第5章 澄舞と東京、姉と弟

(36)消費者法と行政の役割

 インターンシップ二日目のテーマは、具体的な消費者被害事案についての法的検討だ。法学専攻の小室の希望に沿ったプログラムで、法律門外漢のみなもにはいささか敷居が高い。なのでまずは二階堂から、昨日の講義をもう少し深掘りするレクチャーが行われた。

「私たちの社会の基本原則は「自由」。日本国憲法は国家権力を統制して国民の自由を最大限に保障しています。

「でも、全てを自由に任せた弱肉強食の社会は、大変なことになるよね。だから「公共の福祉」消費者問題でいえば消費経済社会を公正・円滑にするために、法令で必要最小限のルールを設定しています。

「その法令を作っているのは……香守さん?」

「あ、えーと、国会」

 さすがにこれくらいは分かる。小学生に訊くような質問ではあるが、一方的な説明ではなくダイアローグを挟むことで参加意識を保つことは大事だ。

「正解。法令という最初のルール策定の段階で、国家権力のうち立法機関が関わってくるわけです。法律なら国会だし、条例なら自治体の議会ですね。

「そのルールには、大きく三つの段階があります。民事ルール・行政規制・刑事罰です。以下、消費者問題を事例に説明するね。

「まず民事ルール、これは民法が一般法つまり大前提となる原則です。契約自由の原則の上に、トラブルが生じた場合の裁定基準を定めたものと考えるとわかりやすいかな。契約はこのルールに従って運用され、ルールの適用について争いがあれば裁判で決着をつけることになる。言い換えれば、国家権力のうち司法機関が法律による強制力を担保しているわけです。

「でも、民法のルールはあくまで一般的なもの。消費者問題には特有の状況があります。それは──昨日の話のおさらいになるね。小室くん、覚えてる?」

 一瞬小室は宙を睨んで、それでもすぐに口を開いた。

「消費者と事業者との間の──情報の質及び量並びに交渉力の格差」

「うお、さすが。消費者契約法第一条をそらんじてきたね。そう、事業者と消費者の間には圧倒的な力の差があるということ。事業者の方が製品についての知識や価格の相場など消費者より遥かに質的量的に情報を持っている。交渉力だってそう、事業者は相手に買ってもらうためのセールストークを磨き上げているけれど、一般消費者はそれを適切に判断し交渉する技術を持っているわけじゃない。民法の前提に契約自由の原則があるとはいえ、あまりにアンバランスな力関係の中で消費者が不当に物を買わされたりして安心して買い物ができない社会なんて、嫌だよね。

「だから民法の特例法として、消費者と事業者の間の取引だけを対象に事業者側の行為を規制する消費者契約法があるんです。民法の錯誤取消などの一般則から細かく交渉していく必要がなく、消費者は消契法に基づいて直接的に契約の取り消しや無効を主張できる。裁判になっても簡潔に判定できる。

「とまあ、ここまでが民事ルールの役割の話でした。でも、民事ルールを定めるだけでは、色々と問題が残る。まず第一に、法律は専門性が高くて、誰もが詳しいわけじゃないでしょう。消費者と事業者の交渉の場面で、知らずにルールに反した主張をすることもあれば、相手の無知につけ込んで自分の利益をゴリ押しする人もいる。相手が理不尽に押してくる時に、そこで諦めるか、裁判で決着をつけるか。

「けれど──第二に、争いを裁判で解決しようとしたら手間もお金もかかる。トラブルになった金額が小さかった場合、得られる利益が弁護士費用を含めた訴訟経費や手間暇に見合わない。利益が大きければ経費は見合うかもしれないけれど、手間暇に当たる部分は結局は精神力なのよ。そこまでして戦い抜くか、諦めて心の平安を選ぶか。多くの人は諦めてしまう。もちろんそれは決して悪いことじゃあない。誰もが自分の道は自分で選ぶ。それが「自由」なんだから」

 戦い抜くか、心の平安を選ぶか。

 みなもはおばあちゃんのことを思った。認知症の入ってきたおばあちゃんにとって、相手と粘り強く交渉することは、とても大きな心理的負担なのだと想像できた。お金を払ってしまえば心は平安になる。その結果が、あの家の大量の健康食品であり、幸い未遂に終わったが振り込め詐欺に対する行動だ。

「でもそれで弱い消費者が事業者のルール違反を我慢するのは、悔しいじゃない」

 悔しいなあ。

「だから、全国の自治体に消費生活センターなどの相談窓口があるんです。法律を始めとする消費生活関連の専門知識を持った相談員が、消費者に交渉のためのアドバイスをしたり、時には消費者に代わって事業者と交渉したりする。

「ここでようやく、国家権力のうち行政機関が登場するわけ。立法機関がルールを定め、司法機関が最後の裁定権を担い、行政が消費者を支援してルールに則った主張ができるようにする。こんなふうに、国家権力全体で消費者保護の民事ルールを運用しているわけです。

「でも、それだけではまだ足りない。何故なら第三の問題、初めから法律なんか無視をして消費者に不正に物を買わせようとする悪質業者の存在があるからです。

「民法や消費者契約法には、消費生活センターによる支援活動を除いて、行政の出番はありません。でも消費者取引の中には、押し売りのように明らかに不当な行為や、マルチ商法のように社会的にトラブルの絶えない形態がある。そうした「特定の商取引」にのみ特に強い規制を設け、それに反した場合は行政処分や司法捜査・刑事罰を可能にしているんです。つまり、私たち消費者行政担当者や警察が、直接違反者を取り締まることができる。これが特定商取引法の位置付けね。

「特商法の他に、もうひとつ大事な法律がありましたね。香守さん、覚えてる?」

「えっと、なんとか表示法。なんだっけ」

「いい線行ってる。景品表示法ね」

「そうだ景表法!」

「この法律は、その名前のとおり「景品」と「表示」を規制しています。景品については昨日も説明を省略したから、印象に残ってなくてもしょうがないよ。大事なのは、特商法が「取引」を規制するのに対して、取引の前提情報である「表示」を規制するのが景表法だということ。

「私たちは買い物をするときに表示を手がかりにします。「この空間除菌剤を首からかけたらウィルスをシャットアウト!」といわれたら、病気を警戒している人は飛びつくよね。「一万五千円のものが今だけ特別価格八千九百八十円!」と聞けば、安いうちに買わなきゃと焦るよね。でも、その表示が全部虚偽だったら。その商品にウィルスを防ぐ効果がなく、「今だけ」のはずの価格がずーっと変わってなかったら。消費者の信頼を裏切るそんな不公正、放置してちゃいけない。

「だから行政機関には、実際のものより著しく優良・有利に見せかける誇大広告を監視して、違反した事業者に訂正広告、再発防止を求める措置命令を出す権限が与えられているんです。

「でも、消費者法の行政処分はがっつり利害が絡むから、業者が言うことを聞かない場合もある。悪質業者なんかは特にそうね。そのために、行政命令に違反した者への刑事罰が用意されている。誰だって警察に逮捕されるのは嫌だし、ものによっては懲役刑もあるからね。行政との関係でいえば、罰則の後ろ盾によって、行政命令の実効性が確保されていると捉えてもいいよ」

「と、いうわけで。午前中は特商法違反と景表法違反の事例をそれぞれ一件ずつ、じっくり検討してみてもらいます。資料を用意したから、まずは三十分くらい二人で内容を検討しながら、何がどう違法と言えるか考えてみてくれる?」

 そういって二階堂は二人に左肩をホチキスどめした資料を渡した。事例の取引や表示の内容を丁寧に記し、関連法令を付記したものだ。二人に検討させた後、解答編として行政処分に至る考え方のペーパーを渡して一緒に確認する手筈だ。

「事柄と法令の適用関係については小室くんの方が慣れてると思うから、小室くんがリードしてね」

「はい、要件事実を確認していけばいいですね?」

 一瞬、二階堂の言葉が詰まった。

「……要件事実って?」

 二階堂の言葉に、今度は小室が目を白黒させた。

「二階堂さん、法学にお詳しいのでは?」

「いやいやいや、私、学生時代は経済専攻だったし」

「そうなんですか? とても分かりやすい説明なので、ご専門かと」

「あー、それは担当職務だからね。消費者向けの講座の講師を務める事もあるから、法律を知らない一般の人に理解してもらうための説明の筋道は、頭に入ってるんだ」

 住民の求めに応じて担当職員を講師派遣する仕組みを持つ自治体は多い。とはいえ、実際にリクエストがある分野は極めて限られている。そのひとつが消費者問題だ。昭和の時代から公害・物価高・悪質商法などの消費者問題に対する国民の関心は高く、消費者向け講座の需要に対して自治体の消費生活センターが応えてきた歴史的経緯がある。そのため、消費生活センターに異動してきた者は「誰もが広報担当、誰もが講座講師」として鍛えられることになる。

 二階堂もまた、春の着任から半年間で、随分と説明が滑らかになったものだ。

「法律は公務員試験の時にちょっと勉強したくらいで、仕事も国の通知文や事務マニュアルで大体こなせたから、正直法律は得意じゃないの。消費室に来てからよ、条文をちゃんと読み込んで頭を悩ますようになったのは」

 公務員試験の筆記試験は、教養科目と専門科目に分けられる。教養科目の中にも法律問題はあるが、総合的知識がモノを言うため法律が苦手でもどうにかなる。問題は専門科目だ。公務員に必要な知識として行政学と法学は二本柱、法律問題は四割近くを占める。だから公務員試験を志す者が法律学習を避けて通ることはできない。

 しかし──公務員試験はあくまで実務家の採用試験だ。司法試験や司法書士試験のように法律の専門家を選抜する趣旨ではない。法律問題の得点が低くても、総合得点で一定水準に達していれば一次試験はクリアする。その上で小論文・集団討論・個人面接からなる二次試験を通じて、組織人として上司・先輩たちと共に役割を果たすことができるかどうかを見定められるのだ。

 そうして採用された公務員は、結果として多様な資質能力の集団になる。法律に詳しいと自負する者はむしろ少数派かも知れない。

 状況を納得した小室が説明する。

「要件事実というのは、それぞれの事件における、法律効果が発生するための具体的事実のことです。事実がこうだから、法律の要件を満たして効果が発生するという主張の基礎ですね」

 二階堂はポンと手を叩いた。

「そう、まさにそれなのよ。事業者の営業の自由を制限する行政処分を行うには、厳格に法律に照らし合わせて理由を示さなくちゃいけない。後日裁判になっても負けないだけの理論構築をして、初めて行政処分を執行できる。そのための必須の作業ね」

 要件事実という法学の基礎概念を知らなくても、現場経験を通して同様のことを身につけることができる。それが実務家としての公務員に求められる資質といえた。

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