第6話 レザーをまとった女(3)

 その女はグラスをかたむけ、エメラルドグリーン色の液体を喉へと流し込んだ。凹凸おうとつを描くボディラインを包むのは、前をはだけたオープンシャツにブラックのタイトスカート。

 ――超マブイ、ストライク。

 山嶺やまみね篤志あつしはリーゼントにした前髪をなでつけ、サングラスをかけ直すとスピーカーから流れるローリング・ストーンズの『悪魔をあわれむ歌』の原始的プリミティブなリズムに体を揺らしながら、それとなく女に近づく。

「ヘイ、いい夜だね」

 女のいる脚の長いテーブルの上に自分のビアグラスをおいた。

「ここ、いいかな?」

「消えろ」

 女は言った。

「そんなに冷たいこというもんじゃないぜ。一緒に楽しくお話したいだけなんだよ、ベイビー?」

 女はハンドバッグからティッシュペーパーを取り出し、カーッとタンを吐いた。丸めて篤志に投げつけてきた。

「わ、悪かったよ。俺が悪かった」

 山峰篤志はビアグラス片手にすごすごと立ち去った。

 バーカウンターの席に戻り、つまみのピスタチオをぽりぽりやりながらビールを口に運んだ。

 ダンスホール〈マジカル・クロック〉は平日の夜にも関わらず盛況だった。薄暗い店内を輝かせるミラーボールの明かり。音楽に合わせて我を忘れて肩を、手を、腰を振る酔っ払いたち。バーカウンターでは顔に笑いを貼りつけたバーテンダーたちが横一列に並んでシェイカーを振る。

「きょうもお盛んね、ア ッ チ ャ 〜 ン 」

 隣に高身長の女を連れた高年の男が笑顔を向けた。

「村木のオヤジさん。お久しぶりです」

「素敵じゃない。今日のカッコ。イ ケ て る わ よ 〜 」

「ありがとうございます。苦労して金ためてそろえたんス。今日この格好で初出動っすよ」

 篤志はちょっと気分がよくなって、立ち上がると全身をこれみよがしに一周りしてみせた。革ジャン、革パン、革ブーツ。

「こんなの女の子が黙ってないじゃない」

「それがですね」

 歯切れの悪い口調で今夜何人の女の子に振られたかを告げた。 

「えっ。三十人? 嘘でしょ? 一人ぐらい引っかかってもいいくらいの人数じゃない。どんだけ女運悪いのよアナタ。おはらいしてもらった方がいいんじゃないの?」

 声をかけた女の子全員に無視された。全員というのは言葉のあやではある。反応をしてくれた女子もいたが、周りの子に止められたり、連れの男に止められたりされたので関わり合いになれなかった。

「せっかくモテようと頑張ったのに、なんだか悲しいっすよ。努力って報われるわけじゃないんですね」

 山嶺篤志はちびちびと酒を口に運んだ。

「そんな悲しいこというもんじゃないわよ。悲しいことばっかりこと考えていると悲しいことしか起こらなくなるものなのよォ、アっちゃん」

 村木はバーテンダーにウイスキーの水割りを頼んだ。自分と隣の席の女と、それから篤志にも。奢ってもらった酒が届くと、山峰篤志は感謝をしてぐいっと飲んだ。「うまいっす。ありがとうございます」

「アッちゃん、あなたにいいお話をしてあげる。ベーブ・ルース、知ってるかしら?」

「ベーブ・ルース? 知らないっす。昔 の ロ ッ ク バ ン ド で す か ? 」

「おバカねえ。昔のアメリカの野球選手よ。超有名なのに知らないの? 知らないのね。じゃあ教えるわ。彼はホームラン王と呼ばれたの。その記録は今でも塗り替えられていないわ」

「すごいっすねえ。で も 大 谷 翔 平 が す べ て を 塗 り 替 え ま す よ ォ 」

 得意げな顔でバットを振るしぐさをする篤志。

「いまは大谷のことは忘れてちょうだい。そのベーブ・ルースだけどね、ホームラン王と呼ばれたと同時に三振王とも呼ばれたの」

「三振王。そいつは不名誉ですね」

「そうかしら? あたしはそうは思わないわね。だって、ここから素敵な教訓が読み取れるわ。成功している人はそれと同じだけ失敗もしているってことなのよ。つまり失敗を重ねればそれだけ大きな成功が待っているっていうワケ。あたしの言いたいことお分かり?」

「つまり、俺が振られまくってるのは正解ってことですか?」

「そうざます」

 村木はウインクして指をぱちんと鳴らした。

「勇気が出ましたよ。ありがとうございます、村木のオヤジさん。ベーブ・ルース精神ですね。俺今夜もうちょっと頑張ってみますよ」

 バーカウンターの席を二つほどはさんだ先にいた女の子が目に止まった。美人だった。胸の大きさを際立たせるぴちぴちなティーシャツと黄色いベルボトムジーンズ。クリームを使ったカクテルを飲んでいた。唇の間に押し込まれるのは、クリームの上にのっかっていた真っ赤なマラスキーノチェリー。

 ――グッとくるね。

「はぁ〜い、お姉ちゃん。調子はどうだ〜い?」

「なんだお前、ブッサイク。来てる服装もダセえ。死んじゃえ」

 女はケタケタと冷笑を浴びせてきた。

 悪霊みたいな女だ。篤志は呪われないうちに脱兎だっとのごとく逃げだした。話を聞いていたらしい村木もおびえた顔で女を見つめて、それから哀れみの表情で山峰篤志に視線を合わせてきた。

「俺は負けませんよ」

 山峰篤志は言った。

 店内を満たすたばこ臭い空気の中に、耳慣れたゴキゲンなギターリフが響き渡った。これはT-レックスの『20thセンチュリーボーイ』。篤志のお気に入りナンバーのひとつだった。テンションは一気にバク上がりする。

 ――よっしゃ、次の女の子に声をかけようかな。

 あれ?

 ふと視線に気がつく。

 首をめぐらせると、クラブ出入り口の戸口に立って篤志を見つめている女の子がいた。ダンスホールの人ごみをって、まっすぐこちらに向かってくる。

 女の子が向いている方向には篤志しかいない。

 あれ、知り合いとかだっけ?

 大学の同級?

 そんなことはない、女の子は十歳は年下に見えた。

 その服装が目を引いた。

 こういう場所にはふさわしいとは言えなかった。というかどこにもふさわしくない。こんな格好したやつは深夜のコンビニにだっていないだろう。

 女はパジャマ姿だった。花柄プリントの白地(それは万華鏡のようなミラーボールの光を反射している)のやつで、手足の先までを包みこんでいる。

 ダサい恰好なのはパジャマのせいだけじゃない。女はボブヘアーというよりはおかっぱといいたくなる髪型。丸メガネ。足には何もはいておらず、むき出しだった。どこを歩いてきたのか赤黒い土がその小さな指先を汚している。

 頭に無数のハテナマークを浮かべながら、篤志はなすすべなく女が近づいてくるのをながめていた

 人々がひしめき合うダンスホールをすり抜けてくる様子はまるで、あしの原野をかき分ける野生のピューマのよう。メガネの鏡面きょうめんがキラリとダークピンクの照明を反射した。

 ――20thセンチュリーボーイ! アワナビーユアットーイ!

 スピーカーは割れんばかりの音をがなりたてる。

 バーテンダーたちはカクテルを作るのに忙しい。村木のオヤジさんはなにやら自分の話に夢中になっている。

 パジャマの女は目の前まで迫ってきた。なぜか大きく息を切らしている。

「あんた、誰だい? なんか用かい?」

 そういう篤志の声は震えていた。両手はわれ知らずボクサーみたいにガードの姿勢を取っていた。

 猫のように曲がった背を正し、女は視線を合わせてきた。メガネの奥の両の目は寒気がするぐらいに鋭い。篤志より確実に年下ではあるが、さっき見積もったよりも低年齢ではないにしろ、酒が飲めない年齢であることは間違いないようだ。

「あんた、ちょっと、いい?」

 女は呼吸を乱れさせたまま言った。ハスキーボイスが耳に残響する。女の小さな左手の先は出入り口の方を向いている。

「ツラ貸せってことかい」

「そう」

「悪いけど、おいそれとは行けねえよ。俺はここでビールを飲んでんだ。よほどの頼みでもねえ限りは動かねえぜ」

 じろり。女の眼差しは暴力的なまでに強かった。全身に針が刺されているような心地がした。ビールグラスを持つ手が震える。

「私とさ、トイレ行こうよ」

「は?」

「アンタにお願いしたいことがあるの。あのゴメンナサイ、私興奮が抑えきれなくて。へへへ。アンタの格好を見たときにコレだ! と思って。へへへ」

 絶対やばいやつだ。

「ちょ……ちよっと待ってくれよ」

 篤志はあたりを見渡す。さすがにパジャマ女は目立つらしく、周囲の視線がにわかに集まってきているの。

 ――おい、あのレザー男とうとう相手に困って変な女に声かけてるぞ。いよいよ必死だな。そんな声が聞こえてくるようだ。

 ――おいおい、勘弁してくれよ!

「悪いけど、あんたとじゃ無理だ。だいたいトイレに行ってどうするんだ。なにか破廉恥はれんちなことでも考えているのかよ。俺はイケてる女が相手じゃないとダメだ。それになんなんだよ、その恰好。ダサいを通り越してヤバいぜ。大体お前はガキだろ。ガキはムカつくんだよ。家帰ってミルクでも飲んでろ、な?」

「欲しいのよ。なにか見返りだってあげるから。ねえ、お願い」

「いい加減うぜえよ、家に帰りなお嬢ちゃん」

 女は黙り込んだ。女の呼吸は荒いままだった。上下する胸はガキにしてはデカい方だった。しかりつけるより五年後に再会する約束でもしとくべきだったかと一抹いちまつの後悔がなかったわけではない。

「おい、さっさと消えねえと――」

「頼んでもダメかあ」

「おう、ダメもダメ。ママとパパのところに――」

 篤志は意識を失った。

 唐突に意識が暗闇に飲み込まれた。

 そうなる直前に見た気がする。女の目が光ったのを。すみれ色に輝いたのを。

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