拾肆

「女に生まれたかったって、思ってるの」

 朝餉の片付けを終え、各々が昼間の仕事の支度へと向かう。ミノリは体調を観ながら、遊びと勉強の予定を立て、カヲリは洗濯と掃除、午後に買い出し。双子は薬師、兼医者としての仕事。

 常の仕事着に着替える折、後ろの方で同じように身支度を整えている兄に、サラは問うた。

「は。なんで。ああ、女装がどうとかって話か。あんなの、真面目に受けなくて、いいのに」

 キラは朝食時の自らの発言をかえりみて、フム、と薄い唇を指でなぞった。

「まあ、そうさな。この家に男で生まれたのは、運が悪かったかなって、思うけれど。女同士の双子だったら、一緒に長生きできたかもしれないし。でも、女同士じゃあ、命をつくるって、できないからなぁ。どうだろうね。そんな目標も持たなかったかもしれないし、持ったとしても、おまえを選ぶことはしなかったんだろうな」

「今と、関係は違ったかしら」

「たぶんね。おれは、おまえに迫らなかっただろうから。仲のいい姉妹では、いられたかもしれないけれど」

 そうして、キラは帯をきつく締める。

「わたしは、あなたが姉だったとしても、今と同じように愛したかもしれない」

 サラは椿の胸飾りを留めながら、呟いた。

 キラは無言で、妹と揃いの胸飾りを留め、髪に垂れ紐を結び、仕上げに己の姿を、鏡に映して確かめる。

「そう。そいつはなんだか、不思議だな」

 ポツリと応える。

「ええ。本当に、不思議」

(姉妹だったら、容姿も性格も、まるでそっくりだったかもしれない。それでも、あなたに恋したかも、なんて。変な話よね)

 不毛な、たられば、の話。

(そうよ。容姿も性格も、今のあなたとは違うんなら、あなたとは、言えないでしょうに。それなら、わたしはあなたの、なにに惹かれているの。でも、想像してみなかったことはない。あなたが女に生まれて、同じくらいの時間を、心配もなく過ごせたかもしれない道を。そうして、気づくの。空想の中で、当然のように、あなたを愛している私に)


 またいつものように薬を受け取りに来た、馴染みの老爺は、キラの姿をひと月ぶりに目にして、白い眉をひそめた。サラは、隣の部屋で別の患者を相手にしている。男二人になって、老爺はいよいよ口に出さずにはいられなくなったらしい。

「痩せたんじゃないかね。飯は食っているんだろうね」

「食ってるよ。だが、腹の具合が、ずっと悪い」

「それだけかい」

「いいや。他にも色々」

「サラちゃんには、いくらぐらい話してあるのかね」

「べつに、改めて言ってはいない。けど、気づいてるよ、おれの具合がずっと悪いことは。おれが何も言わんから、あいつも訊いてはこない」

「いずれは、言わんといかんじゃろうに」

「わざわざ、言葉にしたくない。動けなくなったら、その時さ。嫌でも世話になるんだ。今は、それぞれで、気持ちを固めてる最中なんだよ。きっと」

 老爺は低く唸りながら、巾着袋に、渡された薬を詰める。

「そのうちさ、大叔父さんの話、聞きたいと思ってるんだ。あいつと一緒に。知ってるだろ、色々と」

「病状についてなら、手記に残っているだろう。儂が話して、役に立つことがあるかね」

「どういうふうに、振る舞ってたのか、とか。そういうのだよ」

「そういうのならな、いくらかは話せるだろうけれども。今のおまえさんと、似たようなもんだったぞ。あいつは、仕事はしとらんかったが」

「そう。それならそれでいい。知りたいだけだからさ。盆の頃にでも、頼むよ」

 老爺は口を締めた巾着袋を、膝の上に置いて、天井を仰いだ。

「難儀な家柄じゃ」

「本当にな」

「アレの分も、長生きしてやろうと思ったもんだが。お前さんの分も、となったら、儂は仙人になるしかあるまいて」

「おれの分はさすがに、サラに任せるよ」

 老爺の寂しげな冗談に、キラは淡く笑った。


 しだいに、続かなくなる体力。それを保たせるための気力にも、限度がある。

(まだ、振り絞ろうと思えば、できるが。それで、明日にでも倒れるよりは、このほうがマシだ)

 近頃は、正午を過ぎたあたりで、仕事を切り上げ、横になって休憩を挟むようになった。一眠りして、夕暮れ時に、少しばかり回復していれば、帳面をとる。

 元々、二人で患者を分担しながら運営していたわけなので、一日の数時間、片方が抜ければ、その分の負担は、もう片方に掛かる。新しく訪ねてくる患者の多くを、断るようになった。

 飾りやらを外し、着物を寛げて、奥座敷の畳の上に横たわるキラは、昼餉を終えてまた庭で遊びはじめた少年の姿を、ボンヤリと眺めている。

「お買い物に行ってきますね」

「はぁい。お願いしまぁす」

 財布を片手に、草履を足に掛けて、暖かな、少しばかり熱い日差しの下に出ていくカヲリの声と、応えるサラの声。

「よろしく」

 と、腹や喉に力を入れる気力も湧かず。誰に聞こえるわけでもない、呟きにしかならない声で、門を出ていこうとする背を、キラは見送った。

(できないことが、増えていく。情けない)

 高い日が、熱光で青い畳を焼く上に横たわっていたキラは、その熱さから逃れるために、部屋の奥の方へ転がった。

「ハァ。腹、いてぇ」

 長身を丸めて、明るい庭に背を向けて、ずっと微熱の下がらない汗ばんだ胸元に、家の中を渡り冷えてやってきた空気を、触れさせ、彼はひとり呟いた。


 そしてやってくる夕餉の時間。その準備も、風呂の用意もできなくなった。そんなキラにできるのは、不調を誤魔化すことくらいだった。

「ミノリ、間食減っただろ」

「うん。前より、お腹が空かなくなった」

「そうか。でも、ほっぺたも腕も、ぷっくりしてきた。まだ、ずいぶん痩せてるけどな」

 ミノリは言われて、自分の頬をつまんだ。薄い肉が、細い指の間で伸びる。

「ふふ。おかげさまで、ずいぶんと健康的な体つきになって」

 カヲリは息子の頭を撫でる。髪も太くなり、透けて見えていた頭皮も隠れてきた。

「出かけるの、楽しみ」

「明日だな。五日間、長かっただろ」

「うん」

「楽しみなことが控えてると、長く感じるよな。ンッ」

 煮物の牛蒡ゴボウを噛んでいたとき、前触れもなく、温い液体がキラの口内に広がった。彼はそれを、呑み込む。喉奥にまとわる塩味と、釘をかじったような気色悪さ。

 会話の途中で、ピタリと動きを止めてしまったキラを、三人が見つめている。彼は口元を手で覆う。

(だめだ。溢れてくる。呑めん)

「ンゥ。ン」

 キラは眉をハの字にして、片手で覆った口をもう片方の手で示して、慌てた様子で立ち上がった。そうして、隣の厨に下りて、襖を閉めて出ていった。

「どうなさったのでしょう」

「噛んだのかしら。ちょっと、見てきますね。お食事、続けていてくださいな」

 サラは兄の後を追って、またシッカリと襖を閉じて出ていった。


「どうしたの」

 勝手口から外に身を乗り出し、口の中身をペッペッと吐き出している兄に、サラはそっと近づいて訪ねた。

「ちょっと、水を取ってくれないか」

 サラは柄杓に水を汲んで渡した。キラは口の中を洗い、また水をペッ、と砂利の上に吐き出す。暗がりに、薄紅に染まった水が散る。

「噛んだの」

「いや。ああ、だめだな。止まらん」

 キラはまた水を口に含んで、吐いた。結局、兄はどうしたのかを答えないので、サラは壁に掛けてあった燭台を持って、また彼のそばに戻った。

「口、見せてちょうだい」

 強めの調子で言えば、キラは観念したように口を開けて、妹に見せた。

 腫れた下の歯肉が、削げていた。出血はそこからのものだが、そもそも、キラの口の中はひどく荒れている。頬の内側、唇、舌、上顎に、丸い抉れが無数にあり、舌の上からはあるべきひだが消え、つるりと赤くなり、全体がただれている。

「いつから」

「覚えてない」

「こんなの、食事どころか、話すのだって大変だったでしょうに」

「慣れだよ」

「慣れるほど、黙っていたのね」

 サラはジッと、キラの目を見つめた。キラは居心地悪そうに、スッと目をそらした。

「明日、明るくなったら、もう一度見ますから。喉も荒れているんでしょう」

「見ても、どうしようもないだろうよ」

 キラはまた口の中に溜まってしまったらしい血を、砂利の上に吐いた。

「綿を挟んでおかないと、だめだな。悪いが、夕飯はもういい。二人には、適当に。噛んだとでも言っておいてくれ」

 キラはもう一度口をすすいでから、処置用の道具が置いてある部屋に向かう。

 蝋燭の淡い光に照らされた、砂利の上に滲む、赤黒い血液を見下ろし、サラはかぼそく、震える息を吐いた。

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