誰が場を張っていないか立ち所にわかる。杏菜と黒江は張っていない。あざれは張っている。

 今あざれに声をかければ、凛音の意識はあざれのものとつながるだろう。

 特別に会いたくなったら――と彼女は言った。

 あざれの横顔が脳裏をよぎった。

 耳元でよみがるあざれの荒い息づかい。密やかでささやくような呼吸音。甘い誘惑が脳内に浸透していく。

 ――ダメだ。会ってはいけない。

 凛音は頭を振って桃色のイメージをはねのける。もうあざれとは会うべきじゃない。あざれと凛音とでは求めているものが多分根本から違う。会えばきっと傷つくはずだ。

 凛音は“場所”を閉じた。

 そういえば“使徒”の他のみんなは何をしているのだろう。

 みんなが何者なのかはわからない。

 あざれは同じ学生。

 では杏菜は? 黒江は?

 あれだけ濃密な絡み合いをした仲間でもお互いのことは何も知らないのだ。

「凛音いる?」

 ノックの後すぐに母親が部屋に入ってきた。“場所”を張っていないと誰も彼もが唐突にやってくる感じに襲われてしまう。

「もう、また寝てるんだから。宿題はやったの?」

「もうやったよ」

「あらそう。もしやることがないならお買い物にでも行かない? 花鈴と三人でお昼ご飯も食べてきましょ」

「どこで買い物するの?」

「駅前。一緒に行くのいや?」

 用事があろうとなかろうと、どっちみち母親の買い物は付き合わなくてはいけない。

 断ると、母親は寂しそうな顔をして「そうなの」と言う「休みの日ぐらい一緒に過ごしたいだけなのに冷たい。どうして冷たい態度をとるの?」みたいなことを言う。たかだか買い物にいかない程度のことでこんなことを言われたりしたら凛音は自分が悪いみたいに感じて気分が悪くなってしまう。

 不快なら口を閉ざさせてしまうことだってできる。催眠術をかければ意のままに動かすことだってできるのだから。

 でも凛音はそれをやらない。結局のところ家族での買い物は凛音にとっても楽しかったし、実際に今もひと心地ついたところだったし。

「行く」

「分かったわ。じゃあ準備してちょうだい」

 凛音はねずみ色のスウェットの上下を脱ぎ、チノパンとひょう柄のパーカーを取り出す。豹柄のパーカーはコイコのお下がりだ。着なくなったというのでもらったのだ。母からは趣味が良くないとお墨付きをもらっている。

 ところで、通学用のバッグを変えようかどうしようか迷っている。その後キネタとコイコには面と向かってダサいと言われたが、そのダサさがいいとも言われた。

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