第8話 レザーをまとった女(5)

「アンタもレザー趣味だったわけ? なんかかぶっちゃってんじゃん。アタシの真似した?」

 黒江くろえの口調はうれしくもなければ悲しくもなさそうだった。

「黒江を参考にしたのは確か」凛音りんねは言った。「でもレザーが好きなのも確かみたい。レザーを着てる男の人を見たときになんか興奮しちゃったの。今まで感じたことがないくらいにとても激しく。思わず奪ってきちゃった」

「いいじゃん、似合ってるよ」

 杏菜あんなは言った。

「うん、悪くない。アタシ好みだ。かわいいよ、ソレ」

 黒江は言った。

「ありがとう」

 服一つでこんなにほめてもらえるとは思わなかった。ありがとう、山嶺やまみね篤志あつし

「いやいや、最悪です。はっきり言って評価に値しません」

 四番目の人物がそこにいた。またしても少女だった。髪は腰に届くほど長く、身長は女性にしてはかなり高かった。超感覚を持ってしてもその接近に気づけず、凛音は出し抜かれた気分だった。

「どう最悪なんだ、三枝さえぐさ

 杏菜が言った。

「まずレザーってのがいただけないですね。センスが古い」

「お前の格好よりマシだよ、アバズレ」

「何度も言ってるでしょう。私の名前はあずれ、アバズレではありません。『ア』『レ』しか合っていないでしょうが。また挑発する気ですか? 安っぽい手ですよ、周黒江。私を挑発することはかないませんよ!」

 三枝あざれという名前の女は眉にしわを寄せ、顔面を真っ赤にしてまくし立てた。

 あざれは息を吸い、呼吸を整えた。

 あざれの瞳が凛音を正面から見すえた。その時三枝がとても整った顔立ちをしていることに気づいた。高い鼻梁びりょう、小さな顔、柔らかそうな白肌。とても美人だ。

「その露出の雑さにうんざりです。肌を見せればいいというのですか? そんなので喜ぶのは男子中学生ぐらいですよ」

「それで何か問題が?」

 黒江が言った。

 あざれは無視した。

「芸がないのです、あなたの格好には。点数をつけるなら0点ですよ。もっと美的感覚と知識を学ぶべきです」

「うん」

「よろしい」

 ここで初めてあざれは笑顔を見せた。あどけない笑顔だった。凛音は自分と同い年くらいと見積もった。凛音が片手をさし出すとなざれはぷいと顔を背けた。

「握手は嫌いです」

 あざれは言った。

 あざれの服装は、昔のアメリカの水兵が着るようなセーラー服。下はスカートではなくパンツだ。体のラインにピッタリ吸着するタイプでボディラインが際立ち、あざれのモデルみたいな体型によく似合っていた。なるほど、人に説教できるだけのセンスというものはそなわっているようだ。全身白一色で、闇の中で目を引いた。

「話は終わりか?」

 杏菜が尋ねると、あざれは満足そうにうなずいた。

「以上大変楽しいお話でした、ありがとうアバズレ」

 黒江は小さく拍手した。

「その呼び名を止めろと言ってるでしょう」

「なざれさん、忠告ありがたくちょうだしま――」

 謝意を示そうとした凛音だが、その言葉は最後まで形にならなかった。

 全ての注意を持っていかれた――凛音だけじゃなくその場の全員の注意がだ。

 給水塔の前に立つ影を見た。

 アダムが姿を現した。

 凛音は廃ビルの上に稲妻が落ちてきたかと思った。 

 閃光、雷鳴、振動、立ち込めるイオン――そういったものは実際にはなかったのだけど、凛音にとって記憶をあざかれるくらいに強い衝撃をもたらした。

「みんなそろっているね。仲良くお話ししてくれてうれしいよ。僕が今更紹介して回るのは野暮というものだね」

 アダムは凛音たちに近づいた。はね上げた髪。プラチナピンク地のスカジャンの下に履いているのがただのジャージとは信じられないほど、その身のこなしは洗練され貴公子じみていた。

「アダム」

 杏菜がアダムの前でひざをついた。アダムを熱を含んだまなざしで見上げると、その雪のように壮絶に白い手を取り、口づけた。凛音は地下書庫でその肩に触れられたことを思い出す。ほのかに体の芯が熱くなる。

「アダム」

 あざれも同じようにした。アダムの手を取ると自身の顔に引きよせほおずりした。まるで顔と手が永遠に離れ離れにならないようにこすりつけた。気のせいか、あざれの水兵服の下で心臓が早鐘はやがねを打つ音が聞こえてくるようだった。

 黒江は二人のようではなかった。アダムと距離をつめ、ただ視線を向けるばかりだった。アダムのその美貌を目に焼きつけるかのように。皮ふを通り越して血や骨の位置まで解き明かそうとするかのように。無遠慮、ハラスメント的であるといっていい視線だった。一方、アダムは『モナ・リザ』みたいな微笑ほほみ返すだけだった。

「見上凛音」

 アダムは言った。そのまなざしが凛音に向けられている。右目は黒色、左目は緑色だった。

「はい」

 凛音は一歩近づいた。

「やっと会えたね」

 アダムは両手を広げ、凛音を抱きよせた。

「ありがとう。君と出会えてうれしい。心からそう思う」

 耳元でささやかれた。

「そんな、もったいない」

 こわばった声がのどの奥からこぼれ出した。

 アダムの両手がレザーを着た背中に、むき出しの腰にふれている。彼の存在は太陽だという真実を凛音は知った。彼なしでは凛音は死んでいるも同然だった。凛音は強く抱き返す。手のひらにスカジャンのサテン地がさらさらと気持ちよかった。

「プレゼント、気に入ってくれた?」

 アダムはささやいた。

「はい」

「“力”こそ君に必要なものだった。アレを受け入れた君は 自 由 を手に入れたんだ」

「 自 由 」

「そうだ」

「私、とてもお返しできない」

「返す必要はない。君のものだ。永遠に」

 凛音はアダムを愛していると思った。同様にアダムは凛音を愛していると思った。アダムのためなら何をしてもいい。ここから飛び降りて死ねと言われたらそうするだろう。その辺に落ちてる木片を拾い上げて自分の眼球をくり抜けと言われてもやはりそうするだろう。

「その“力”を使って好きなことをするんだ。君がしたいことは何だってできる。僕はそれを見たいだけなんだ。それが僕の欲望なんだよ」

「好きなことが分からない」

「火を燃やして。心の欲望の火を。そうすれば自ずと分かるはずだ。もしまきが足りないのだとしたら僕がくべてあげよう。呪文は覚えているね?」

「ハギエル・アゼルエル・ベルゼブル」

「そうだ」

 アダムは微笑んだ。

「それで、お二人はいつまでくっついているのですか?」

 あざれは凛音をにらみつけた。

嫉妬しっととはみにくいな」

 黒江が茶々を入れた。

「あなたは悔しくないの? こんな新人にアダムを独占されて」

 黒江は肩をすくめた。「アダムは独占できない。みんなのアダムだろ、なあ」

「今日お呼びしたのは」杏菜が言った。「凛音を正式に“使徒しと”に加えるためですね」

「その通り」

「“使徒”って何?」

 アダムが凛音の体から離れた。その瞬間凛音は寂しさに襲われた。まるでアダムと密着していられることが平常状態だと脳が誤解しているようだった。いまアダムは背を向けていた。そのスカジャンの背中には首を切り落とされた龍の刺繍ししゅうが施されていた。

「特別なアダムの信者ってところさ」

「黒江さんの説明はいつもおおざっぱ過ぎます」

「じゃあ、あざれは何ていうんだ?」

 そう話しながらあざれと黒江は服を脱いだ。脱いだ衣服は、黒江はそこらに放り投げ、あざれは折りたたんで鋼材の上に載せた。

「どうして脱いでるの⁉︎」

 凛音は叫んだ。

「“使徒”になるのに必要だからだよ」

 杏菜は凛音のレザーの前ボタンを手をかけ、ほどいた。いましめを解かれた両の乳房ちぶさが露わになった。

「一度身につけていたものを脱いで、生まれたままの姿になるんだ。使徒になるには自らと俗世を切り離し、己を確固たる一生物としなくてはいけない」

 生まれたままの姿に三人はなっていた。凛音も意を決して丸裸になった。

 荒い呼吸が口をついて出る。心臓の脈打つテンポが上がる。

 ほとばしる恥の感情と、全身を隠すものが消え去ったという開放感とが横糸と経糸たていとをなして説明しようのない興奮をりあげているのだ。

 凛音、黒江、杏菜、あざれは手をつなぎ、輪を作るようにして並んだ。誰かに命令されたわけでない。まるでそうするのが当然であるかのように四人はそうした。

 “力”がみなぎっていくのを感じる。輪を作ったことでなにか強い霊的な強い“力”がお互いの体内を循環し始めたのだ。

「今手を離してはダメだよ。幽光エーテルが暴走し、無事では済まなくなる」

 アダムが何処かから手のひら大の壺を取り出し、中身を使徒たちの頭のてっぺんに注いでまわった。中には油が入っていた。爽やかなハーブの匂いがする。

「ガルバナムの香油。聖書にうたわれる香油さ」とアダムは言った。

 髪を伝って全身に油が垂れてくる。皮膚が油を吸い込む。体がぬらぬらとして、月の光を怪しく照り返した。

 アダムも裸だった。凛音はその体から目が離せなかった。アダムの繊細な肉体が美しかった上に、中心部には男性器があったからだ――それは凛音が初めて見るものだった。それだけではなく、アダムにはかすかながら乳房もあった。黒江が彼を彼女と呼んだ理由がここにきてようやく分かった。アダムは両性具有りょうせいぐゆうなのだ。

 歌が聞こえた。アダムだ。高い声でも低い声でもなかった。お経のように節はなく、ひたすらに言葉を羅列られつさせているようだ。凛音の聞いたことのない言葉だった。きっと黒い本に書かれているのと同じ言葉なのだろう。

 みんなアダムにならって歌い始めた。凛音も歌った。自分でも驚いたことに、言葉が口をついて出てきた。私はこの言葉を知っている。爪を何センチも長く伸ばしたり、空を飛んだりする術を知っているのと同じように、魂が発声のしかたや意味を知っているのだ。


 栄光あれ、ベルゼブブ

 願わくは、永遠の繁栄を


 繰り返される文句ライム。繰り返される律動リズム。気分はどんどん高みにのぼっていく。意識がぐちゃぐちゃになっていく。

 凛音は発情した猫みたいに叫んだ。

 他のみんなもそうした。

 自分と他人との境目が溶けていく。

 輪は崩れて、その裸身を油にまみれさせた五人はもつれ合った。

 肌と肌がぶつかり合う音……。

 したたる水の音。

 それから五人は狂熱のなかに頭の天辺てっぺんまで沈み込んだ……。

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