第20話 ブラックナイト(1)

 ビールはちびちびとしか進まない。天井のスピーカーから鳴るスティーブン・タイラーの怒鳴り声も耳をす通りしていく。口に含んだバターソルトピーナッツは咀嚼そしゃくしてみても味気ない。

「昨日ぶり、ア ッ ち ゃ 〜 ん 」

 隣の席に男が腰かけた。男は山高帽を脱いでカウンターテーブルに置いた。

「村木さんのオヤジさん」

「どうしたのよ、なんか元気ないわねえ〜」

 口髭くちひげについた生ビールの泡をジャージの袖でぬぐい去るとバーテンダーにもう一杯ビールを注文した。

「あらやだ、髪型変えたの?」

 村木は篤志あつしの頭を指さす。

「まあ」

 ていうか、セットしてきてないだけだ。

「あんたイチオシのジャケットはどうしたのよ」村木は篤志の胸元を指さした。「レザーのやつ。キマってたじゃなーい? もう宗旨しゅうしがえ? でもそのラモーンズのシャツもいい感じよォ」

「実はこの店で失くしたみたいなんです。飲みすぎたせいか覚えていないんですが、素っ裸にされていたみたいで」

 バーテンダーから受け取ったビールをすぐに空にすると、村木は目を見開いた。

「やだ、何よそれ」

「昨晩のことは確かなんですが、分からないんです」

「分からないですって⁉︎」

「そうなんです。楽しく飲んでいたところまでは覚えているんですが、途中から記憶が曖昧あいまいになってまして。朝起きたら病院にいました。病院服着せられてて『俺のレザーはどこ』ってきいたら、『そんなものは着ていなかった』って」

「はぁー、何よそれええ⁉︎  本当なの? 追いはぎ? いつ? 一体誰にやられたのヨォ?」

 村木はバーテンダーのひとりに目を向けた。

「女子トイレから悲鳴が聞こえて――その頃村木さんおかえりでしたね――駆けつけてみると山嶺やまみねさん、なにか飲まされたらしくパンツ一丁でボーッとしてました。大丈夫だというので、シャツとジャージだけお貸ししてお見送りしたんですけど、やはりその後大変だったようですね」

「お店から通報があったようで」別の常連が口をはさんだ。新聞記者の磯早いそはやだ。「警察は調べていったようですよ」

「ヤダヤダ、仙台の治安はどうなってるのよう」

 村木は自分で自分を抱きしめるような仕草をして体を震わせた。

「イソちゃん、警察はなにかつかんだのかしら?」

「目撃証言なし、店内カメラもないから証拠もなし。犯人につながる有力な証拠はなしですね」

 磯早は酒を一口飲んだ。いつどんな時でもカルーアミルクだ。今夜も美味そうに飲んでいる。

「目撃証言がないってのは妙ね」

「大きな事件にはならないでしょう、洋服泥棒ぐらいのことではね。篤志くんには悪いけど」

「一体誰がなんのためにアッちゃんのレザー持って行ったりなんかしたのかしらね?」

「それが分かるまでは帰れませんよ」と篤志。「だって悔しいじゃないですか、黙って泣き寝入りなんて。そんなのロックじゃないっすよ。ましてやロールでもねえ」

「証拠はなかったんだけど、女子トイレのゴミ箱から面白いものが見つかったんですよね」と磯早。

「そうなんですよ」

「何ヨ、それ?」

 バーテンダーからの説明を聞いて篤志と村木はすっ頓狂とんきょうな声を上げた。

「パジャマぁ?」

「パジャマって誰のっスか?」

「不明」と磯早さん。「白地にプリント柄、コットン製。中高生が使うようなもので、目立った傷などはなし。強引に引きちぎられたり切られたりした跡とかはなし」

「パジャマなんてそんなモノ、このバーに持ち込む意味が分からないわね」

「でしょう? そこが不思議で面白いところではあるんですが」

 パジャマ、白地、プリント柄……?

 何かが頭をよぎる。パジャマ姿で接近してきた小柄な少女。そいつが中型肉食獣みたいに篤志に向かって飛びかかってくるイメージ。

「ん? 何から知ってるのかな、篤志くん」

 磯早の目が光る。事件記者歴二十五年の磯早の目はちょっとした変化を見逃さない。

「磯早さん、それビンゴかも知れないっす。俺、なんだかパジャマの女に襲われた気がするんですよ」

「本当か⁉︎」

「そうなの? それならそのパジャマ女が犯人になるんじゃない⁉︎」

「実物は警察ンところですか。実物が見たいっす。そしたら何か思い出すかもしれない」

 一同は色めきたった。

「よし、さっそく知り合いの刑事に連絡してみよう」

 携帯電話を取り出す磯早。

「きゃっ! なんだかミステリードラマみたいな展開じゃない? 興奮するわ。私『相棒あいぼう』のファンなのよ!」

 目をかがかせる村木。

「あたし、知ってるよその犯人」

 篤志と村木の隙間から手が伸びてくる。無数のいかつい指輪のはめられたその指先にはダークレッドのマニキュアがぬられていた。その手はバーカウンターの上のバターソルトピーナッツをひとつかみ取った。

 振り向くとそこに一人の女がいた。

「激マブ」

 うっかり声に出してしまったかも知れない。もしそうだとしてもおかしくない。篤志のストライクど真ん中の女がそこにいたのだから。

「あんがと。アンタのシャツもかっこいいよ」

 女は言った。脳をクラクラにさせる中音域の美声。

「犯人を知ってるって?」

 磯早がたずねた。その目は抜かりなく女を観察している。

 マニキュアと同じワインレッドのレザージャケットに、腰のところがローライズになっている革の短パン。ジャケットの下はTシャツで、生地にプリントされたローリングストーンズの唇マークが歪むほどに大きな胸をしていた。

 髪は女にしては短い方で、オイルか何かでしっとり濡れた感じにしていた。こめかみにピアス。女は大口を開けてひとつかみのピーナッツをつっこんだ。

「アタシの後輩っつうのかな。まあそんな感じ」

 ピーナッツをガリガリやったあとその女はそう答えた。

「教えてくれないか。その人は何者なんだ?」

 磯早が尋ねた。

「ここじゃ言えないんだ。表出られるかい?」

 女は親指で出入り口の方を指した。

「おうよ」と篤志は右手をさし伸べた。「篤志、山嶺篤志」

 これまたダークレッドに塗られた肉厚の唇の、その両端が持ち上がった。

しゅう黒江くろえ

 女が篤志の手をにぎった。冷たい手のひらだった。公園に野ざらしにされている石膏せっこうの天使像のような冷たさだ。

 周黒江は歩き出した。その背中について行こうとしたところ、篤志を引き止める手があった。

「ちょっとアンタ、本当にあの子についていくつもりなの⁉︎」

 村木のオヤジさんはくもり顔だった。

「当たり前。どうして?」

「どうしてって、あの子絶対ヤバいわよ。雰囲気で分かるもの。カタギじゃないわ。ううん、店に面接に来たら即刻お断りするわね」

 村木が女について言うことなら耳を傾けるに値する。村木は性風俗店を三店舗、合法なマッサージ店を二店舗、一等地にブティックを四店舗経営するやり手なのだ。こと女に関しては見る目に長けている。

「確かにボクの勘も言ってるよ。ついて行ったら無事じゃすまないんじゃないかってね。本当のことを話してくれるのかも疑問だ。ただのウソつきかもしれない」

 磯早も笑顔を保ちながら額から冷や汗を流していた。

 二人のいうことは十分に理解していた。この女は何か危ない。全身の細胞から水蒸気の代わりにガソリンを吹き出しているのではないかと思いたくなるような危うさがある。いつ着火されるのか解ったものではない。

「どうするかい、もし連れていかれた裏路地の向こうから怖いお兄さんが大挙として現れたら?」

「そん時はそん時ですよ」

 篤志は一歩踏み出した。

「仕方ないな」と磯早。

「もう、乗りかかった船よね」と村木。

 周黒江は入口に立っていた。

 タバコを吹かしながら店内放送のロック・ミュージックに体を揺らしている。

 マリリン・マンソンの『ロック・イズ・デッド』。

「これいいよね。あたしマンソンの声好き。エロくて」

 周黒江はかわいた唇を舌で湿らせる。

 最高だ、この女。

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