「へぇ。親父さんも同じような具合だったんだ」

 茶菓子に干し柿を持って戻ったキラは、サラの隣に座り込んで、茶をすすりながら、ミノリについて、主に母であるカヲリから聞き出していた。

「はい。出会った頃の、十年前は、まったく健康そうだったんですけれど。この子が生まれてから、どんどん体調が悪くなっていって。あちらこちらと、お医者様のところに通ったんですが、ひどくなる一方で、そのまま」

「あんなに、お酒ばっかり飲むからだよ」

 ミノリが、いささか強い口調で、彼の父親について付け加えた。カヲリの分に用意した干し柿は、彼の口の中に入っている。

「大酒飲みだったのか」

「え、ええ。元々は、飲む人ではなかったんですけれど。きっと、どうしても悪くなっていくばかりだから、うんざりしてしまって、お酒に逃げるしかなかったんだと」

「飲んで、暴れるから。バチが当たったんだ」

 またも、ミノリは口を挟んだ。

「お父さんのこと、きらいだったの」

「大きらい。殺してやろうって、何度も思った」

「ミ、ミノリ」

 サラが訊けば、ミノリは強い口調で答える。彼は、随分と気が昂ぶっているようだった。父親に殺意を抱いていたことを、初対面の若者たちにためらいもなく打ち明けてしまった息子に、カヲリは戸惑い、焦った様子で、取り繕おうとする。

「あの、この子が物心ついたときには、もう夫は随分と荒れていたものですから。私を殴ったりしている姿ばかりが、記憶に残っているんです」

「母さんが殴られているところ、ずっと見てたのか」

 キラが尋ねると、ミノリは口をつぐみ、うつむいてしまった。彼の噛み締められた唇が、震えている。

「そうか。母さんのこと、守りたかったんだな。優しいな、ミノリは」

 湯呑を置いて身を乗り出したキラは、少年をなだめるように、穏やかな口調で言った。

 ミノリの大きな瞳が潤み、膝の上にポタリポタリと雫が落ちる。肩が跳ね、しゃくりあげる合間から、

「うわぁんッ」

 ミノリは声を上げて泣き出した。

「ぼくが、もっと強かったら、お父さんのこと、止められたのに」

「ミノリ。ミノリ、ありがとうね。お母さん、十分すぎるくらい、ミノリに助けられたんだから」

 カヲリはミノリを抱きしめ、彼の小さな頭と、痩せた背中を撫で、なだめる。

「そうだぞ、ミノリ。おまえは自分が無力だった、って思ってるかもしれんが、そんなことない。おまえの母さんは、ちゃんと生きてるだろう。おまえがいなかったらな、母さんは自分で死んじまってたかもしれないぞ」

「そう。そうなんです。この子がいなかったら、私、とっくに自殺してました」

「ほらな。おまえは十分、強かったと思うぞ。酔って暴れる大人の男なんて、おれだっておっかねえ。逃げ出すのが普通だ。それを、おまえはちゃんとそこにいてさ、母さんを守らなきゃって、やってたんだろう。そんなことができる子供、そうそういないからな」

「うぅ」

 涙ぐむ母に背中をさすられながら、ミノリはずっと溜め込んできたものを洗い流すように、泣き続けた。

 母子のすがたに心を揺さぶられたサラは、目元を拭う。また、同時に、兄の言葉にも。

(キラ、あなたには、この子の気持ちが分かるのね。わたしは、どうしても、それがせつない。わたしの想いも、あなたは分かっている。それなのに、わたしは、あなたの想いを、あなたほどには理解できていない)

「気が済むまで、泣いたほうが良いよ。溜め込んでいると、体に悪い。干し柿、おれのもやろうか」

 ミノリはしゃくり上げながら頷いた。キラは「よし」と言って、手を付けていない皿を少年の前に置いた。


 それから四半刻ほど。ミノリは激しく泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻しはじめた。途中、呼吸が難しくなったものの、サラが紙で袋をつくって、ミノリの口と鼻にあてがってやったので、大事にはならなかった。その間は、運良く、他の患者が訪ねてくることもなかった。

「どれ。それじゃあ、ちょっと体の方を診させてもらおうかな。座りっぱなしで疲れたかな。横になろうか。暑かったら、上着を脱いでいいぞ」

 キラは立ち上がって、座布団をミノリの方に動かした。サラもまた、兄に倣う。三つ並べられた座布団の上に、ミノリは羽織を脱いで、仰向けになる。

「サラ、脈をとってくれ」

「はい。ミノリくん、ゆっくり息を吸って、吐いて。何度か繰り返してちょうだい」

 ミノリは指示されたとおりに、深呼吸をした。サラは懐中時計を左手に持ち、秒針を眺めながら、右手でミノリの浮き出た手首の血管に触れる。

「さっきから、気になってたんだよな。ちょっと、首のところ触るよ」

 キラはミノリの首の付け根近くを触り、軽く押してみる。全体的に痩せ過ぎている割に、ミノリの首は太かった。

「腫れてる」

「あの、喉が痛いというわけではないそうなんです」

「そうだろうな。風邪じゃあないし。関係ない」

 キラの返答に、カヲリはいささか驚いたようだった。これまで掛かってきた医師たちは、ミノリの喉の腫れに気づいても、おおよそ風邪によるものだと結論づけてきたのやもしれない。

 サラは懐中時計を懐に戻した。

「百三十から、百四十」

「速い。さっきまで泣いていたとはいえ、だ。子供だから、余計かもしれんが。安静にしていて、これじゃあ。そりゃあ、疲れるだろうな」

「なにか、分かるでしょうか」

 カヲリはわずかばかりの期待をこめた眼差しを、双子へ、とくにキラへと向けた。キラはミノリの小刻みに震える指先に触れながら、曖昧に唸った。

「この、首のところさ。梅の実くらいの臓器があるんだ。これが、えらく腫れ上がってる。炎症を起こしてるんだろう。こいつが働きすぎているときの、典型的な症状がしっかり出てる」

「どうして、炎症なんて」

「悪いけれど、それはわからない。ただ、親父さんと、婆さんが、たぶん同じ状態になっていたんだろうから、そういう家系ってことだろうな。ついでに、気持ちに負荷をかけすぎた」

「つらい思いをしたことも、関係あるんですか」

「うちに伝わってる資料を参考にするなら、十分にあるってことだ。病は氣から、とはよく言ったもので。たとえば、心配ごとのせいで何日も眠れずにいたら、体がだるくなったり、頭が痛くなったり、するだろう。それが長く続きすぎると、自力では治せなくなってくる。本来、生き物は心身の不調を、自分の力で治せるようにできているはずなんだけれど。身だけでは生きていけんし、心だけでも生きてはいけない。身も心も健康でいられれば、一番だが。どちらかの塩梅が悪いとき、もうどちらかも引きずられる。が、逆を返してやることもできる。それが、流れってもんだ。おれたちは、それぞれが、自分の持って生まれた体で生きていくしかない。それが、どんなに気に食わないものだったとしてもさ」

「キラ」

「うん、まあ。とにかく、氣を流してやることだな」

「お薬とか、診ていただいたら、治りますか」

「良くはなるはずだよ。ただ、良い状態を維持するために薬を飲んだり、生活に気をつけたり、そういうことは、一生続けるつもりでいたほうがいいだろうな」

「そうですか」

 カヲリは肩を落とした。それは治ることはないことへの落胆か。あるいは、今よりも具合を良くできる可能性を見いだせたことへの安堵か。いずれもか。

 ミノリは他人事であるかのように、ぼんやりとして、古い天井を眺めていた。

 ふと、少年と目が合ったサラは、その大きく黒い瞳に微笑みかけた。もう大丈夫、とでも伝えるように。

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