第3話 黒い本(3)

 話は少し前にさかのぼる。

 廃棄図書リストを片手に凛音りんねは本棚のジャングルの中を分け入っていった。A4用紙にプリントアウトされたリストには、ざっと百冊。これら全ての所在を確かめつつ、ピックアップしなくてはいけない。

 さっき時刻を確かめた時、司書室の丸時計は午後五時を告げていた。できれば六時には帰りたいけど、多分無理だろうな。司書の先生はいるけど司書としての仕事があるから残念なことに力になってくれない。

 作業の前、司書の先生から『他の子はどうしたの』と聞かれた時、返事にきゅうした。聖歌は今ごろタッくんとパーティで楽しんでいるのだろう。もうひとりのあまり仲良くない男子生徒は自宅でNintendo Switchでもしているのかもしれない。

『ひとりでやるのなんて大変だよ』

 司書の先生は言った。

『いいんです、私、そうするって決めましたから』

 司書の先生は両手を組み、感心したようにうなずいてみせた。

『凛音さんは責任感が強いのね。見直したわ』

『そうなのでしょうか』

『がんばってね。困ったことがあったら呼んでね。上にいるから』

 責任感――なんとなく苦手な言葉だ。何故かわからないけれど。

 リストとにらめっこして、その本が置かれてあるはずの書架しょかを探す。

 本棚同士の間隔はせまく、場所によっては中段ぐらいまでしか明かりが届かない。スマートフォンのライトを起動して辺りを照らしていると、なんだか自分が冒険家になって洞窟の中にいるような気分になった。

 ――この学校にはどうしてこんなに本があるんだろうか。以前に誰かがそんな疑問を口にしたことがあった。

 司書の先生はこう答えた。

 ――創設者の意向よ。知っての通り、学校の創設者は明治の頃来日したアメリカのシスター・アリサ。アリサは読書を学習の基本ととらえ、生徒のためにたくさんの本を用意したのだという。創設者の意思を引き継いで、昭和時代になってからは学校とは別棟にたくさんの本を備えた大きな図書館を建てたのだった。

 ところで凛音の学校にヤンキーが多いのはこの創設者の意向によるものだ。創設者は多くの人に学習機会を与えるべきという方針だった。そのため、毎年入学希望者の学力を度外視どがいししてたくさんの生徒たちを迎えてきた。この大らかな方針が裏目に出て、今や市内でも指折ゆびおりのヤンキー高校となっている。

 とまあ、そういうわけで創設者の意志を継いで毎年大量の新本を仕入れては、誰からも興味を持たれず読まれもしなかった大量の本を廃棄しているというわけだ。

 海外翻訳書の棚にやってくる。ありがたいことに、リストのほとんどはここに集中していた。

 凛音自身は本が嫌いではなかった。家族は本を読む方だ。父親の残していった本棚にはスティーブン・キングの文庫本が三十冊ぐらい収まっているし、フィリップ・K・ディック、マイケル・クライトンなどおびただしい数の海外文学がある。母親はミステリー小説をよく買って仕事の休憩時間に読んでいる。読み終えた本は凛音と花鈴かりんとで分け合っている。西村京太郎のトラベルミステリーは花鈴のお気に入りだ。

 本棚を見れば、面白い本はないかとつい物色してしまう。凛音は妙な本を見つけた。ブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」と「レス・ザン・ゼロ」の間にはさまるようにして、その本はあった。

 背表紙は黒一色で、一瞬そこに隙間があるかのように空目した。手に取ってみた。表紙も真っ黒だった。

 不思議な感じだ。他の蔵書ぞうしょは経年劣化で表面が柔らかくなっていたり、背表紙がもろくなっていたりするのだが、この本だけは真新しい。「真新しい」というのも表現としてなじまない。表紙だけみると「本」という感じがないのだ。二年前に教会で行われた叔父さん――つまり父親の弟さん――の葬式で時に見た棺桶かんおけの素材によく似ていた。

 何より奇妙なことにはこの本にはタイトルがなかった。

 ページをめくる。白紙だった。何枚めくってもそこには何の記述もなく、ただ無意味な空白だけがあった。

 何この本。

 紙を指でなぞるとなめらかな感触が残った。これほど素晴らしい紙質にふれたことは一度もない。祖父の家の一冊一万円したという百科事典だってこれには劣る。

 ひょっとしていたずらだろうか。何も書かれていない紙を仕込み、誰かが驚くさまを影から見てほくそ笑むのだ。

 しかし、こんな場所でこんな上質な冊子を仕込むという手のこんだいたずらをするものがどこにいるだろうか?

 ページを半ばまでめくったときだ。人差し指に鋭い痛みが走った。見れば指の腹に細い切り傷ができていた。皮膚の表面が紙で切れたようだ。

 指から垂れた血の一滴が紙面に落ちた。白色の大海に赤の花びらが開いた。

 やばっ。

 備品を汚したことへの罪悪感に凛音は恐れおののく。慌てて両手から本を離してしまった。本はリノリウムの床に落ちてしたたかな音を立てた。凛音は怪我けがした指を口の中にくわえ入れた。舌の上に赤錆あかさびの味が広がった。

 本をきれいにしなきゃ、指の怪我を手当しなきゃ。どっちを先にしたらいいの? 凛音は軽いパニックに襲われた。とはいえパニックも長くは続かなかった。驚くべきものがそこに現れたからだ。

 凛音はそのつぶらな両目を見開き、我知らず息をついた。

 床の上で本が両開きになっていた。凛音が汚したページだ。今まではなかったものがそこにあった。

 文字だ。

 血液が隠された文字を浮かび上がらせたのだ。


〈??〉


 凛音の知らない言葉だった。文字というよりは図形に見えた。横書きで2つの文字が書かれているようだった。それは古代エジプトや古代メソポタミアの象形文字を連想させた。


〈読め〉


 突如、脳裏のうりに意味が浮かんだ。

 ――読める、この文字が。

 ――なんで? どうして?

 好奇心が勝って、理性を置き去りにした。

 ――知りたい。

 永遠の秘密を解き明かしたいという興奮、高揚感。文字を浮かび上がらせるがいる。凛音は唇の間から指の先を取り出す。傷はまだえてはいない。唾液だえきのヴェールに包まれた傷口からじわりと紅色の血液がにじみ出した。

 凛音は本に向かってかがみこむと〈読め〉と書かれた箇所の周辺に指を滑らせた。刺すような痛みが走った。ページには血液と唾液の入り混じったインクがぬりたくられて、隠されていた文字が浮かび上がった。


〈その文言を読め〉

〈出現させるのだ〉

〈ハギエル・アゼルエル・ベルゼブル〉


「 ハ ギ エ ル ・ ア ゼ ル エ ル ・ ベ ル ゼ ブ ル 」

 凛音は読み上げた。

 またしても驚愕すべきことが起きた。

 ページいっぱいに文字が浮かび上がったのだ。はじめはうっすらとほとんど目に見えない細さだったのが、次第に存在感を増していき、やがてはっきりと浮かび上がった。

 凛音は出現した文字に目をこらした。

 意味不明な未知の文字が、凛音の心に語りかける。意味を伝える。


〈その魂に悪魔を受け入れよ〉


「凛音、見上凛音。それが君の名前だね」

 その声は凛音の背中越しに聞こえてきた。

 とても落ち着いた声色だった。不思議とブルーを連想させた。ヨーロッパの山間にある湖のブルー。そこは一切の生き物が寄り付かず、人の手に介入されることもなく永遠の静けさを保っているのだ。

 

「あなたは……誰?」

「僕は黒い本から生まれた存在。とても古い時代にシスターを追いかけてこの街まで来たんだ。善きもののいる場所に僕はいるんだ」

 中音域の声。男の声とも女の声とも言える高さ。大人の声とも子どもの声とも言える高さ。

「さて報酬を授けよう。君が望んでいたもの、君が欲しくてやまなかったものをあげる」

「私の……欲しかったもの?」

「そうだ、君の欲しかったもの」

 凛音の肩に手が置かれた。繊細せんさいな細く長い指。押しつけがましくなく、羽のように軽いタッチ。

 彼(あるいは彼女)の手は凛音の肩から腕をなぞり、その手の平を凛音の小さな手に重ねる。その白蝋はくろうのような指先が凛音の指の腹にふれた時、そこに刻まれた傷が消えた。

「きょうの真夜中、零時れいじ。月が闇の中に没して幽光エーテルの力がもっとも高まる時間。それまで待って。それまで忘れるんだ。ここで起きたすべてのことを」

 凛音は忘れることにした。今起きたことを、本のことを、呪文のことを、声の持ち主のことを。

「見上凛音。夜になったらまた会えるよ」

 それから背後の気配が消えた。


 凛音は黒い本を閉じ、ブレット・イーストン・エリスの二冊の隙間に戻した。


 リストを手に取り、作業を再開する。

 次の本は……ラブクラフト全集。

 隣の書架か。

 ああ、この作業いつになったら終わるんだろう。まだ終わりが見えないなぁ。

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