第14話 ギフト(6)

「きゃーっ!」

 甲高い悲鳴が聞こえてきた。「キネタ!」と叫ぶ声がそれに続いた。

 凛音りんねの聴覚はとらえた。水袋のようなものが坂を転がり落ちる音。草を引きちぎり、石を弾き飛ばす音。木の枝の折れる音。それから不穏な静けさ。

「おい、どうした!」

 茂みをかき分けると、畳一枚分にも満たないわずかなスペースに、ギャル軍団のほかの二人がいるのが見えた。足元には散らばる無数のタバコの吸いがら。二人は呆然ぼうぜんと立ち尽くし、すぐ目の前の崖を見下ろしていた。

「キネタが」

 ひとりが声を震わせた。

 崖の下にキネタが倒れていた。崖は松林の広がる窪地くぼちへとつながっておて、高さは四、五メートル。

 うつ伏せでキネタの顔は見えない。金色に染めた髪には松葉や赤土が絡みついている。凛音は息をのんだ。微動だにしないその様子に最悪の想像が頭をよぎる。

「あいつ、タバコのケースで足をすべらせたんだ。んなもん捨てっぱなしにしたりするから、あいつ」

 もう一方が震えた声で言った。

「助けなきゃ」とコイコが言った。「ちょっと移動すれば窪地に降りる階段があるんだ。アイナは私についてこい。サトは先生を呼んでこい」

「でも先生呼んできたりしたらタバコのことバレちゃうよ」

「仕方ねえだろ。いいから早く行ってこい」

 サトと呼ばれた生徒はランニングコースへと走っていった。

 蒼白なコイコの顔が凛音に向けられる。

「聖歌、凛音。悪かったな。お前らは戻っててくれ。ちゃんと授業に参加するんだ」

「そんな!」

「私たちもキネタちゃんの力になりたい」

「お前らを巻き込むわけにはいかねぇよ。これはあたしらのグループの問題だ。こっちは処分くらうのは慣れてるからいいんだ。いいからさっさと戻れ」

 コイコとアイナは、雑木林の中を走っていった。さっき話していた窪地に降りる道へ向かったのだ。

 凛音と聖歌の間に静寂せいじゃくが訪れた。風が吹いて木々の葉をざわつかせた。

 崖の下ではキネタが変わらぬ姿勢のまま横たわっていた。

「こんなことになるなんて」

 聖歌のマスカラとアイシャドウで拡大された目元から涙のしずくがポロポロとこぼれた。

「大丈夫だよね、キネタちゃん、ケガとかしてないよね」

「分からない」

「キネタちゃん」

 涙が落ちる。

 ――私だって突っ立ったままじゃいられない。何かできることがあるはず。

 黒い本が脳裏に浮かぶ。 

 ――そう、“力”がある。

「私、キネタさんを助けにいく。ちょっとそこで待っててくれる?」

「りんりん?」

 聖歌は崖下のキネタを見て、それから凛音を見た。

「ごめん聖歌ちゃん、催眠術をかけた」

 直後、聖歌の顔から表情らしい表情が消え失せる。残ったのは塗りの化粧を流した涙の跡だけだ。その両手からは力が抜け、両足はただ体を支えるためだけの棒と化した。

 凛音は高台から崖の下を見渡した。崖っぷちから窪地にかけては急な坂となっていて、斜面には背の低い木々が伸びており――キネタの滑り落ちた跡だろうか――えぐれているところがあった。

 凛音は崖のふちに立った。

「 ハ ギ エ ル ・ ア ゼ ル エ ル ・ ベ ル ゼ ブ ル 」

 宙に体を浮かせると、崖下へと下降した。あまり人の入ってこないところなのだろう、ランニングシューズの底にぬかるむほどになめらかな土の感触があった。

 凛音はキネタに近寄ると、その口元に耳を寄せ、呼吸を確かめる。浅い呼気が確認された。

「キネタさん、キネタさん」

「うん」

 かすかな声ながら返事があった。最悪の事態は避けられたようだ。

 うつ伏せから仰向けの体勢に変えてやった。果たして体勢を変えるのが適切な処置なのかは分からなかったが、その格好では息が苦しくなるだろうと思ったのだ。

 体勢を変えた時、キネタの口の奥から苦しそうな声が漏れた。見れば、ジャージの右脇腹のところが破けて真っ赤に染まっていた。ジャージをめくると、深い切り傷が走っていた。おそらく転落した拍子に木の枝かなにかで切ったのだろう。

 ――回復させられるはず。

 昨晩アダムは凛音の指の傷を瞬時に治した。アダムから“力”を授かった凛音ならば、アダムにできることならなんでもできるはずだ。

 傷口を指でなぞる。次の瞬間、患部が瞬時に沸とうした。そして間髪おかずかさぶたと化した。さらにもう一度なぞるとかさぶたははげ落ちててピンク色の真皮が張った。

 キネタの服をまくり上げて身体中をさわり、大小ある傷にも同じことをした。目に見える限りの外傷すべてに治癒ちゆを施した。それでもキネタの顔色は青白いままで変化はない。保健室、いや、病院まで運ぶ必要がある。それも今すぐに。

「聖歌ちゃん」

 崖の上に向かって叫ぶと、聖歌が顔をのぞかせた。色を失った瞳が凛音を見返した。

「コイコちゃん達に伝えて。キネタさんは親切な人たちに助けてもらった。車で今から病院に連れていく。私も一緒。そう伝えて!」

 聖歌は小さく頷いた。きびすを返し、ランニングコースへと引き返していった。

 両手でキネタの背中と腰を支え抱える。いわゆるお姫様だっこの格好だ。

 凛音は大地を蹴って空へと上昇した。初夏の青色広がる空の高みから周囲百八十度を見渡した。

 方向を見定めて、加速した。行き先は母親の勤務先。街の市民総合病院だ。

 上空から窪地の林へと降りていくコイコとアイナの姿を見つけた。二人は誰もいない場所に向かって走って行くことになるが、そのことを伝えている時間はない。

 家々の屋根の上空を、高い建物の隙間を凛音は飛んでいく。もちろん二人の体は透明化しているから、道行く人に指を向けられることもないし、悲鳴を上げられることもない。

 空を飛ぶのはそう快なことだが今回は違う。一人きりで飛ぶならともかく、もう一人を抱えた状態なのだ。落下させたり、傷にさわったりせず、さらに安定状態を保ちながらの飛行をしなければならないので、これまで以上の集中を要した。

 しかもキネタの健康状態は不明だ。どこか痛いらしく小さくうめいている。もしかして抱き方が悪い? 何かを壊すのは簡単なことなのに何かを守るのってその倍は大変だ。

 病院が見えた。十四階建てで塔のような形をしていて、各階が入院病棟になっている。診察や検査、手術を行うのは一階、二階だ。

「……ママ?」

 弱々しい声。キネタが目を覚ました。キネタの半開きになった両目が凛音に向けられた。「メガネさん!?」

「動かないで」

「どうして?」

「理由は後で。今は眠って」

 キネタの両目が閉ざされた。催眠術はかけていない。キネタの肉体の疲れがそうさせたのだ。

 病院の敷地内に入った。西欧風の石畳いしだたみに降り立って透明化を解くと、キネタを抱えたまま搬送口から病院の中へ飛び込んだ。ミルク色の壁とまぶしい蛍光灯の光に出迎えられた。入り口近くを歩いていた病院の職員にかけ合った。

「急患です!」

 職員は面食らっていたが、見上看護師長の名前を、病院令嬢・三枝さえぐさあざれの名前を出すと問答無用で速やかに動いてくれた。

 すぐに担架に乗せられ、救護室へと運ばれて行った。

 ひと安心して救護室前の二人掛けのベンチに腰かけた。すぐにスマートフォンが振動した。聖歌からのテレビ通話があった。

「おいおい、メガネさんマジかよ!」

 電話の持ち主の聖歌を押し退けるようにして画面に飛び込んできたのはコイコだった。

「わっ! わっ! そこマジ病院じゃん! ウケる! 本当に病院まで連れてってくれたんだ!」

 そういうコイコたちがいるのは学校周辺の雑木林のあたりだった。周りにはアイナとサトもいた。そこには体育教師・青山の姿もあった。

「今からそっち行くんでよろしく!」

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