第9話

 武井は専務に自分の考えを伝えようか悩んでいた。聞く耳を持ってくれるだろうか。しかし、自分の言い分と社長の言い分。当然社長の言い分を信じて怒りの電話を掛けてきた訳なので今更何も通用しないだろう。

 昔を思い出した。十年以上前にやはり上司との付き合い方で悩んでいたことがあった。まだマネージャー時代で澤田さんがトップセールスで一緒に仕事をしていた頃だ。

「マネージャー、浮かない顔してるけど何かあったの。」

「別に何もないよ。」

「ふ~ん、そうは見えないけど、悩みは口にしたほうが体にいいわよ。」

「所長に言ってもねぇ。」

「一人の知恵より二人三人の知恵。」

「ん~、所長のご主人ってさ、一部上場企業の役員でしょ?」

「今は海外法人の社長よ。」

「えっ、遂にそこまで登り詰めたの?凄いなぁ。どこの国?」

「中国法人。みんなに内緒ね。」

「そう言えば英語だけじゃなくて中国語も話せたもんね。」

「それがどうしたの?」

「大きい会社って、配慮とか忖度とかで上司に取り繕うなんて事ないだろうなぁと思って。沢山の人の目があるわけだし。」

「ははぁ、また何かあったみたいね。前にね、武ちゃんの事主人に話したのね。まさに武ちゃんのそう言う立ち回りの下手なところ。」

「えぇ、それすごく恥ずかしいんだけど。」

「まぁ聞いて。主人もそうとう揉まれて社長になったんだけど、辛いなんて思ったことないんだって。タフな人だからね。揉まれるのは当たり前だって言ってた。それに、部下の中には寄ってくる人間と寄ってこない人間がいるけど、どうしても寄ってくる人間とは会話も多くなるし、気心が分かる分仕事も振りやすいって。多少の能力の差より意思疎通がスムーズな方が組織は廻しやすいって言ってた。私も所長やってて、可愛い部下と可愛くない部下いるもの。人間だからね。上司に対して配慮とか忖度とか空気を読むとかは絶対必要だと思う。そんなの当たり前だと思う。大きい会社になればなるほど中小企業よりもっとストイックだって言ってた。人数が多い分複雑に絡まる事が多いらしいよ。主人がね、武井さんはなかなか得することができない人だなって言ってたよ。」

「ん~、遠慮気味な言い方なんだろうね。」

「何が?」

「なかなか得することができない人ってところ。」

「あら、珍しく感がいいじゃない。」

「所長には敵わないは。」

 どうしてそんな昔の会話を思い出したんだろう。どんな目にあっても上司にかしずいて、煙にまいて、こちらの思うように仕向ける営業力が必要だったのかもしれない。上司に対する営業。

 澤田さんには留めの一言を言われた。

「でもマネージャーにはそれができないんだよね。上司に忖度とかゴマするとかできないでしょ?結構プライド高いし、真っ直ぐすぎるんだよね。」

 武井は全く的外れな指摘だと思っていた。自分はプライドではなく是は是、非は非ではないか。正しいと思う事を言っているだけじゃないかと。でも息苦しい。

 こんなときは大きいビル群や大きい空を見上げる。自分が小さいこと、小さな悩みだと言い聞かせる為。そしてもしかしたら自分よりも、もっと辛くて大変な思いをしている人が沢山いるんだろうなって。ほんの一瞬ほんの数日ほんの数ヶ月の悩みなんだろう。悩みなんていずれ消える時がくる。


 八月十八日。社長がロビーに出るのを見て武井は後を追った。事務所を出たタイミング。ロビーで声を掛けて質問をしてみた。

「社長、すいません。先日、九月末までとおっしゃいましたけど、専務が僕に怒りの電話を掛けてこられたときに一緒にいてご存知かと思いますけど。」

一瞬、社長の顔色が変化した。目が踊って困ったような、戸惑ったような顔をしていた。やはりそうか。しかし無視して続けた。

「次の僕の行先が無くなっているのですが、何か聞いていますか?」

「いいや。しかし残された期間頑張れば、頑張ってますよって推薦してやるよ。」

 どこまで高ピーなんだろう。武井は無性に腹が立った。お前が画策して変な話になってるのに平然としている。こんなときにマスクはありがたい。表情を少しは隠してくれる。この場で蹴り倒してやりたかった。事務所に戻り、遠くのビル群を眺めた。そしてその日の残りの業務を淡々とこなして就業時間が来るのを待った。自分でも自覚できるくらいイラついていた。誰も声を掛けてこないのがありがたい。よく考えてみるとやはり大人気ない。

 総括部長に言われた事を思い出した。

「武さんて、何となく上司に素直じゃなく見える時があるんだよな。言葉じゃなくて、雰囲気が上司に対して挑戦的な雰囲気を感じさせる事があるから損するんだと思うぞ。武さんの人柄を理解していないと、特に新しい上司の社長なんかはムッとくる時があったんじゃないか。」

 要は一概に社長が百パーセント悪いとも言い切れない。と言いたいのだろう。武井は確かに言葉には出さないが、頭の中で社長を見下していた時がある。特に入社して数ヶ月の頃は、もやっとしたものを感じ、心のどこかで軽蔑していた。

 もしかしたら、間違った指示もおかしな言動も、大きな包容力で「社長・社長」とか言ってかしずいていたら円満に業務を廻せていたのかも知れない。それができないで顔に出ていたのかも知れない。

 しかし、上司が部下を使いこなす事を求めるのか、部下が上手に立ち回る事を求めるのか。それさえもケースバイケースではないか。卵が先かニワトリが先かの問題なのかも知れない。しかし総括部長の見解は「部下は上司を選べない」と。部下は我慢するものだと言う訳だ。


 いよいよ最後の仕事かも知れない。二ヶ月間で三百件の契約。直近の業績からは三倍の目標。いや、過去の業績から見ても二倍近い目標である。三百万円の予算で自由に考えろと言われた。現在の募集人の力だけではどんな企画も成功していない。募集人が周りの人に協力してもらう方法を考えた。二年前の紹介代理店登録などと言う面倒な事は無しにして、誰でも良い、保険に興味のある人を紹介してくれて、募集人が獲得すれば五千円の商品券をそれぞれにプレゼント。募集人自らの契約は一万円の商品券をプレゼント。単純に幅広くプレゼントが貰えるチャンスと告知する。そしてグループ社員から取引業者さんに至るまでグループに関連する人達全てに告知する。そして可能な限り朝礼に参加させてもらい説明をする。企画書三枚に纏めてこれを社長に提案してみた。社長は五種類の保険商品の内、M商品は対象から外せと言った。

「社長、なぜ外すのですか?勢い良く行きたいのですけど。」

「M商品は黙っていても自然に売れるからいい。」

「そうですか、分かりました。」

「直したらこの企画書をもとに稟議書を起こしなさい。」

「はい。」

 武井は企画書を修正してワークフローに載せた。グループ本体の部長・常務・専務と保険部門の社長へと順調に稟議書は通過し決済が降りた。

 企画書に沿って、各グループ法人・各部門・各営業所への通知文書を作成した。そして総務にお願いして全法人向けに今回のキャンペーンを配信してもらう段取りを依頼した。これとは別に企画案内の郵送準備。それと巡回計画書を作成した。その中でも特に力を注ぐ部門を検討した。そして直接電話を入れてキャンペーンの説明と保険商品の説明会を依頼した。武井は思いつく事は何でもやってみようと思った。どんなに頑張って説明しても、本業優先で保険には興味さえ示さない部門がある。それはそれで耳を傾けてくれる所だけでいい。耳を傾けてくれる人が一人でも増えればそれが今後に繋がる。武井にとって今後は無いのかも知れないが手は抜きたくなかった。手を抜いていると後ろ指を差されたら腹が立つ。還暦のおじさんを舐めるなよ。なんてね。

 いよいよ八月も終わろうとしていた。来週からのキャンペーンに対して通知文の発送を開始した。とにかく九月に入る前に全ての通知を終わらせる。そして一日から巡回をスタートさせようと考えた。

 九月に入り、その巡回計画の中でどう言う訳か、CS課は社長自ら行くと言い出した。特に問題はない。よろしくお願いしますと任せる事にした。

 CS課の月初に行われる会議に社長が出席してキャンペーンの内容を説明して帰ってきた。

「武さん、このキャンペーンは何でM商品を入れていないんだ。」

「社長が外せとおっしゃったので外しましたけど。」

「そんな事私が言う訳ないだろう。」

「えっ。それではM商品も含めて良いのですか?」

「あたりまえだ、全部対象にしなさい。」

「もう通達出してありますけど、訂正文書発送しますか?」

「いや、いい。このまま走って対象にすればいい。」

「分かりました。」

 まただ、企画書読んで、手直しを指示しただろう。稟議書にその企画書が添付されているのを見ているだろう、承認しているのは誰なんだ。武井はここに来てまで社長の気の変わりように腹を立てるのか。いや、意外にも武井は腹を立てなかった。どう言う訳か腹が立たないでスルーできた。何だろうこの感覚は。慣れてしまったのかもしれない。

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