第1話 黒い本(1)

 水そうのかたいプラスチックの上ぶたを開けて、水面にエビ粉末のえさを振りまいた。水草の隙間から赤色のヒメダカが二匹、三匹と姿を現す。丸い口がひとつ、またひとつ飛び出しては水面に浮かぶ餌を飲みこんでいく。

 その旺盛な食欲に見上みかみ凛音りんねはいつも驚かされる。

 ――君たちは元気でいいなあ。

 小さな生き物は生きる活力で満ちている。

 それよりも高等であるはずの私はどうしてこんなに生きる活力が欠けているのだろう。

 時刻は午後三時過ぎ。

 キンコンカンコン。終業のチャイムが鳴った。ざわめきたつ教室から生徒たちが足早に出ていく。部活動、委員会活動、アルバイト、学習塾――午後の活動に向かう時間なのだ。

 凛音にも図書委員会の仕事があった。いつまでも油を売っていないで、通学用のダッフルバッグを抱えて図書館に向かえばいいのだが。

 凛音の視線が向くのは教室前方の一帯――そこでは髪色の派手な生徒たちがポッキーを食べたり、モンスターエナジーを飲んだり、マニキュアを塗ったりしている。

 何をするも彼女たちの勝手なのだが、凛音のバッグが提げられている机をとり囲むようにして陣取らないでほしい。

 ただ、凛音にしても、「ごめんねなど」と言ってバッグを回収すればいいだけの話だ。ギャル軍団とて噛みついてくる訳ではない。

 頑張って声をかけてみよう。

 凛音の学校靴が一歩を踏み出そうとしたとき、

「このバッグださくね」

「ダサい」

「おっさんの使ってるバッグだよね」

 などという話し声が聞こえてきたから、凛音はますます気力を失ってしまった。

 行き場のなくなった凛音は教室のすみに自らを追いやり、またメダカの水そう前にやってきた。

 メダカはまぶたのない目玉をかがやかせ、もっと餌はないかもっと餌はないかと水そう内を探っている。

 どん欲だねえ、君たちは。畏敬いけいの念すら感じた凛音は追加で餌をあげた。

「ハロー、りんりん!」

 後ろを振り返ると、ぶ厚いピーチの香りのカーテンにつつまれた。ふわふわのロングヘアに、デカい頭のリボン。右耳に光るマイメロのピアス。クラスメイトの野中のなか聖歌せいかだ。

「ハロー!」

「聖歌ちゃん。ゴメン、待たせちゃったかな?」

 凛音の首筋に冷や汗が流れた。聖歌も同じ図書委員で、一緒に作業をすることになっているのだ。

「いやいや。で、そのことなんだけど、アタシのほうがゴメンだよ。今から謝っとく。ホントーにゴメン」

 そう言う聖歌に浮かぶのはパァッとかがやく笑顔。カラオケボックスで『アンパンマンマーチ』を歌っている時と少しも変わらない、いつもの笑顔だ。

「……えっと、どういう」

「あのね、タッくんがね、今日は特別な記念日だから一緒に過ごしたいって言うの。なので悪いけど、今日の作業休んでもいいかな!?」

「休む!? 一人でやるにはツラ――」

「記念日っていうのはね、きょうはタッくんがプルルをお迎えしてからちょうど一周年なの。それでお祝いするんだ! そうだ、りんりんも来る!?」

 などと聖歌は聞かれてもいないことに答える。なおタッくんは聖歌の彼氏で、プルルはタッくんの飼っているフレンチブルドッグだ。

「でも図書館での仕事があるから」

 凛音は消え入りそうな声で言った。


「本をピックアップして捨てる作業でしょ? そんなん適当に捨てちゃえばいいんだよ。どうせ誰も見ていないんだし」

 聖歌はウインクする。

「聖歌ちゃんは気をつかってそう言ってくれているんだね。ありがとう。私のことはいいから、行ってきなよ」

「りんりん、ありがとう。無理してない?」

「無理してないよ」

「そう? 信じるよ!? 適当なところで切り上げるんよ」

「そうするよ」

 じゃあ、りんりんの分も楽しむからね、聖歌はそう言って去っていった。

 ロングヘアを束ねるデカリボンの揺れる背中を見送って、凛音はため息をつく。

 結局負担を一人でかぶることになってしまった。

 友達の誘いを断ったのには罪悪感があるけれど、かといって仕事を放棄ほうきする気にはなれない。

 適当に本を捨てようが、一度バレなかったからといって次バレない保証はない。他人から責めを負うことになると思うと凛音は怖かった。

 それなら一人きりで作業してしまう方がいい。

 自分の座席に目を向けると、ギャルの一団は立ち去った後。やっとバッグを回収して図書館に行ける。

 乱れた机と椅子、散らばる菓子の粉。コロンやデオドラントの残りが漂っている。どうしてこの学校の女の子たちはみんな香水がきついのだろう? ギャルたちしかり、聖歌しかり。

 机の上にあった口紅に目がとまった。円筒型の容器は真珠しんじゅ色でいかにも高級品に見える。ギャル軍団の誰かの忘れ物だろう。

 キャップを開けてみた。緋色ひいろの柔らかそうな芯棒しんぼうが現れた。当然ながら使われた形跡がある。先端はとがり気味で何度となく女の子の口紅を擦過さっかしただろうことがうかがえる。

 凛音はまだ化粧らしい化粧をしたことがなかった。就寝前に化粧水をほほにつけるぐらいのことはするが、ファウンデーションやアイシャドウ、口紅、そういうものはまだ未知の領域だ。聖歌はそろそろ始めちゃいなよと言う。母親はまだ早いわよと言う。

 それにしても緋色。ひかえめで落ち着いた色ではあるけれど、学校という場所で唇を彩るにしては少し派手すぎる。

 この持ち主はどうしてこの色を選んだんだろう。彼氏とデートのためかな。友達に差をつけるためかな。この色を塗れちゃう子と塗れない子。そこに何千キロメートルものへだたりを感じる。一方にはその女の子、もう一方には私。

 もし仮に、今ここで、この口紅を使ったら、私は何千キロの隔たりを埋められるのかな、その子と私との。

 何考えてるんだろう。他人の使用済みのものを使おうだなんて。キャップを閉めた。

 忘れ物は教卓の上に置いておくのがこの学校の習わしだ。この習わしに従って、凛音は教卓の上に口紅を置きにいく。黒板の手前、教卓のある一段高くなっているところに足をかけた瞬間、奥手にある出入り口からから何者かがなだれこんできた。

「ああ、宮野先生! 宮野先生!」

「坂巻先生! 坂巻先生!」

 それは一組の男女だった。ぴったり身体を密着させ、あやしく腕をからめ合い、ねっとり視線をからめ合っている。彼らは教室のすみに落ち着くと、唇を重ね合った。

 ――うえっ!?

「だめ、坂巻先生、生徒に見られちゃう」

「見られてもいい、見せつけるぞ」

「そんな……ダメよ。見られたら終わりよ」

 ――ここにひとりいるのだが。

 凛音といえば中年男女の突然のれ場にすっかり泡を食らっている。

「ダメ、生徒が来ちゃう! そこに生徒のバッグが残ってる!」

「来ない、来ないさ! まずい! 教頭だ!」

 そうして体育教師と美術教師はくもの子を散らすように出ていった。

「誰かいるの?」

 教頭は教室に顔だけ入ってきて、すぐ出ていった。

 教卓の下から出られたときには凛音はすっかり憔悴しょうすいしていた。

 何だったんだ、今のは。

 凛音には理解不能な出来事だった。

 なんでここでこんなことするの!?

 なんでバレる危険を犯してまで教室であんなことするんだろう?

 第一、宮野先生も坂巻先生も結婚して相手がいるんじゃなかったっけ?

 教室の丸時計の針は午後四時十一分を指していた。これからひと作業あるというのにぐったり疲れる凛音だった。

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