春告鳥の高い声。外廊下の木板を踏む軽い足音。障子の薄紙越しに差し込む、冷える朝のキンとした陽の光。

 それらを遠くに感じながら、青年は夢うつつにいた。それは、随分と長い時間であったか。或いは、ほんのわずかなひとときであったのか。

 木材同士の擦れる音とともに、まばゆさが青年の薄いまぶたの奥を灼く。彼は半ば強引に引き上げられるようにして、うつつの方へと脚をもつれさせる。

「朝食、できましたよ」

 青年は着物の袖を縛った娘の、陽光の影になった、己と瓜二つであることを知っている顔立ちを、細く見つめる。緩慢なまばたきをして、再び眠りに落ちるかに見えた彼は、突然に布団を跳ねて身を起こした。

「寝過ごした。悪い」

「構いませんよ。昨晩は早く寝かせてもらいましたし。その分、あなたは随分と遅くまで本を読んでいたみたいだから」

「声を掛けてくれてよかったのに」

 青年は若干の寝癖がついた毛艶の良い黒髪を手で梳きながら、布団を手際よく畳んで壁に寄せた。娘は、そうやって支度をする青年を、じっと眺めている。

「眠い頭でお仕事をされたんじゃあ、そのほうが困るもの」

「水を汲むの、大変だったろう」

「朝食を用意する分くらい、どうってことありませんよ。あなた、私をかよわく見積もりすぎ」

「お前がかよわくなかったら、おれがまされるところが何ひとつないじゃないか」

「また、そんなふざけたことを言うんだから。ほら、せっかく温かいのを用意したのだから、行きましょう」

「片付けはやるよ」

「よろしく」

 そのようなことを言い合いながら、二人は床の間を後にする。三寸程度の身長差。青年は娘のつむじを見下ろしつつ、短い歩幅でスルスルと歩く娘に合わせて、緩慢に後ろをついていく。

 一昨日降った雪が、庭を埋めている。池に張った氷が、鏡のように朝日を乱反射させている。梅の樹には、小さな蕾が紅く色づいている。そして、広い庭の真ん中に立つ椿の樹は、雪の笠をかぶって、堂々たる風情で、満開に紅白の花弁を広げている。

 足袋も履かずに出た外廊下の床は、青年の足裏を冷やす。彼は身震いして、娘が入っていく二間隣の部屋に駆け込んだ。囲炉裏の柔らかな炎で温まった空気が逃げていかないよう、襖をピシャリと閉めて。


 囲炉裏を挟んで向かい合った膳の前で、娘は正座し、青年は胡座をかいて座った。揃って両手を合わせてから、二人は箸を取り、汁物の椀を軽くかき混ぜて啜る。朝の低い体温に、熱が沁みる。

「昨日もらった蕗の薹を煮たんだね」

「そう。一晩灰汁アク抜きしたら、茹でるだけで十分」

「この柚子、絞ったらいいのかい」

「お好みで。香りがいいから、掛けなくてもいいのじゃないかしら。彩りに添えてみただけなの。今晩は白菜でお漬物を作るから、今使わなければ、そちらに入れるつもり」

「そうさね。醤油だけでいいや。なんだか鼻の詰まりが取れそうだ」

「なに、鼻が詰まってるの」

「詰まってないよ」

「なんだ、びっくりした」

「もうそろそろ、鼻の具合が悪い客が増えてくるね」

「北の山の方から、樹の粉が飛んでくるせいでね」

「植物の生きる力ってのは、大したもんだよ。人間も参っちまう」

「わたしたちと交わったって、なにも生まれないのに」

「分からんよ。不思議なことは起こるかもしれない」

「あなた、自分がスギの子供が産めるとでも思っているの」

「どこから生まれるかな。鼻かな」

「変な人って思われるから、黙っていなさいよ」

「もう思われてるよ、スクナのキラは変わり者だって。その分、妹のサラはえらく真面目な器量良しだ、ってね」

「わたしを巻き込まないでよ」

「そんなこと言ったって、双子で顔もそっくりで、二人だけでこんな阿呆みたいに広い家に住んで、同じ仕事して、なんだか四六時中くっついて生きてるみたいな様子だったら、比べられて当然じゃないか」

「どうして、性格だけ似なかったのかしら」

「男か女かの違いじゃないの」

「あまり関係ないと思うけれど」

「おれはあると思うな。少なくとも、この家に男で生まれたら、辛気臭いか莫迦か、大抵どっちかに振り切れるだろうよ。おれは莫迦の方になっちまったね」

 そのように青年の方、キラが言えば、彼の双子の妹である娘の方、サラは淋しげにうつむいて、黙り込んでしまった。

「沈むなよ。なあ、今日は湯もみするからさ」

「調子に乗ってやって」

「分かったって。ああ、美味かった。ご馳走様。体も温まったし、着替えて仕事の準備をしなきゃな。食い終わったら持ってこいよ。先に片付けちまうから」

 キラは自分の膳を持って、行儀悪く、しかし器用に足で襖を開け閉めして、温かい部屋から出ていった。襖越しに、「サミィ、寒ィ」という文句が聞こえる。

 サラは、箸の先にチマリチマリと米を乗せて、心ここに在らずといった様子で、食欲も失せたように、食物を口に運び入れる。

「うわぁ、冷てェ」

 襖を隔てた厨から、キラの叫び声がして、サラはハッとした顔で正面を見た。そこに兄の姿はない。彼女は急ぎ料理を食べきって、膝を擦って移動し、隣の土間を覗き見る。冷水に悲鳴を上げる兄の姿がある。その光景に、安堵のような表情を浮かべ、サラは綺麗になった器の並ぶ膳を持って立ち上がった。


「あァ、あァ、まったく。あったかい部屋じゃなきゃあ、着替えらんないよ」

「本当にね」

 朝食の片付けを終えたキラは、着替えを抱え戻ってきて、囲炉裏の中で緩やかに燃える木炭を軽く動かした。

 サラもまた、冷えた床の間の鏡台へ向かいに行く気にはならぬようで、手鏡に顔を映し化粧をしていた。キラより先に目覚めた彼女は、兄を起こしに来たときには、既に、凡そ仕事へ臨める格好をしていた。

 小さく爆ぜる炎の音だけが響いていた部屋に、衣擦れの音が加わった。黙々と着物を纏っていくキラだったが、突然「アッ」と叫んだ。

「いけねェ。一枚持ってくるの忘れちまった。ねえ、サラ。取ってきてくれよ」

「いやよ」

「なんでよ。もう終わるだろ」

 薄紅を唇に引いたサラは、懐紙を咥えながら、背後の兄を仰ぎ見た。彼をじっと見つめ、薄紅のついた紙を折りたたむと、今度は朱色の紐飾りを手に取った。

「あなたが忘れたんだから、あなたが取ってきなさいな」

「チェッ。なんだよ、意地悪だな」

 すんなりと諦めた様子で、キラは肩に羽織を掛けて部屋を出ていった。

 右耳の後ろに紐飾りが垂れるように、改めて髪を結い直しながら、サラはどことなく満足げな微笑を浮かべていた。

(あのひとの拗ねたように振る舞うところ、好きだわ)

 仕上げに、椿の花を模した飾りを、膨らみを抑えた胸元に取り付けて、仕事に向かう姿が整う。同じように、キラが姿を整えれば完成する。

 亡き祖母から貰い受けた薬師のための朱の紐飾りは、サラの右耳の後ろと、キラの左耳の後ろを彩る。椿を模した胸飾りは、この家の主であることを示す。黒髪のなかに覗く朱と、白衣のなかに浮かぶ紅。いずれも、先祖から受け継いできた色。それを今、双子の兄妹が身につけているという不思議を、サラは想う。

 祖母の下がりを分けなくとも、物置部屋を探せば、薬師の飾りはいくらでも見つかる。椿の胸飾りは、家の主となる夫婦が身につけるものであって、兄妹のためのものではない。だが、これまではそうであったというだけで、これからもそうする必要はなかろう。

 サラはまた、手鏡に顔を映した。

(身だしなみのために、毎朝白粉を塗り、紅を引いてはいるけれど。やっぱり、あまり化粧は好きじゃない。あのひとと、まったく違うように見える。それでも似ていると、他人ひとは言うけれど)

 と、サラはクスクスと笑い出した。

(あのひとにも、化粧をしてもらえばいいのかしら。なんて。ああ、莫迦らしくて、可笑しい)

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