第4話

 そして年が明けて世の中は騒然となった。新型コロナウィルスの感染が広がり始めた。武井は朝一番で社長に提案した。

「社長、事務所の入り口に体温計を置いて、全員検温してから入室するようにしませんか?」

「そんなもの各自、家で測ってくればいいんだよ。」

「中には測らないでくる人間もいますから、強制で測らせたいんですけど。」

「必要ない。」

「そうですか。わかりました。」

 翌週、業務次長が宅配で届いた箱から、小さな体温計を取り出して遊んでいた。

「次長、それ体温計?」

「そうですよ。」

「どうしたの?」

「社長に言われてネットで買ったんですよ。すごい品薄でやっと買えたんですよ。」

 まただ。社長の頭の中を勝ち割って覗いてみたい。

 更に、社長の異様な行動があった。

 ある日、出社すると高さ二十センチ位の白い機械が棚の上に載っていた。ペット用によく使われる監視カメラである。カメラの向いている方向は従業員。社長が取り付けた機械である。社長の居ない時に皆でその話題になった。業務のお局さんが多少知っているようだ。ネットで四千円位で買ったと。ネット回線から社長のスマホに繋がっていて、画像と音声が見られるだけでなく、録画記録もできるらしい。お局さんは直接その画像を見せてもらい鮮明な画質だったと言っていた。

 お客様が来るような事務所ではないので防犯ではない。それに保険会社は一応金融業と言っても、事務所でお客様のお金を触る事はない。そもそもお金は事務所にはない。それでは社員の言動の監視以外に考えられない。これって許されるのだろうか?社長は某有名大学の法学部を卒業していると聞いているが、コンプライアンス的に通用するのだろうか。

 武井は何度か機械の向きを窓に向けてみた。せめて嫌がっていることだけでも伝わればいいと思った。しかし翌朝にはまた、社員側に向けられていた。意思は伝わっただろうが平然としている。向きをいじった事に触れる事もなく黙って向きを直している。

 グループのコンプライアンス委員会に進言する手もあるが、相手は社長だ。どんな言い訳をするかわからない。人は誰の言葉を聞き入れて、誰の言葉を黙殺するかは想像できない。早い話が裁定を下す人とのパイプの太さによって黒でも白になる事はよくある事である。相手が代表取締役社長では戦いにならない。

 部下も「社長に言ってくださいよ。」と言う。

「言ってわかったって答えが返ってくるわけないでしょ。僕に社長と喧嘩しろって言うの?無理でしょ?同僚との争いならともかく、社長だよ。」

「そうですよねぇ。」


 そしてコロナウィルスの騒ぎは収まる気配がなく、対応に苦戦する日々がやってきた。

 ある日社長が。

「営業は訪問禁止。社内で電話とメールで営業するように、非対面での契約の推進に力を入れるように。それから土日に出勤して平日に代休をとりなさい。」

 もっともな判断だと思う。本来ならば営業部長が指示を出すべき内容だったと思い武井は反省した。そして、新聞・雑誌への広告掲載のウエートを強化し、資料請求の件数が一気に増えた。さすがに出来る社長だと思う。しかし営業スタッフには不満がでてきた。それは対面契約の場合は営業手当が支給されるが、非対面での契約は手当が支給されない。スタッフの中にはおかしな言い訳をして訪問しようとする人間もでてきた。そして他の同僚が陰口を言う状況だ。

 そんな状況を知ってか社長が皆に話した。

「営業はいいか、これからはリモートで契約する時代だ。コロナはともかく、これからの時代はウェブを中心に非対面契約に比重を置く。訪問しての対面契約は限りなくゼロにしていく。それに慣れなきゃいけない。いいな訪問はするなよ。ウィルスをうつしてもうつされても大変な問題になる。頭を切り替えろ。」

「わかりました。」

 武井は後日、皆がいない朝の時間に社長に進言してみた。

「社長、営業手当の事なんですけど。対面契約は手当が出てますけど、非対面契約は手当が出ないじゃないですか。対面での手当の金額を下げてもいいので、非対面での契約にも手当を付けるようにして、スタッフが非対面契約に目を向けるように給与改正はできないでしょうか?」

「武さん、広告代がいくら掛かってるか知ってるのか?会社がお金を掛けて広告だしているんだ。そこから入ってきた情報で契約になってるのになんで手当払わなきゃならないんだ。武さんは甘いんだよ。営業部長としてもっと厳しく部下を指導できないのか。本体の営業にいた頃はもっとやり手だったろう、年取ってできなくなったわけじゃないよな。」

「・・・・。」

 しかし、三ヵ月後。対面契約の金額が下がる事無く、非対面契約にも手当が払われるように給与改正が発表された。スタッフは皆喜んでいる。

 まただ、もしかしてこの社長は武井を根切りしているのでは?

根切りとは野生のサルに芸を仕込む為に壮絶な躾をする事だ。野生の本能を根絶やしにして絶対服従させることである。自分の意見を発することは許されず、言われた指示に従うように調教しようとしているのではないか?

 そろそろ武井の心にも限界が近づいてきた。しかしこの部門に来てまだ一年半。生活の為に仕事をしているわけで、趣味ではない。ましてや本体の営業部の皆から「武さんは保険部門に行ってダメだったみたいだ。」なんて言われたら悔しい。あと五年我慢しよう。


 いよいよ武井は八月で六十歳になった。グループの専務から呼び出された。九階の役員室に行くと笑顔でテーブルに招かれた。終始笑顔である。

「武さんも六十歳だね。勤めて何年になる?」

「三十九年です。」

「そうか、功労者だね。」

「ありがとうございます。」

「一応、会社にも定年制があって六十歳が区切りになるわけ、武さんはどう?延長して頑張るか卒業したいか、本人の希望を聞いておきたいんだよね。」

「できれば六十五歳までは勤めていたいと思っています。」

「それはいい。それじゃぁ、継続して今のポジションで行こうか。」

「ありがとうございます。」

「じゃぁ社長呼ぶから、ちょっと待って。」

 社長が五階から上がってきた。そしてグループの専務が保険部門の社長に。

「そう言う事で社長、武さんをこれからもお願いします。」

 頭を下げた。

 武井の為に専務が社長に頭を下げた。専務と言ってもグループの専務は保険部門の社長よりも遥かに格上である。これは武井にとっても重要な事である。しっかりと記憶しておこうと思った。

 そして話し合いが終わり、武井と社長は役員室を後にした。九階から五階に行くものと思っていたが、社長が一階のボタンを押して「ちょっといいか?」と。

 一階のミーティングルームで二人向かい合った。

「武さん、残ると言う事だが、残ってこれからの営業をどうしたらいいと思う?」

 武井は瞬間的に悩んだ。今の言い方。これは武井が残った事に不満を感じた質問なのか、本当にコロナ過での今後の営業を相談しているのか、どちらともとれる。言い方、そしてタイミング的に前者の確率が高いように思う。なぜならば、こうして社長が武井と二人で話すことはめったに無い。しかし、専務がこの社長に頭を下げたばかりで言い争いはしたくない。

「社長、僕はこの保険業界に来てまだ一年半です。たとえば前任者の営業部長は保険業界から来た人でしたよね。もし保険業界に精通した前任者が今ここにいたら、どんな対応策を言うと思います?」

「あぁ、あいつはだめだ。何にも出来やしない。」

 前任者は一年半で退職している。社長が他社の保険会社から引き抜いて来た人材だが大喧嘩をして翌日に退社したとうちのスタッフから聞いている。ものすごい言い合いで怖かったと言っていた。だからこんな言い方をするのだろう。罵る言い方で嫌っているのがよくわかる。

「それならば社長、保険業界で永い経験の社長ならばこのコロナ過での営業戦略を僕に何をさせますか?僕に何が出来ると見ていますか?」

 少し困った顔をしていたが。

「個別訪問ではなく、代理店の開拓をやったらどうだ?」

「わかりました。明日から、代理店開拓の準備に入ります。」

 これでこの日の話しは終わった。

 あとで想像してみたが、もしかしてこの日の専務面談は、社長が武井の移動を専務に依頼した可能性はないか。有り得る。何故ならば、実はその2ヵ月後には社長の知り合いで大変優秀な人材が入社する事が決まっていたのだ。

 武井は心に誓った。来年の八月で転籍願いを専務に出す。口も渇かない内に「やっぱり転籍したいです。」などとは言えない。さっき頭を下げてくれたばかりだ。絶対、前任者のような喧嘩をして会社を辞めるなんてことはしたくない。もうすぐ来年で勤続四十年だ。みっともない辞め方はしたくないと思った。


 それにしてもわずか一年半で色々な事がある。この社長はとても頭のいい人だと思う。しかし無駄に高いプライドを持っているのだろう。この件を、もう退職している澤田さんに電話で話してみた。澤田さんは長年このグループのトップセールスで沢山の優秀な営業を育てた元武井の部下だ。今は長野県に引っ越している。社内の事情を知っている上に現在、会社を完全に離れている。更に澤田さんも相当プライドが高く頭のいい人だ。この人に話す分にはなにも影響がでると言う事もない。しかし、返ってきた言葉に驚いた。

「その社長さんは頭がいいわけでも高いプライドの持ち主でもないと思うけど。本当にプライドが高くて頭のいい人は見透かされたりしないわよ。言っちゃわるいけどおバカだと思う。それにマネージャーに見透かされるようじゃ、何も考えていないんじゃない。」

「もう営業のマネージャーじゃないし、それに今なんか気に障ること言わなかった?」

「ごめんね、いやな言い方したけど、勘違いしないで。武ちゃんみたいな真っ直ぐな性格の人に見透かされてるのはお利口じゃないって事。武ちゃんはあんまり人を疑わないじゃない。その武ちゃんが何度もエッと思う事があるのはその社長さんお利口でもないし、プライドの高い人でもないんじゃないかな。」

ちょっと気になる事は言われたが、そうかも知れないと思った。あまりにも社長の言動はあからさますぎる。そして澤田さんが電話口でうなっていた。

「ん~、それとも・・・うん、そうだな。」

「なに?」

「その社長さんは人を見下しているんじゃない?」

「見下している?」

「そう、部下を見下しているから、見透かされるとか見透かされないとか関係ないのかも知れない。少し高ピーなんじゃない?いきなり偉くなると廻りに気遣いができない人ってたまにいるじゃない。私も昔そういう所あったから。」

 確かにこの澤田さんも所長になったばかりはぞんざいな所があった。そう、高ピーだった人だ。武井が隣で諌めるような事が何度もあった。言われてみれば、社長の言動は当てはまるような気がする。社長が言っていることが理に合わないことは単純にわかる内容だ。本人がウッカリと言う内容でもない。しかし、もともとの性格だとしたらこの先同じ事がずっと続くわけだ。還暦を過ぎた先輩が言っていた。

「この年でよその会社に行こうとしたら、男は棒振る仕事ぐらいしか無いし、月給だって苦労するのは目に見えている。まだましだと思わないとな。我慢しないと。」

つい数年前まで月間数億の売り上げの組織の頭だった人だが今は別部門に移動している。給料は四割ダウンだと言っていた。それが現実だろう。でもこれからの一年間は辛い一年間になりそうだ。今すぐ退職と言う選択は確かに馬鹿げている。昔の仕事仲間にもかっこ悪い末路は見せたくない。何よりも家族の生活がある。

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