夏
上
拾参
広大な庭園が、新緑に覆われ、
古い館の、長らく人の入らなかった場所が開かれていた。朝日の差し込みやすい部屋の障子紙は張り替えられ、真新しい糊と古い畳のにおいが混ざりあっている。
病弱ながらも心根が活発な少年は、日々庭に出ては、草花や樹木、石岩に触れ、虫を見つけては観察して、疲れれば部屋に戻って、その年頃の子供にはいささか難しいはずの書物を読み、昼寝をして過ごす。
そして、彼とともにやってきた母親は、朝日が部屋に差し込むのと同時に目覚め、身支度をし、近頃は寝付きのよくなった息子を寝かせておいて、母屋の厨に向かい、その家の当主である若い娘とともに、朝餉の用意をする。
ミノリと、カヲリが医館の離れに滞在を始めて、十日余り。やってきた二人も、受け入れた二人も、少しずつ、新たな生活に慣れ始めていた。
「思っていたより、手際が良いよな。元々、良いところのお嬢さんだって聞いていたから、そんなに家事をコロコロと済ませられると、思っていなかったんだけれど」
今朝はカヲリが炊いたという米を口に運びながら、医館の主の双子の兄は言った。
「実家を離れて、ずいぶんと経ちますし。それに、一応は実家でも、このくらいはできるようにしておけ、と、教えられましたから」
「お手伝いさんとか、いたんだろう。縁談の話を持ってきた家の方だって、裕福だったろうし。それでも仕込まれるもんなのか」
「実際に、使う機会があるかどうかって、たぶん、あんまり関係ないんです。だから、わたしも思いましたよ。意味あるのかなぁ、って。でも、今こうしてお役に立てているのなら、ちゃんと意味はありましたね。炊事も洗濯も、結構楽しかったので。却って、やらせてもらえる環境にいられるのは、嬉しいですよ」
「使用人がいるような家の奥様じゃあ、ミノリの好物も、作ってやれなかったろうしな」
ミノリはいつも、椀に盛られた米よりも、母の手で握り固められた米を好んだ。今朝も、彼の膳に並べられたのは、ころりと丸みのある、三角形のむすびがふたつ。
「ミノリ、躑躅の密、吸ったか」
「うん、三つ」
「こら、勝手なことしないの」
毎年咲く、鮮やかな躑躅の花が、満開になっている。今頃は、虫たちが甘い蜜を求めて、その周辺を飛び回っている。庭の散策などしなくなって久しい兄妹だが、知っている。
「いいんだって。どうせ、ほうっておいたって枯れちまうんだし。あれ、当たり外れがあるよなぁ。虫に先取りされてると、ちょっとばかし渋いだけでさ。枯れる前に、密は吸っとけよ。もったいないからな。吸い終わったら地面に花を落とさないで、葉っぱの間に戻しておくんだ。そうすると、遠目ならバレない。懐かしいな。ガキの頃、散らかしてババアに叱られたっけ」
「ちょっと。お祖母様のこと、そんな風に呼ばないの」
「いいじゃん、愛ゆえに、ってやつだよ」
カヲリがクスリと笑った。
「キラさん、やんちゃでしたのね。口ぶりが、そんな感じはしますけれど」
「まあ、そうかもな。でも、おれがやんちゃだったなら、こいつだって相当だぜ。躑躅の花を吸ったら戻しておこうって言ったの、サラなんだから」
「やめてよ」
「おまえだけ格好つけようったって、そうはさせないよ」
「あら。意外。サラさんってば」
「む、昔の、子供の頃の話ですから」
「今でこそ、こんな感じだけれど。子供の頃はおんなじ遊びをしていたし、性格だって、結構似ていたよ。膝小僧丸出しでさ、木登りするのが好きだったもんな」
「ひどい。どうして言うの、それ。あなただって、わたしの服を着て、化粧して遊んでいたくせに」
「うん。なかなか、可愛らしかっただろう、おれ」
「なんで、堪えないの、この人。やだ」
カヲリはまた笑う。
「今は、なさらないんですの、お化粧」
「流石にねぇ。タッパがな」
「でも、お顔立ちは綺麗ですもの。きっと映えますよ」
「そうかい。じゃあ、今度またやってみようかな。でもなあ、着られるものがないからなあ。外には行けないね」
「着られるものがあっても、女装して外になんて行かないでよ」
「美人姉妹の医館で、人気が出すぎちまうからな。大した用もない連中に押し寄せられたら、困る。男に言い寄られてもォ、困るゥ。殴っちゃかもォ」
キラは箸を持った手をくねらせて、口調をなよらせた。別段、声をつくるでもなく、大人の男の声になって久しいのを、そのままで、わざとらしく女の真似事をするのを、サラは気味悪げに、カヲリとミノリは面白げに見ていた。
「でも、たまに聞きますよね。男の子を、女の子として育てる家系とか、地域とか」
「願掛けだよな。子供の頃は、大体女のほうが丈夫だから。昔は今より、子供が死にやすかったし。うちもそうだよ。昔は男が生まれると、女装させていたらしい。一時期はもうちょっと、激しいこともしていたみたいだけれど。でも、身なりだけ女にしたってなァ。意味がないって気づいたんだろうね。いつの間にか、やらなくなったよ」
「お兄ちゃん、女の子やってたの」
「お兄ちゃんは、ずっと男をやってるぞ。風呂で見ただろう、おまえの股に付いてるのと同じで、もっとデカいやつ」
「食事中に、やめてちょうだい」
「あっ、そう。食事中じゃなけりゃあね」
「そうじゃなくて。周りに誰がいるのか、考えて話してよ」
サラがピシャリと言う。育ちの良いカヲリは、品のない話題やら、言葉には慣れていないのか、いささか居心地が悪そうだった。
(経産婦がなんだってんだよ。生娘じゃあるまいし)
キラは内心で呆れながら、妹の言葉に素直に従ったような顔をして、
「いえ、あのォ。この子も、そのうちには、母親には話しづらいなあと思うようなことが、でてくるんだろうなあ、と思って。は、いるんですけれども。わたしは、あまり知識もありませんし。キラさんって、どうしていましたか。お父様は、いらっしゃらなかったんですよね」
(ああ、そういう悩みか)
繊維質な山菜を呑み込んで、キラは一旦、箸を置いた。
「うぅん、そうさねェ。おれはなぁ、
「あなたに、羞恥心が欠けているだけなんじゃないの」
「なんで、おまえらが恥ずかしげもなく女体について飯の席で語り合ってんのに、おれだけ恥ずかしがらなきゃいけねえんだよ」
「それは、そう」
サラは、納得した、というよりも、諦めたようだった。
キラは再び箸をとって、食事を再開する。
「ミノリは、なにかあったら、叔父さんに話せばいいんじゃないか。信頼関係、しっかりつくっておけば、平気だろ」
「ああ、イツキさん。たしかに、そうですね。身近な同性で、年上で。先生だし」
「そうそう。医学的な観点から見て、どのくらいの知識があるかは、分からんけれど。変なことは、吹き込まないだろ。あの人なら」
「彼に、お願いしておきます。今のうちから」
「きっと、それがいいよ。ところで、ミノリは最近、外で遊んでいる時間が長くなってきたな。具合はいいか」
「あのね、クラクラしなくなってきた」
「バクバクは」
「あまりしない」
「よかった。少し、敷地の外に行ってみてもいいかもな。今の時期は、暑すぎないし、寒くもない。あの、デカい社のさ、そばの公園とか。歩くと遠いが、人が車引いてくれるから、気が向いたら、行ってみなよ。祭りの時期だと賑やかだが、今は静かだと思う」
「お兄ちゃんたちと、行きたい」
「ミノリ、お兄さんも、お姉さんも、忙しいから」
「はは。いいじゃん。ねえ、サラ。次の休み、おれらも行こうか」
休館日は、キラの体力を回復させるために、サラもともに、しばらく館に籠もっていた。二人揃って外出するとなれば、ふた月ぶりになるかもしれない。
サラの胸は、踊るように高鳴った。だが、同時に。
(大丈夫なのかしら)
妹の心に湧いた不安を読み取ったように、兄はすかさず言葉を繋いだ。
「ここ最近、ずっと引きこもっててさ。こんなに天気もいいんだ。たまには外に出ないと、気分がね」
(ああ、そうよね)
なにも、好んで籠もっているわけではない。庭園は、四季の色合いを常に見せてくれる。だが、この場所からだけでは、感じられない多くのものが、囲いの外にはある。キラは、それを求めている。
「次のお休みは、五日後ね。行きましょう」
「やったぁ」
兄妹にすっかりと懐いている少年は、いくらかふっくらとしてきた頬を、やわらかくゆるませた。
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