第6話

 年が明けた頃からは一ヶ月・一ヶ月が永く感じた。そう、ほぼ転籍の方向に気持ちが傾いているのだ。必要な仕事はこなすが新しい発想とか数字へのこだわりは薄れている。

 ふと感じた。上司とか会社に不満があると仕事って楽なんだなと。簡単な言い方をすれば手を抜いてもそれは上司が悪い、会社が悪いのが原因なんだと自分を誤魔化せるからだ。そう言えば昔同僚とか部下にも、しょっちゅう会社の悪口を言っている人間がいた。こんな感じで成績に執着心が無くなり、楽な気持ちでいたんだと気づいた。ただし会社の悪口を言っている人間に限って会社を辞めないものだ。もしかしたら、本人は知らず知らずのうちにこんな境地に入っていたりするのかも知れない。

 そうは言っても自分はどうなんだ?そんな心持ちで仕事を続けるのか?六十歳。会社にとって役に立つのならばいくらでも延長で雇ってもらえるが、役に立たないのならば即刻アウトである。なぜならば、将来に期待してと言う言葉が存在しない。その役に立つとは業績であるのは明白である。新しい発想を封じられた、腹に不満を抱えた保険業界で二年目の営業部長。やる気を出しても煙たがられ、成績がおぼつかなければ見下される。出口が見えない。

 武井が昔、ビジネストレーニングセミナーで聞いた話がある。

一、上司は部下を嫌ったらその部下を使いこなせない。

一、上司は部下に嫌われたらその部下を使いこなせない。

一、上司はだからと言ってそれを気にしていたらもっと使いこなせない。

 武井はこれを逆の言葉で考えてみた。上司を嫌い、上司に嫌われている?そして気にしている。

 客観的に見て理由はどうあれ、すでに武井は使い物にならないのかも知れない。ここにいたらもっとダメな管理者になりそうだ。八月の区切りまで持ちこたえられるか?


 武井は、グループの総括部長に相談してみた。この二年間で社長との会話をいくつか話した。武井の提案がことごとく睨まれながら採用されない事。後日何事も無かったように実施される事など。そして将来は転籍を考えている事を話した。この総括部長はグループの中でも専務に一番近い存在だ。ただし、うちの社長とも仲がいいのが問題かもしれない。それよりも何気なく専務の耳に入る事を期待していた。

 総括部長の回答は。

「武さんの提案はことごとく採用されている訳でしょ?タイミングは違っていても、無視されている訳ではないのだから良しとして仕事続けたら?」

「でもこんな事が続くと新しい発想とかやる気とか失せるでしょう?」

「それは部長としてダメでしょう。」

 率直に言ってみた。

「何気に専務の耳に入れてもらえないですか?」

「それは難しいなぁ、チャンスがあればね。」

「よろしくお願いします。」

 実はこの総括部長が保険部門の社長に武井を推薦していたのだ。保険部門に入社するキッカケとなった人であるらしい。そんな背景から多少は動いてもらえればと思っていた。ただし、総括部長は社長に対する印象が大変高評価に感じた。失敗したかもしれない。今後上層部が誰の言葉に耳をかして誰の言葉を黙殺するかは想像できない。会社の上層部は結局のところは会社に利益をもたらす方向を選択するのが常識である。それは武井にも理解できるが病気にはなりたくない。

 四十代までは余計な事は何も考えないで目の前の数字に執着できた。現場で自分が部下と一緒に走り続けていれば良くも悪くも成果が見えた。表彰はその証で、部下と一喜一憂するのが楽しかった。

 そんな時代でも上司との確執はあった。武井は、会社の方針が発表された時に疑問があれば普通に手を上げて質問をしていた。当時の本部長が今の総括部長である。たまに笑い話で昔話をすることがある。

「武さんの質問は的を射ているけど、今この場所で皆の前で発言してほしくないような事を平気で質問していたから、ひやひやさせられたもんだ。空気読んで欲しいときに、空気読まないで発言していたからなぁ。専務が武さんのことKYって言ってたよ。正しい質問なんだけど、会社って多少は必要悪の道を選ばなきゃならない時もあるじゃない。それなのに今ここでその質問は困るなぁなんて事がよくあった。なつかしいよ。」

 決して褒められている訳ではない。でもそれでいいと思っていた。武井は昔から「素直」と言う言葉が好きだった。故松下幸之助氏の言う「素直」。

「是は是、非は非、たとえ上司にも会社にも素直な心で意見が言える人材を育てる。」

 そんな本を毎月購読していた二十代から三十代の影響かもしれない。

 武井は、立ち回りが下手な会社員かもしれない。しかし購読していた本のせいではないと思う。元々の性格にたまたま一致した本を購読していただけで自分の問題だ。しかし今はその「素直」な発言を封印しなければと思っている。

 三十代の時にある人に言われた言葉を思い出した。「サラリーマンは五十代までに、確固たる自分の立ち位置を築き上げておかないと苦労するぞ。」何となくそうなんだろうな位に聞いていたが、今では身にしみて理解できる。五十八歳で異業種に移動した付けなのだろう。

 社長が云々と言ってばかりでは前に進まない。あと数年を我慢するのは難しい。転籍を決めるにしても行先はあるのか?収入はどこまで落ちる?家族の理解は?


 そんな折にトラブルが発生した。グループ本体営業部の中にある大型代理店で業法違反の契約が二件続けて発生した。全営業部の中でも保険の成績は上位に入る代理店で武井が最も親しくしている組織の一つでもある。

 社長からの指示で、トラブルの原因になった営業所に行って、事情報告書を書かせろと言う。当然である。武井は早速訪問し、報告書を書かせて正しい業務方法をレクチャーして帰ってきた。

 それを社長に報告書として提出したが、「反省の言葉がこんなもんか。」とつき返された。再度訪問して再記入を依頼した。代理店の代表は。

「事情報告書だから状況と再発防止に重点を置いて書いたつもりなんですけど。違いましたか?」

 もっともな考え方で武井もその範囲だと思っていた。始末書とか反省文では無く事情報告書である。しかし社長から「反省の言葉」と言う駄目だしがあった以上書き直さないと終わらない。なんとなく子供の使いのようでウンザリしたが、しっかりと反省の言葉を書き入れた事情報告書を持ち帰り提出した。

 社長はほとんどその書類を読まないままで武井に返して一言。

「代理店を解除しろ。」

「えっ、社長、営業部の中でもそこそこ契約数のある代理店ですよ。県内に十数か所の店舗を構えた大型代理店です。一部の営業マンの失態は反省させなければいけないでしょうが、代理店の解除は見逃していただけませんか。」

「だめだ、直近で二度目だろう、もういい。」

「わかりました。」

 武井はその代理店の代表に連絡をとり、訪問した。

「代表、ゴメン、庇いきれなかった。」

「まぁ、こちらが悪いので仕方ないですよ。武井部長にも迷惑掛けてすいません。」

 以外にあっさりとした答えが返ってきた。そして代理店解除の書類を渡して帰ってきた。

 即座に各営業所にその伝言は伝わったのだが、ある営業所から。

「今、商談中のお客様をどうしましょう?」と、現場の店長から電話がきた。

「とりあえずまだ、書類は通っていないから来月までは大丈夫。」と答えた。

 その後正式な代理店解除申請書が届いて社長に提出した。

「武さん、稟議書起こして。」

 稟議書とはワークフローでグループ本体の部長・常務・専務を通過してうちの社長まで届く経路になっている。社長自ら解除の指示を出しておいて、なぜグループの許可が必要なのか理解できない。先月、代理店解除の申請が一つあったが稟議書は書いていない。それこそ、紙一枚を業務に流して処理されている。今回は大型代理店なので特別なのかもしれない。しかし稟議書となれば発案者は武井になってしまう。もやっとした思いはあるが命令には従うしかない。もしかしたら、専務のところでストップか、質問でも貰えればいいかとも思ったが、稟議はすんなりと通ってしまった。

 その後数週間後に代理店の現場店長から再び電話がきた。

「保険に入りたいって言うお客様がいるのですがどうしましょう?」

「ちょっと待って、財務局で処理されたかどうか確認するから。」

 武井は業務に確認した。その時社長が横から発言した。

「あの解除は中止してある。」

「えっ、あの、それでは契約書出させてもいいのですか?」

「解除になっていないんだから当然だろう。」

 武井は何も聞かされていない。稟議書を書いてグループの専務にまで許可を取った案件なのに、またまたもやっとしたが、店長には。

「大丈夫だから提出してくれるか?ありがとね。」

 武井はその代理店の代表に連絡をとって再び訪問した。

「武井部長、うちはどっちでもいいんですけど、部長も大変ですね。」

 なんともあきれた会話で退散してきた。県内に十店舗以上の営業所を運営する大型代理店だ。他県にも組織を持っている。解除などそもそも反対だったので良かった。しかし武井は、操り人形が指先で遊ばれているような、いやぁーな感覚を覚えた。

 対人関係と言うのは、多少は心理の読み合いのようなものだと思う。夫婦でも今、この用件を言えば怒るだろうとか、喜ぶだろうとか想像して発言して夫婦関係は保てる。想像もしない回答とか想像もしない行動をとられたらビックリするし、そんな事が続く相手とは一緒に生活できない。たまに変化球で返されても長く一緒にいれば情とか普段のコミュニケーションで理解できるし一緒にいられる。耐えられなくなったら別れる事になるのだろう。営業でも相手の心理を読んだタイミングで契約を進めて締結する。上司と部下だって相手の心理を読んで理解し動く。この社長のことは武井には全く読めない。読めないのでビックリする事が多すぎる。社長が以前話していた事がある。「余計な発言をしない事が賢く生き抜く秘訣だ。」と。そんな上司は初めてだし、更に理解しづらい。


 再び、ぶらっと総括部長の部屋に行ってみた。

「武さん、どうした?」

「少し嫌気が差しているんですよね。」

「まだ悩んでるんだ?」

 武井は社長との事を三つ四つ話してみた。

「まぁ、上司は部下を選べるが、部下は上司を選べない。そんな言葉、聞いたことある?」

「聞いた事はあります。僕が今そんな環境なんですかね。」

「まさにな。」

「あと四年我慢できないか?年金もらえる年までは働きたいだろう?」

「そうですね。あと四年かぁ、長いなぁ。」

「以外にあっと言う間だぞ。転籍なんて言い出したら心証悪いだろうしな。給料も下がるだろう。」

「でも、保険業界に来てまだ二年ですよ。いろいろ有り過ぎですよ。」

「武さんの言っている事はきっと正しいのかも知れないな。でも会社組織の中ではアウトなのかも知れない。私も若い頃同僚と比較して、どうして同じこと言っても、同じことやっても同僚は評価されるのに、自分は評価されないどころか怒られることもあって、なんでだろうって悩んだことがあったよ。自分は嫌われているんだろうなって。でも私は思った。上司に対する営業が足りないんだろうって。まさしく今の武さんと同じだと思うな。」

「上司に対する営業ですか?」

武井は少しキョトンとした顔をしていたのだろう。

「それは例えばまぁ空気を読むって言う事もあるし、提案が却下されても後で実行されたらありがとうございますって気持ちを持つとかね。それに新しい業種になったんだから、古い考えばかりじゃなくて、新しい発想をどんどん出さないと置いていかれるぞ。」

「だから新しい発想はことごとくへし折られるから悩んでるんですけど。」

「そのへし折られるって発想もアウトだよ。」

「それじゃ僕は八方塞がりじゃないですか。」

「その八方塞がりって感覚も違うんだけどなぁ。それって既に被害者的発想だろ?根本的に違うんだよなぁ。武さんにはいくら言っても理解できないかなぁ。」

「すいません。」

 武井はしばらく雑談をしてから退室した。

 どうしても総括部長の言う意味が理解できなかった。

(上司に対する営業)

 サラリーマン生活四十年間で上司に対する営業なんて言葉を始めて聞いた。常に部下に目を配り、市場とかお客様を見て仕事をしてきた。身近に上司が居ない環境で長年仕事をしてきたせいもあるかもしれない。仕事は部下とお客様を見て、会社の方針を踏まえて進めるものだろうけど、その会社の方針を踏まえる所で必要な感覚なのだろうか。

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