第2話 黒い本(2)

 していた机から顔を上げた。蛍光灯から降りそそぐ黄色い光があたりを照らしていた。

 ――ここはどこだっけ。

 周囲を見渡した。

 凛音りんねを囲むのは本棚、本棚、本棚。床から天井まで伸びる大きな本棚。そこに収められたおびただしい数の本。空間いっぱいに漂う紙魚しみの匂い。紛れもなく図書館の地下書庫だった。

 作業中に眠ってしまっていたのだ。リストにあった廃棄本のピックアップを全て終え、一息つこうと机に顔をふせたところまでは記憶にあった。

 凛音がいるのは、壁際に設けられた書き物のスペース。スチールの机の上には山と積まれた黄ばんだA4用紙と、ほとんど立方体の「Windows98」と書かれたパソコンディスプレイ――みんな処分され損なって置き去りにされていた。

 パイプ椅子から立ち上がって、凛音はポケットのスマートフォンを探った。いま何時だろう。地下書庫はその用途上、日差しの一切入らない場所なので、時間の感覚を失ってしまう。スマートフォンは午後八時半過ぎを表示していた。

「うえー!?」

 驚いて叫んだ。いくらなんでもこんな時間になっているなんて。運動部の生徒だってもう下校している時間だ。教職員だって一人も残ってはいないだろう。

 待って、司書の先生は?

 確か、凛音の作業が終わるまでは待ってくれるという話だった。スチール机の片隅に先生の手書きのメモが残っていた。


〈疲れているようなので起こさないことにします。ゆっくり休んでください。ここに鍵を置いておきます。施錠して出て行ってください〉


 凛音はがっくりうなだれた。

 いやいや、起こして下さいよ。

 好き好んでこんなところで寝てたわけじゃないよ。

 変な心づかい要らないよ。

 メモに添えて、函館山土産のキーホルダーの付いた図書館の鍵が置いてあった。

 いつも午後六時前には帰宅している。こんな時間になっても帰ってこなければ、母親も心配しているはずだ。連絡が来ていないだろうかとスマートフォンの画面に目を移すと、アンテナは圏外を示していた。

 嫌な予感が脳裏をよぎる。母親が早まって警察に連絡してやいないか。今頃まちなかをパトカーが巡回していて、町内会の人たちが消防団と一緒に近所を捜索していて、近くの用水路を長い竹竿でつついて「 い た か ー ! 」「 い な い ぞ ー ! 」なんていうセリフを交わしていて……。

 そして、そこにノコノコ現れる凛音。

 生きてます、ごめんなさい……などと謝っても許してもらえない……なんて流石に大げさか。

 凛音はすぐさま上階に行き、消灯されたガラス張りの玄関ロビーに出る。

 閲覧室に通じる扉はすでに施錠されていて、非常灯のライトグリーンの光が二人掛けのソファを、新聞紙置き場を、ソフトドリンクの自動販売機を闇に浮かび上がらせていた。

 スマホのアンテナはフル表示になった。凛音は自宅の番号に電話をかけた。

『もしもし?』

 舌っ足らずな女の子の声がした。

花鈴かりん!? 私!」

『お姉ちゃん? どうしたの、まだ学校?』

「実はそうなんだ」

 実はそうなんだ、無人の玄関ロビーにかすかに反響した。

『もう先にご飯食べちゃったよ。今夜は豚の生姜しょうが焼きだよ』

「それはいいんだけど……お母さんさ、心配してるかな。電話も通じない状態だったから」

『お母さんはいないよ。今日から夜勤だもん。お姉ちゃんも聞いてたでしょ』

「あ、そうだっけ」

 すっかり忘れていた。確かに昨晩の夕食後にそんな話をした。テレビが面白くなっているところで唐突に話をされてたものだから記憶に残っていなかったのだ。母は今ごろ市民病院のナースステーションで入院患者の見回りでもしている頃だ。引きしぼられていた糸がゆるむような安堵あんど感が全身にしみ渡った。

「今から帰るね。家につくのは九時過ぎくらいになるかな」

「わかった。気をつけて帰ってきてね」

 通話終了。

「帰ろう……」

 誰にともなくつぶやく。その前に地下書庫を消灯しなくてはいけない。凛音は階下に降りて、書物スペースの側に置かれていたダッフルバッグを回収する。部屋を出るばかりにして、電灯のスイッチに手を置いたときだ。誰かの気配を感じた。地下書庫の奥まったところだ。


 凛音は目をこらし、耳をすませた。何も見えなかった。何の音も聞こえなかった。気のせいだったようだ。


 電灯のスイッチをオフにした。書庫が闇に包まれ、本たちは再び眠りにつく。通路をたどり、階段を上がると玄関ロビーから外に出た。

 外は真っ暗で、校舎の方はすっかり消灯されていた。誰もいない学校というのは妙に威圧感があった。

 薄雲をまとわせた月が頭上で輝いていた。図書館隣のヤナギの木は影を帯びて、たれた枝葉を夜風になびかせていた。

 施錠しようとスカートのポケットを探る。ポケットには鍵とそれから他のものが収められていた。鍵とともに取り出すと、遠くの街灯に照らし出されて現れたものは、――指先の感触が前もって伝えてきたとおり――円筒形の真珠しんじゅ色の口紅だった。

 あの時うっかりしてポケットに入れてしまったのだ。あいつら――中年教師たちが神聖なる学びやでイチャついたりするせいだ。明日こそ教卓の上に置いておこう。

 凛音は施錠して図書館を後にし、自転車置き場へと向かう。五月の後半といっても夜になると風は冷たい。夜気が制服のすそのなかから忍びこんできた。

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