第4話 レザーをまとった女(1)
同時に地下書庫での出来事をすべて思い出した。
ナイトテーブルの上の目覚まし時計は真夜中の、
約束の時だ。
〈来て〉
脳裏に響き渡る声。
――あの人の声だ。
――私を呼んでいる。
〈ここへ〉
〈今すぐに〉
こうしてはいられない。今すぐ出かけなくては。凛音はベッドから半身を起こした。
カーテンを締め切って電灯はすべてオフにしているのに、部屋のすみずみまではっきりと視認できた。本棚に収められた教科書の背表紙の文字まで、壁に画びょうで貼り付けたミレー『
感覚がさえ渡っていた。今まで見えなかったものが見える。今まで聞こえなかった音が聞こえる。あの人が言っていた「
裸足でフローリングの床に立ち、ワードローブに向かった。衣服がハンガーに吊るされている中から、セーラー服に手をかけたが、着替えるのはやめて、凛音はパジャマのまま出かけることにした。どうせ夢なら(凛音は夢だと思っていた)パジャマのままで十分だと皮肉げに考えたのである。
机の上の
パジャマの胸ポケットに口紅の容器を収めると、凛音はベッドの横の窓を開けた。外気は学校を出た時よりずっと寒くなっている。耳に届く夜の音――風に揺れる街路樹のささやき声、遠くを走る自動車やバイクのエンジン音。
窓の外へと身を乗り出す。地上五階の高さから落下したらただじゃすまない。コンクリートタイルの地面をキャンバス代わりに、
凛音はむき出しの足を窓がまちのアルミサッシの上に乗り上げた。窓のレールが足に食いこむ。私は落ちることはない――奇妙な確信があった。
「おおーい!」
地上から叫び声が上がった。凛音の
面倒になる前に、目の前から消えてやろう。
凛音はアルミサッシの足場を蹴って、下弦の月に向かって飛び上がる。男の絶望的な悲鳴が夜にこだまする。
凛音の体は支えを失った。地面にではなく天空に向かって落ちていく――雲の切れ目から無数の星々が
凛音は空中でトンボを切って、体を180度回転させた。
再び落下の予感があったが、鳥のように両手を広げ、
「 ハ ギ エ ル ・ ア ゼ ル エ ル ・ ベ ル ゼ ブ ル 」
秘密の呪文を唱えた。
すると、下から上へと押し上げる力に支えられて、重力に拮抗し、体が宙に浮く格好となった。
遥か地上では先ほどの紺スーツの男が凛音を指さして立ち尽くしている。不思議と男の表情が近くに感じられる。絶望と恐怖に硬直した顔。凛音はおかしくなって笑った。あはは。金属を引っかくような甲高い笑いが喉の奥からほとばしった。
「まだ酔っ払ってんのかな、俺」
重力に
「そうだよ。あんたは酔っ払ってるんだよ。あんたがいま見ている私は幻なの」
愚かな男を嘲笑する。彼は空を飛ぶ方法を知らない。私は知っている。知らない者は愚かだ。
「あんたが今見ている私は夢。さっさと家に帰ってベッドに入ることだね」
かくいう私も夢を見ているのだ。とても甘い夢を。ずっと脳内にエンドルフィンとドーパミンがあふれかえっている眠りの中に私はいるのだ。
――舞い上がれ。
さらなる高みへと上昇する。
星が近くなった。かなり高いところにいる。凛音の住む地域はもう豆粒にしか見えなくなった。海の方に目を向ければ、市街地の明かりが闇夜をはね返すように輝きを放っていた。
高い展望台から見渡すような絶景が眼下に広がった。展望台と違うのは暴力的なまでの強風が吹き付けてくることだ。髪をかきあげ、パジャマの裾や袖から入り込んではコットンの生地を震わせた。
〈来て〉
声が聞こえた。甘く優しい声。それは天空全体から響き渡ってくるように凛音には感じられた。
腹の底から
〈ここに来て〉
市街地に目を向ける。彼/彼女はそこにいる。なぜかそれがわかる。
「いま行きます」
市街地に向かって体を投げ出した。ハヤブサのような勢いで凛音は飛んでいった。
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