第19話 欲望(4)

 空っぽのグラスを片手に、凛音りんねは待合室のソファに座っていた。

 店内放送は男性声優兼シンガーの新曲を再生する。近くの部屋から『あの素晴らしい愛をもう一度』を熱唱する中高年グループの歌声がもれ聞こえてくる。小学校低学年くらいの子どもたちが廊下で追いかけっこしている。

 聖歌せいかは開始十五分ほどで部屋を出ていった。どうしてもタッくんに話したいことがあるらしかった。

『ありがとう、りんりん』

 去りぎわに聖歌は言った。

『タッくんのサークルに参加してみることにしたよ。週末も一緒にいるには、やっぱりそれしかないよね』

 凛音の手をひときわ強くにぎって、聖歌は部屋を飛び出していった。

 凛音は元々ポップスが好きなタイプではない。ヒットチャートの常連らしいロックバンドの名前を聞いてもピンとこないし、ボーカロイドの類もよく知らない。まともに歌えるのはAdoの有名な曲ぐらい。昭和・平成の懐メロやアニメの楽曲をかたっぱしからレパートリーにしている聖歌がうらやましいと思った。

「ジュース取ってくるね」

 そう言って部屋を抜け出した。コイコとキネタが出鱈目デタラメな英語と調子っ外れな音程でビリー・アイリッシュの『バッド・ガイ』を熱唱しているところだった。

 楽しい空間にいても凛音の心の中を占めているのは、音楽のことではなかった。口紅のことだ。

 あの緋色ひいろのやつは、ミオコのものだった。持ち主が分かったのなら返さなくてはいけない。ミオコはいい人だし。

 それなのに、さっきはなぜ「知らない」なんて言ったりしたんだろう。

 答えは分かってる。

 ――返したくないのだ、私。

 あの口紅を初めてった時、心が高揚した。興奮した。エクスタシーすら感じたかもしれない。

 ――私のものだ。

 心の一部が主張していた。

 手放したくなかった。

 それなら買って返しては?

 もちろん、買う金はないわけではない。

 奪ったものだからいいのだ。山嶺やまみね篤志あつしからレザーをはぎ取った時と同じ心理が胸の中にわだかまっていた。

『人を困らせてみるのです』

 あざれの言葉がよみがえる。その発言を浴びせられた当初こそ反発を覚えたけど、まんまと人を困らせることを実践していた。

 もしかしたらアダムはこんな凛音を見てよろこぶのかもしれない。

 でも、こんなことは凛音としては心からよろこべない。

 理性と欲望に板ばさみになる。

 ふいに誰かが凛音のすぐ横に腰を下ろした。ソフトカバーの張られたベンチがきしみを上げた。

 ――ひゃっ。

 悲鳴をこらえた。口紅の持ち主だったからだ。

 ミオコはほほえんでいた。。

 凛音は心の動揺が顔に出ないように努めながらほほえみ返した。

 ――何か?

 そう問う前にミオコは口を開いた。

見上みかみさんってすごいんだね。コイコから聞いたよ。めちゃくちゃ勉強できるんだって?」

「そんなことはないよ」

「そう? 英語の授業のときネイティブな英語しゃべっていたって聞いたよ」

 目立たないでいようと誓った今日。

 町内ランニングでは一躍ヒーロー扱いされてしまったが、午後からの授業でもやらかしてしまった。

 高等教育で習う程度の知識も黒い本は与えてくれる。ペーパーテストならどの教科

でも満点を取れるレベルまで学力は急上昇した。

 予想外だったのは言語能力だ。

 英語授業のサポートで来ているオーストラリア人講師に好きな食べ物は何かと質問されたので、『利久りきゅう』の牛タンが好きと答えた。『白龍パイロン』のじゃじゃ麺も好きで、それを食べるためだけに新幹線で盛岡市まで行きたいと話した。

 全て英語で話していたと気づいたのは、話し終えたあとだった。午後の教室に沈黙が広がった。

 講師は唖然あぜんとした、かつ、なんだかうれしそうな顔をして『君は英語がとても上手だね。英語の講師になれるよ』と冗談を飛ばした。

 クラスの注目を集めてしまったのは言うまでもない――思えば黒い本に記されているよく分からない言葉すら発声できるのだから、あらゆる言語能力が身についていると前もって予想することもできたはずだったのに。

 ミオコは足を組み直した。

「ところで見上さん、キネタはどんな風に助けられたの?」

「それは、親切なドライバーさんが通りかかって――」

 ミオコは笑顔を作った。

「それはもう聞いたよ。気になるのはどうやって崖から引き上げられたのかってこと」

「それはさっきも言った通り――」

「親切なドライバーさんが崖から降りて、キネタを背負って、崖をのぼって車まで連れて行ってくれたってこと?」

「……えっと、それは」

 凛音は言葉にきゅうした。そこまで追求されるのを想定していなかったのだ。

 ミオコは続けた。

「実際に見に行ったけどあの崖は急すぎて、上り下りするのに向いてない。土壌どじょうも石灰質でくずれやすい。キネタを助けるんだとしたら、回り道して崖下まで降りないといけない。コイコとアイナがそうしようとしたようにね。その二人に先んじて、ごくわずかな時間うちにキネタを助け出して病院まで送る――どんなアクションスターにだってできない芸当だよ。アンパンマンみたいに空でも飛べないと無理」

 ミオコはもう笑っていなかった。

「けがの具合も不可解なんだよ。キネタの運動着には血が付着していたと聞いたけど、キネタ本人にキズはひとつもない。ひとつもだよ。私、確かめたんだ。どう考えてもおかしいよね、これ。見上さん、キネタはどんな風に助けられたの?」

 ミオコのまなざしは顕微鏡けんびきょう微生物びせいぶつを研究する科学者のような注意深さを帯びていた。凛音は自分がガラス板とプレパラートの間に閉じこめられたアオミドロになってしまったような気分だった。

 もう率直に言ってしまおうか――空を飛んで病院まで送り届けました、と。ミオコは(ギャル軍団なのに)真面目そうだし、ふざけてると思って怒るかもしれないけれど。

「ごめん、あたし一方的に話しちゃってる」

 ミオコは組んだ足をほどいて両手で腰を持ち上げると、凛音との距離を近づけた。

「コイコには考えすぎって言われるんだけど、確かにそういう性格してるんだ、あたし。でも、こんな話がしたくて来たわけじゃないんだ。肝心なのはキネタが無事だったってこと。そのことにお礼が言いたかったの。キネタは高校に入ってからずっと仲よくしているんだ」

 凛音の右手がミオコの柔らかな手のひらに包まれた。

「あとのことはね、本当はどうでもいいんだ。重ね重ね言うよ。見上さん、ありがとう。本当に」

 ミオコは頭を下げた。とても長くそうしていた。顔を上げた時、ミオコの目元は涙にうるんでいた。

「何か困ったことがあれば言って。あたし見上さんのためならいつでもかけつけるからさ」

 ミオコのにぎる手ににわかに力が宿る。

 この子には嘘はつけないと思った。見ぬかれてしまうし、それに何より申し訳ない気持ちになる。

 ――やっぱり口紅は返そう。

 凛音はその手をにぎり返した。

「ミオコさんが友達になってくれてうれしいよ。あのね、ミオコさん――」

 真珠色のケースに入った緋色ひいろの口紅がどこにあって、誰が持っていって、いまどこにあるのか。洗いざらい言っておきたい気分にかられた。やましいものは捨ててしまいたい。私の心が本当に望んでいるのは、事実を正直に打ち明けることなのではないだろうか。

「ダー! おい、おめーらそこでイチャついてんじゃねーぞ」

 キネタの大声がわって入った。凛音が守ったあどけないほほえみがミオコに、凛音に向けられている。

「なに話してたんだよ。楽しい話? オレも混ぜてくれよ」

 キネタはてくてく歩いてきた。その頭をミオコがなでる。

「マジな話してたんだよ。あたしたち」

「それなんかかっこいいな。やっぱり混ぜろよ」

「まあ今度ね」

「ダー! お前らなにだべってんの、ウケる。そんなん学校でもできるだろ。カラオケでできることしようぜ! 早く部屋戻ってこいよ」

 コイコがみんなの手を引く。

「メガネさん何にも歌ってねーじゃねーか。次はメガネさんの番だからな」

「私⁉︎」

 部屋に戻ると、キネタの宣言通り、目の前に選曲用のカラオケ端末が置かれる。まいったな、どうしよう。

 コイコもミオコもキネタもサトもアイナも凛音に熱いまなざしを送っている。期待を裏切ることはできない。

 凛音は意を決して曲を登録した。中学時代合唱祭で習って覚えていた曲。画面にタイトルが映し出されたのを見て誰かがわーっと叫んだ。イントロが流れる。哀愁あふれるスライドギターとピアノの調べに誰かがうっとりとため息をついた。

「これアタシらのアンセムでしょ」とコイコ。

 ウケ狙いと引かれなくてよかった。そういうわけで『青葉城恋唄あおばじょうこいうた』をみんなで声を合わせて歌った。

 そのあと、みんなと別れてからとても温かな気持ちで駅前のペデストリアン・デッキを渡った。

 暮れゆくオレンジ色の空に白い月が浮かんでいた。

 星が輝いていた。

 バスに乗った。

 重要な問題がまだここに横たわっている。

 でも後のことは後で考えればいい。

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