第13話

 その後、まったりと時間が過ぎていった。新しい情報もない。なにより武井は退職届けを出していない。有給休暇届の十一月分を提出しただけだ。まだどこか会社に期待をしているような所があるのだろうか。いや、会社にでは無く元役員と総括部長の動きによっては事態が変わるかも知れない。その時にお二人に迷惑にならないようにそして動きやすい環境である必要がる。静観しておく時期だろう。県内で働く事は全く考えていないがグループの県外で働く事ができないかを期待していた。しかし、何事も無く時が過ぎていった。退職届は一ヶ月前に提出する決まりになっている。時間がない。十一月末に退職届と十二月分の有給休暇届けを提出した。これで決定的となった。そして四階の総括部長のところに挨拶の為に伺った。

「来月に元役員と三人で飯でも食べよう。その時は時間作ってよ。」

「はい。ありがとうございます。」

 武井は勝手に期待していた。もしかしたら次の職場の話しがあるかも知れないと。なぜならばこのお二人は専務だけでなく、他県のグループ企業にも顔がきく。総括部長は来期、役員に内定されている程である。退職は確定的となったが、次の職場が皆無とは思っていなかった。しかし、その思いは無駄であった。十二月九日、叙々苑に招待された。総括部長の第一声。

「武さん、いくら何でも最後に送別会位やってあげようって事でさ。呼び出しちゃってごめんな。」

 最後の砦が崩壊してしまった。

 沢山の思い出話の中で総括部長がポロリと話しだした。

「しかし、昔一緒にマネージャーで競い合っていたのに、こんな風に歩く道が違っちゃうんだね。もっと要領良く立ち回れば良かったのにな。」

 二十年前はそれぞれ現場で部下を抱えて第一線で部隊を動かしていた。元役員も総括部長も組織を大きく大きくチャンスさえあれば人員と活動エリアを拡大していた。具体的には五つの市町村に五十名体制で三百件から四百件の成績。それに対して武井は、二つの市町村で二十名体制で二百件の成績。当然、団体賞も個人賞も武井の部隊が常に上位に立つが会社への貢献度は武井の比ではない。そして今、元役員はそのころ築いた組織を息子に譲り相談役として悠々自適な日々を送っている。そして総括部長はいよいよ来期には役員に昇格が内定されている。武井は還暦を過ぎてグループを追われるように引退を迫られた。この違いは確かに歩く道が違ってしまったと言っても良いだろう。

 そして武井の次の生活は地元に帰って自宅からの通いでの勤めになる。二十五年間の単身赴任生活が終わる。

 実は先日、地元の会社から声を掛けられていた。先方の代表・役員と責任者と四人で駅前の割烹料理店で、「地元に帰る事が決まったら、その時は手伝ってもらいたい。」と誘われていた。とてもありがたい誘いである。決して高い給料では無いが六十を過ぎた、先の短い人間をこのように大切に誘ってもらえる事はありがたいと思った。

 そんな訳でこの日の送別会は全てが決定的となった。その日の内に妻に電話して事の次第を説明した。前もって多少は話していたので覚悟はできているようだった。


 次の日、武井は引越し業者に電話した。二十五年間で九回目の引越しである。今までは全て会社負担で賃貸契約も会社であった。今回は自腹で業者に支払う引越しである。慣れたもので、二社に見積りを依頼した。相見積りである。決して駆け引きなど考えていない。シンプルに安い方にお願いするだけである。十二万円の費用が五万円になった。今迄の見積りで一番安い金額なので多少驚いた。時代が変わったのかも知れない。

 更にいよいよこの地を離れる事になったので、各方面に挨拶に歩かなければならない。まずはグループの専務と勤務していた事務所。武井は専務にご挨拶に伺いたい旨の電話を入れた。週末の金曜日と指定された。手土産を持って約束の時間に役員室に伺ったが留守であった。入り口で待っているとすぐにエレベーターから専務と総括部長が現れた。どうやら部長が立ち会うようだ。テーブルに座るように招かれたが、まずは手土産を渡して挨拶をさせてもらった。そして意外な言葉を聞いた。

「武さん、今回は皆の優しさが分かったんじゃない?」

「はい、ありがとうございます。」

 一瞬何を言われているのか理解できないでいたが返事だけしておいた。後で解った事だが、元役員と総括部長が送別会の場を設けてくれた事を言っていたのだ。そして。

「次の職場を紹介してやろうか、どんな仕事がいい?いろんなところがあるぞ。」

「実はもう決まっておりまして、二月から働く事になっています。」

「そうか、それは良かった。それじゃ送別会を盛大にやろうか。なぁ部長、長年勤めた人を大切にしている前例にもなるからな。」

「そうですね。やりましょう。」

「ありがとうございます。」

 結局事の真相は誰にも分からないままで全てが終わった。役員室を退席して総括部長の部屋に行って二人で話した。

「事の真相を聞きたかったのですが聞いてどうなるものでもないので黙っていました。」と話した。部長は。

「それで正解だよ。」更に。「専務は元役員に一目置いている所があるから、あの送別会が良かったんだよ。」と付け加えられた。しかし武井には何を言っているのか理解できなかった。

 武井は部長との挨拶を済ませて駐車場に止めた車に向かった。保険部門の事務所への挨拶の為に買ってきた手土産を取りに行くために。エレベーターが一階に到着してドアが開くと目の前に社長が立っていた。武井は咄嗟に挨拶をした。そして。

「これから事務所にご挨拶に伺いますが社長いらっしゃいますか?」

「あぁ居るよ。武さん、給料なんだけど。人事が間違えて役職手当が付いたまま振り込んだらしいんだ。後で調整するから。」

「わかりました。すぐに伺いますので。」

 武井は歩きながら思った。エレベーターのドアが開いて突然現れた人間に、咄嗟に話す内容が給料の手違いの事とはなんとも驚いた。そして事務所に行くと皆が笑顔で出迎えてくれた。特に後任の営業部長は待っていたかのように駆け寄ってきた。別の営業マンは餞別として袋に入ったお酒を持ってきた。

「皆さんありがとうございます。お世話になりました。」ありきたりな挨拶をして事務所を後にした。


 いよいよこの地を離れる事が決まった。今まで付き合ってくれた各方面の人達に電話で挨拶をした。本社以外の人達で三十人位に電話をした。ほとんどの人は定年退職で円満に退職して地元に戻るだけと思っているようだ。それともそのように振舞ってくれているだけかも知れない。どちらでもいい。ありがたい言葉を沢山もらった。ただ一人常務だけは違っていた。

「武、電話だけかよ。おまえちょっと会いに来い。来週の月曜日に俺の事務所で待ってるからな。」

 常務は本社ではなく、旧本社の三階に役員室を持っていた。年齢は武井より三歳上で、六十五歳の退任が近い人だ。常務とも長い付き合いであった。とても頭の良い人で話しが上手い。恐らくグループで一番話しが上手いと武井は思っていた。仕事では理論だけではなく営業センスもある、切り込みが鋭く一面怖い人でもある。部門が違うのだが、なぜかこの常務とは何かと仕事上ご一緒する機会があった。クリスマスも過ぎて年末の忙しい時期ではあるが時間を空けていただけたのだ。

 お会いして昔話に花を咲かせた。そして本当に残念に思っていただいているのが伝わった。常務は先月からCSの建て直しの責任者になったらしい。本当に大変な業務で武井のような人間に手伝ってもらいたかったと、しきりにおっしゃっていただけた。ありがたいと思う。

 これで全ての挨拶が終わった。実際にはもっと沢山の人に挨拶する必要があるのかも知れないが、どこまでの人に挨拶をすれば良いのかわからない。

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