第17話 欲望(2)

 キネタの両親が来たすぐ後だ。格子こうし模様のガラス戸が引かれ、ドクターとともにあざれが談話室に入ってきた。あざれは制服姿だった。エビ茶色のブレザーにスカート。瀟洒しょうしゃなお嬢様そのものだ。

 ドクターは杵田きねた一家にあいさつしに、あざれは凛音の前へとやってきた。

「どうしてここに⁉︎」

「もう、あなたが呼んだんでしょう?」

 そう言ってあざれは口角を上げた。

「学校は?」

「早退してきましたよ。他ならぬあなたのことですから」

 もちろん呼んでなどいない。名前は借りたが、ここまで速やかに連絡がいくとは考えが及んでいなかった。

「お友達に私を紹介していただけないのですか?」

 凛音は聖歌とコイコに紹介した――三枝さえぐさあざれ。病院長の孫。今回の診察・治療に協力してもらった。

「そういうことなんだ。てっきりお母さんに話を通したのかと思ったよ」と聖歌。

 ちなみに、母親の方にも連絡してある。母親は今日は休日で家にいるのは分かっていた。病院から連絡が来て変にこじれたりする前に先手を打って説明しておいたのだ。

「あざれちゃんっていうの? めっちゃカワイイじゃん、ウケる」

 コイコが言った。

「ウケるとは?」

「彼女の口癖だから気にしないで」

「三枝さんはりんりんのお友達なんですか?」

 聖歌は言った。

「そうですね、友達」あざれは凛音の顔を見た。「それもちょっと特別な友達です。りんりんですか、その呼び名かわいいですね」

「メガネさんのマブダチってこと?」

「そういうところです」

 あざれは凛音の手を取ると「ちょっと二人で話せます?」とささやいた。

 凛音はうなずいた。

 勝手知ったるあざれにとって病院のフロアは庭のようなものらしかった。あざれに手を引かれて混み合うフロアを抜けると、検査室と書かれた部屋の前までやってきた。二人で忍びこむ。あざれはドアノブにぶら下がる札を『使用中』に変えた。

 部屋は、壁や床は相変わらず清潔ではあるもののどことなくホコリっぽかった。中には身長を測る器具や人体模型なんかが所せましと置かれていた。壁の丸時計は止まっていて、六時半を指していた。

「どうでしたか、人助けをしてみた感想は?」

「えっ?」

「力を使って欲望の火を燃やすのが私たちの使命のようなものですから。あなたの感情を燃やすことができましたか、人助けをすることで?」

「そんな風には考えてない。助けなきゃって思ったからしただけで」

「あくまで常識の延長線上にある行動をしただけということですね。それではアダムは満足しないでしょう。そこは何ていうか、悪魔的でないと。今度は逆を試してみたらいかがですか。人を困らせてみるのです。ケガをさせたり、意志を奪ったり」

 トゲのある言い方だ。指摘しようとすると、あざれは凛音を制して話を続けた。

「それにしても、さっそくわたしの名前を持ち出すなんてあなたってけっこう抜け目ないのですね」

「必死だったの。ごめんなさい」

「別に謝らなくても。責めているわけではないのです。むしろめているのよ」

「病院から連絡が行ったの?」

「病院? まさか」

「じゃあどうして」

「ここが私の“場所”だからですよ。私の“場所”であるからには常に私の目があり、耳があるのです」

 凛音の表情から何かを読み取ったのか、あざれは話を続ける。

「私の話でピンと来ていらっしゃらないのでしたらまだ勉強不足です。『黒の本』はすべて読みましたか?」

「まだ」

「その様子じゃあ黒の本だってどこにあるのかも分からないのでしょう」

「……本は図書館にあるよ?」

「教えてあげます」

 次の瞬間、顔と顔が近づいた。唇と唇がふれ合うほどの近さまで。

「ま、待って。こんなとこで」

 ――こんなところで何するの? 凛音の声は、晩夏の蚊の羽音ぐらい弱々しかった。

 あざれは笑い、意地悪く顔をゆがませた。

「手をよけて。何をしているのですか? よけなさい」

 あざれの顔は凛音の胸元に近づいた。凛音は言われた通りに胸元をおおっていた両方の手を退けた。

 間髪入れず、あざれの手が伸びてきてリボンタイの締め付けをゆるめ、ブラウスの前ボタンを外した。ひとつ、ふたつ、みっつ。ブラウスの前が開いた。

「いやぁぁ……」

 生肌が外気に触れる。心拍数が上がって、胸が大きく上下する。ほおのあたりが急激に熱を帯びる。

 ――いやだ、あざれに見られたくない。こんな使い古しのデザインもダサい下着なんか。

「ここです」

 あざれは凛音の手の甲に自分の手のひらを重ね合わせ、凛音の胸元まで運んだ。心臓の鼓動が激しくなる。

 重ね合わせた二人の手が触れたのは、汗ばみはじめた凛音の肌――ではなく胸の上、さ骨の下のあたりにぽっかりと空いた空洞だった。

 ――えっ。

 視線を下げると胸の上あたりに握りこぶし二つ分ぐらいの大きさの空洞ができていた。あざれと凛音の手の先が中に入りこむ。手の皮ふが感じるのは温かくもなく冷たくもない空気。手を突っ込まれた胸には何の痛みもなく、それどころか何の感覚もなかった。

 指先が硬いものに触れる。この感触は。凛音はそれをつかみ、外に向かって引っぱり出した。胸の空洞のなかから黒い本が現れた。

「私たち使徒しとは常にこの本と共にあるのです。霊的な意味でも、物質的な意味でも。それぞれに一冊ずつそれぞれの本がある。本が能力を与えている」

 そんなこと知っていたはずだ。この本はいつも私のいるところについて来ると。

「こんな空洞、前はなかったのに」

「本を必要とした時に開く穴なのです」

 ところで、とあざれは言った。

「もしかして何かを期待していましたか? 例えばこういうのとか」

 あざれの指が凛音のあごの先を後ろに傾ける。あざれは背をかがめて、凛音の唇を奪った。凛音は身をすくませた。あざれは凛音と重ね合わせたままの手を握った。手と手のなかの空気がなってしまうくらいぎゅっと強く。凛音はするがままにさせた。

 しばらくの間そうしていた。二人を引き離したのはスマートフォンの着信音だった。画面表示には聖歌の名前があった。

「そろそろお時間のようですね。あなた、行ったほうがいいでしょう」

 あざれは胸ポケットから手鏡を取り出し、前髪を直しはじめる。

 着信音は鳴るがままにされていた。二人だけの密室に間の抜けた電子音がなりひびく。

「どうしてキスなんかしたの?」凛音の声はかすれていた。「私は恋人ではないんでしょう」

 凛音はあざれを見た。あざれは凛音を見かえした。シャープな輪郭。空調の風がなびかせる繊細せんさいな長い髪。その目からは何の感情も読み取れなかった。

「そんな悲しい顔をしないでください。なにか誤解があるようですね。私は特定の恋人を作るのが嫌なだけなんです。あなたのことは相変わらず好きです。だからキスしたんです。皆さんの前でも言ったでしょう、あなたと私は特別な友達だって」

「分からないよ、そんなの。身体だけの関係セフレってことでしょ」

「どう呼ぼうがあなたの自由ですけでど」

 スマートフォンは鳴りつづけている。凛音は黒い本を胸の空洞にしまいこみ、ブラウスのボタンをしめ直す。

「こういう形の“友情”が理解できないのならそれはそれで結構です。あなたの問題です。でも、もし気が変わって私に会いたくなったら――特別な意味でね――連絡してきてください。LINEもInstagramのアカウントも必要ありません。私とのコンタクトの取り方は本のなかに書いてありますから。まずはあなたの“場所”を作ることからですね」

 あざれがドアから外に出たのを見届けてから凛音はスマートフォンに出た。もう学校に引き返すから戻ってこいとの話だった。

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