第22話 ブラックナイト(3)

 雲間からさしこんできた青白い月光がビルの屋上を洗う。刺客が構えた日本刀は黒色で、その表面にはいかなる光も映していない。ただの鉄器ではないことは杏菜あんなの爪が通じなかったことからも容易に推察できる。

 ――強い。

 対する刺客は喪服もふくじみたブラックスーツをまとった長い髪の女。背は高く、横に並ぶとあざれを越えるだろう。顔の上半分は銅製に見える赤の仮面でおおわれていた。命の奪い合いに際して顔色ひとつ変えない冷静さがなおいっそう不気味だ。

 背後にはその親玉がいる。姿は女だ。腰まで伸ばした長い髪。その使徒と同様に表情らしい表情はない。夜会にふさわしい二段プリーツ仕様のマリンブルーのドレス。口元は孔雀羽くじゃくばねの扇でおおい隠している。

「レイコ、何をしているの。奴は満身創痍まんしんそうい。叩くなら今よ。殺しなさい」

 “化身”の女が言った。

 ――この女の言う通りだ。

 日本刀の刀身こそ杏菜の肌には全く届いていない。

 だが、刀を爪で受けたときに感じる衝撃が杏菜の体を徐々にむしばんでいった。

 女の刀はひとふりが尋常じゃない重さだった。攻撃を受けるたびに杏菜は脳を揺さぶられるような衝撃を受けてきた。

 刀の女は杏菜を正面に見すえ相対した。

 こいつ、顔色ひとつ変わらない。

 杏菜は腰を低く構え、爪の両手を前方向にさし伸べる。

 次やられたら危ない。

 今度こそやつの黒刃が爪をり、肉を切りくかもしれない。

「大丈夫。安心して」

 場にそぐわない甘やかな声が聞こえた。アダムだ。

「レイコちゃんだって君と同じぐらいに疲弊ひへいしているはずだ。僕がそうしたんだ。勝機は十分にあるよ」

 女の視線がレイコに飛ぶ。レイコは苦々しげな表情で女に目配せした。

「アダム・ディレンジド、お前はレイコの心を撹乱かくらんしているわね」

「お察しの通り」

 アダムはほほえんだ。

「レイコちゃんが攻撃に専念している間、心に隙が生まれる。その間に僕はレイコちゃんの心の奥の秘密を暴く。それから見たくもない幻影を見せる。そんなところさ」

「卑怯な真似を」

 女は扇をたたんだ。美貌を損なう鋭い犬歯がむき出しになった。

「君だってレイコちゃんに強靭な筋力を提供しているだろう、イヴ。それは卑怯じゃないのかい? 僕ら化身と使徒は協力し合う関係。当たり前の話じゃないか」

 ――朗報だ。相手は鈍ってる。

 杏菜は一気に距離を縮め、爪を振るう。レイコの防御は相変わらず硬いが、確かにこれまでより動きが鈍くなったのを感じる。

 レイコは宙に身を躍らせて後退するとアダムに向かって切先を向けた。

「やめろ。話しかけるな」

 鉄面皮てつめんぴもやにわに表情が崩れた。小刻みに息をつき、刀を持つ反対側の手で頭を押さえている。

「どうだい? レイコちゃん」アダムは顔をほころばせた。「君が見たかった光景だろう? 血を分けた実の兄と愛し合う光景。素晴らしいじゃないか?」

 杏菜はアダムがレイコにしていることを理解した。彼は幻覚を見せている。それもおそらく相手の最も弱いところを突く幻覚を。

「下がれ、レイコ。ここは引くぞ」

 イヴは溶岩のように煮え立つ眼光をアダムに向けた。

「アダム・ディレンジド。無秩序の権化たる悪魔の“化身”か。同じ悪魔でも貴様とは相容あいいれない」

「心外だな」口角を上げるアダム。「君こそ悪魔の中では異端さ。なぜなら秩序を司る悪魔の“化身”なんだからね。秩序は本来天使の持分だろう」

「天使の秩序は神のため。悪魔の秩序は人のためよ」

 杏菜はレイコを見すえる。

 必死に耐えてはいるが、全身に疲労の色がにじんでいる。アダムの精神攻撃はかなり通用しているようだ。

 相手の精神が汚染されている今こそ好機だ。

 とはいえ、爪が得物ではリーチが十分とは言えない。

 この一撃は反撃されるリスクが大いにある。

 ――機を待たなくては。

「杏菜ちゃん、武器を納めなよ」

 その言葉に従うように、杏菜の両手からナイフの爪ははげ落ちていった。

「なッ――!」

 爪は地面に落ちる前に粉となり風に舞い宙に消えた。

「双方疲れてる。停戦しようよ。僕は本来平和主義なんだ。ねえ、今からパーティーでも開かない? お互いの使徒を集めて楽しく一夜を過ごそうよ。僕のところにはお酒も煙草も避妊具もそろってる。きっと愉快な夜になる」

「警戒を怠るなよ、レイコ。ネズミがもう一匹近づいてきている」

 黒江の接近を感じる。資格の範囲内にはいないが、黒江くろえもどこかに紛れていて相手の隙を狙っているに違いない。

 そうこうしているうちに、イヴとレイコは姿を消してしまった。今では一片の痕跡こんせきも残してはいない。

「どういうつもりですか、アダム」

「レイコ。あの子は実にいい。うちに欲しい。イヴから寝返えらせたい。秩序を信奉している者ほど堕落する時の度合いは激しいものがあるからね。とっても甘美なショウになりそうだ」

 隣のビルから空中を渡ってくる姿がある。言うまでもなく黒江だ。黒江は両の手のひらを見せ、武器を失ったことをアピールしている。

「説明してくれよ、何があったんだ」

「アダム、レイコにしろイヴにしろ次から対策されますよ。あいつらは強い。こちらも手を考えないと次は負けます」

「レイコちゃんについてはこのまま泳がせてみようとおもうんだ」アダムは言った。「彼女の心の中をのぞき見たんだよ。興味深いことが分かった。きっと近いうちに面白いことが起きるよ」

「何でもいいけど、面倒くさい事態だけは起こすんじゃねえぞ」

 そう言い残して、黒江は宙に姿を消した。

「それにしても残念だな、みんなとパーティー、したかったのにな」

 アダムには悪びれた様子もなかった。

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