第12話

 十月一日。武井の後任の営業部長が入社してきた。細身でやる気満々と言った感じで礼儀正しく挨拶をしてきた。悪い印象ではない。営業の経験が無いと言っても社会人としての振る舞いは全く問題なく賢そうな人だ。保険の勉強は社長が行い、事務的な雑務を女性の営業からレクチャーを受けていた。

 連休を挟んで早速引き継ぎの為に主要な所を連れて歩いた。困ったことに、必ず聞かれることがある。

「武井部長は次にどこへ行かれるのですか?」

当然の質問だが退職するとは言えない。まだ退職願を出していないのに外部で発言することは出来ない。後任を紹介しているのに「まだ決まっていない。」の回答もおかしい。武井はおどけて。

「まだ内緒なんですよ。」とはぐらかすことにした。

 実はこれまで、武井の移動は有名な話であった。ここ十年間で三回は遠方から遠方に移動している。便利な単身赴任社員でキャリアが長い。皆が「今度はどこに移動ですか。」と尋ねるのも頷ける。

 そして二日間主要な所へ連れて歩いたが、社長から苦言が出た。

「資料請求が沢山来ているのに女性営業二人に任せて出歩いているのは何なんだ。仕事が詰まっているんじゃないのか。」

「すいません。引継ぎで歩いていたものですから。」

「そんな事後でも出来るだろう。優先順位を考えなさい。」

「わかりました。あしたは内部で、館内を歩きます。」

 その翌日は社内にいたので、いつものように企画部長と昼食に出た。武井はそこで思わぬ話を聞かされた。武井が後任の部長を連れだした初日に、社長は「何で二人で出歩いているんだ。」と事務所で愚痴っていたと言うのだ。いつもの事だが、社長は直接注意をしないで誰かに愚痴る事が多い。それにしても主要な所を引き継ぎの為に連れて歩く事は社長の指示であり、出張しても良い位の事を言っていたのに。おそらくまた忘れたのだろう。早々に社長と話すのはやめておこう。翌日、引継ぎの経過と今後はどこそこの責任者への挨拶はどうしますかと尋ねた。結果はグループ本体営業部への挨拶は行かなくて良いと言われた。即ち、遠方の営業所廻りはやらなくて良いと言う事だ。明日からは雑務の細かな引継ぎをする事にした。

 数日後、二つの倉庫に置いてある備品・パンフレット関係の説明の為に二人で動いていた。

そこには発注ミスのパンフレットが山になっている。処分する作業は男性である部長の仕事になる。先月から今月にかけての大量の印刷物だ。当然、後任部長は不思議に思う。

「このような印刷物は誰が発案して作成は誰がやっているのですか?」

「あらゆる印刷物関係は社長が全て手掛けています。印刷物も広告関係も社長が一人でやっています。」

「営業部長には相談されないのですか?」

「主要な部分の相談はされた事ないですね。」

「まぁこの手の印刷物の発案作業がお好きなのかもしれませんけど、体制を改善しないといけないですね。」

「その方がいいですね、とにかく印刷のミスが多くて差し替え作業はいつも営業でやっています。こんなことに慣れてしまっているのもまずいですよね。」

 武井は思った。印刷物の原稿作成は社長の自己主張みたいな所がある。社長は気に入った印刷物ができると「どうだ、今度のチラシ。いいだろう。」と持ってくる。

「これいいですね。」と答えるとご機嫌がいい。そこに踏み込むのが吉と出るか凶と出るか。

 武井も経験しているが、社長に改善とか新規提案を持っていくのは危険かも知れない。この後任部長は前向きで良い人材だと思うが社長とぶつかりそうな予感を感じた。印刷物を作成する体制を改善しないといけないと言うのは正しいのだが。

 更に後任部長は言った。「社長の保険研修は当社の商品内容・営業を教える内容ではなくて、保険業界の知識を話されているだけで勉強にならないんですよ。」と言い、更に「保険の知識は豊富なようですけど教えるのはどうかと思いました。肝心の保険商品の説明がほとんど聞けないんですよ。」と。

 なかなか自己主張を持った人材で良い上司に付けば戦力になると思った。

 十月八日。早朝に武井は、社長に自分の考えを話した。

「今月末までに大よその引継ぎを終了させて、来月からはポイント・ポイントで出社しながら有給休暇が四十日ありますので、年内で退職と言うスケジュールでよろしいでしょうか?」

「今月頑張って成果出せば、来月からはグループのどこかのセクションに配属されるだろう。」

「専務がお怒りのままなのでそれは無理かと思いますので、適当に有給休暇取り始めます。」

 武井はそれだけ言って席に戻った。

 しかし後日、二日間の有給休暇を取った後に、有給休暇は駄目だと総括部長から待ったが入った。有給休暇と言うのは完全に退職前提の動きになってしまう。まだ早いと言う。それだけは駄目だと。武井はこの件については素直に従う事にした。そして月末までしっかりと引き継ぎ作業。やたら細かなところまで引継ぎ作業を丁寧にこなした。

 そして十月でキャンペーンが終了した。結果としては二ヶ月間の目標が三百件に対して二百三十件。未達成である。しかし直近の成績からは二倍以上の成績である。武井にとっては思いもよらない成果ではある。しかし未達成には違いない。

 十一月一日そして二日。誰も何も言ってこない。社長でさえ何も言わない。武井はタイムカードを打刻して雑用を探すように仕事?をしていた。

そして三日の祭日に一人考えた。

「さてと、これからどう動いたらいいだろう。自分の仕事はほとんど引き継いでしまった。明日会社に出社しても雑用くらいで、これと言った仕事は無い。この先誤解が解けて何事も無かったように移動できるとも思えない。専務に直接お会いしてみようか。しかしお会いできたとしても、まともに話し合えるかどうか。そうだ手紙を書こう。」

 武井は会えないことを前提に手紙を書いた。

 まずは突然の手紙を書いたお詫び、そして九月十月のキャンペーンの結果報告。そして本題。いまだに自分自身が今回の事について理解できていない事。社長に聞いたら、営業の誰かが武井の事を嫌って専務に進言したんじゃないか。と言っていた事。私としては専務の耳に入った事が真実か捻じ曲げられた内容なのかは解らないが、いづれにしても私の不徳の致すところであり申し訳ありませんと詫びながら、四十年間お世話になりましたと。会社のお陰で家族を守り維持する事ができました。感謝申し上げます。と綴った。その手紙を鞄に収めて十一月四日出社した。


 武井は廊下に出て携帯で専務に電話を掛けた。

「専務、おはようございます。」

「ハイ、おはよう、どうした。」

「専務、少しお会いしたいのですがお時間取れますでしょうか?」

「アポ取ってからにしてくれるか。」

「それではいつがよろしいですか。」

「なかなか時間とれないんだよなぁ。」

「それでは手紙だけでもお渡ししたいのですが、今からよろしいでしょうか。」

「あぁそれならいいよ。」

「それでは今から伺います。」

 明らかに会いたくない心情を感じた。

 武井は九階の役員室へ向かった。

 ドアの前で深呼吸。そして手紙を持って入室するか、入ってから懐から手紙を出すか。そんなどうでもいいことに一瞬悩んだ。結局、手紙を手に持ち入室した。

 専務はいつものように軽い乗りで出迎えた。そして手紙を受け取りながら、愕然とした一言が発せられた。

「しかし、武さんの事気にしてどうしたって言う人、一人もいないなぁ。随分寂しいと思わない?」

 ずいぶん武井を見下した言い方である。

「私は辞めるような話は誰にも言っていませんから。」

「そうなの?でも皆知ってるんじゃないの。」

 実際に武井が辞めると言った噂話しはどこにも無い。今度はどこに行くのだろうとかCS行きの話しが頓挫しているらしいとかの範囲である。中には北東のCSではなく自分のエリアに来て欲しいと言ってくるエリア長がいるくらいだ。そう、以前一年間だけCSの仕事を兼務していた事があった。数ヶ月でトップの成績になった事を知っている者も多い。しかし、専務は武井が退社する事を前提に話している。これは話し合いにもならないなと思い、完全に、「お世話になりました。」「今までありがとうございました。」この二点の顔で対応する事にした。言いたい事は手紙に書いてある。言葉でのやり取りはもういい。

 専務は少しだけ本音を漏らした。

「武さんに行ってもらいたいところは腐りきっていて武さんが行ったって、もうどうにもならない状態だ。それに武さんの給料は高い。随分貢献してくれたけど、もうあがってもいいんじゃない。」

 腐りきっていると言うのはCS課の事を言っているのだろう。それから武井の給料は一般職員の倍以上の給料だ。六十を過ぎた社員にしては高額なのかも知れない。しかし話の内容がそぐわない。四割ダウンの給料でも転籍して働きたいと言っているのに。ただ、そんな事を専務が知るはずもない。

 武井はいよいよこの会社で働き続ける事に嫌気が差してきた。最後は「長い間お世話になりました。」と最後の挨拶のような事を言って退室した。なぜかスッキリした気持ちになった。いつかは誤解が解けるだろうと思っていたが、まともな話し合いができない事がはっきりした。そう、はっきりしたから、もう悩む必要が無くなった。

 八月二日からは三ヶ月が過ぎた。突然決まっていた転籍先が覆された。今のポジションは九月末までと言われながらも、ふてくされることなく業務をこなしてきた。そして十月一日からは入社の後任部長への引継ぎの為に一ヶ月間延長しての業務。それでも行先が無いままの状態。武井は手抜きと言われないよう丁寧に引き継ぎ作業をこなしてきたが、そろそろ精神状態を保つ事にも疲れてきた。必ず、いつかは誤解が解けるだろうと信じていた。しかしあれから三ヶ月以上経つのに何も変わらない。その具体的な原因がどこからも聞こえない事が不思議でならない。そんなモヤモヤを抱える必要が無くなった。何も期待しなくてもいい。方向性が決まった。

 今まで専務に追いやられて退職した人間は何人もいるが、外野から見聞きする分には追いやられた人間にも多少なりとも原因があったのだろう位に聞こえていた。皆は武井の事も、そんな風に思うのかも知れない。

 事務所に戻り、自分の机を少し整理した。十二月までは在籍があるので全部整理すると不都合があるので半分だけ整理した。武井は定時になった所で皆に挨拶した。

「私は年内で退職する事になりました。明日からは有給休暇に入りますが何かあれば出社しますので言ってください。」

 全員驚いた顔で武井を見た。移動の噂は聞いていたが退職と言うのは以外なようだ。皆がいろいろ言っていたが、武井は社長の机に向かった。

「社長、今日専務と話してきました。そんな訳でお休みいただきます。」

 社長の顔からは頷きながら少し笑みがこぼれたように見えた。本音が見えない。してやったりの笑みか、照れ笑いか。どっちでもいい。もうこの人の下で働く事から開放される。更に信じていた専務の本音がわかった。もうこの会社に残る気持ちが無くなった。


 翌日、会社を休んで家の雑用をしていた。

そうだ総括部長に昨日の事を電話しないと。武井は音楽のボリュームを下げて部長に電話した。

「おはようございます。今大丈夫ですか。」

「はい。何かあった?」

「昨日専務と話しました。」

「あぁ、話せたんだ。良かったじゃないか。どうなった?」

「年内で退職する事になりました。」

「えぇー、なんで。」

 電話口でトーン高く相当驚いているのが分かる。

 専務と直接会って会話した内容を手短に説明した。

「そうか分かった。今な出張で北海道なんだ。今から会議が始まる。今日会社戻るから恐らく専務から何か言ってくると思うから、そしたらまた電話する。」

「忙しいところすいませんでした。」

 電話を切った。

 そして元役員にも電話を入れた。元役員は武井と専務の人間関係を誰よりも知っている人である。水と油のようだと言っていた。なんとなく想像していたかのように。

「武さんは年金貰える年だよな。」

「いや、後四年あります。」

「そうかぁ、ちょっとあるな。」

「まぁ何とかなります。」

 以前、駅でお会いした時に武井の田舎(他県)の法人で雇って貰えるように常務に話してやろうか、と言っていた。しかしその時は時期が早すぎると言う事で止めておこうと言う事になった経緯がある。昨日の専務との会話で、どんな動きをしても何も問題ない環境にはなった。しかし武井は焦っていなかった。今、一番大切な時期である事を自覚している。これからの二ヶ月間で明るい正月になるか暗い正月になるか、大きく仕事がそして生活が変わると思っていた。そして。

「武さん、来月になったら一緒に飯でも食べようか。」

「はい、喜んで。お願いします。」

「また電話するから。」

「ありがとうございます。」

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