弐
塀の屋根から落ちて、石畳の通路に積もった雪を、鋤で日当たりのよい方へ寄せる、という一仕事を、冬の間、殆ど毎朝、キラは繰り返してきた。
(梅の蕾が色づいて、春告鳥も気まぐれに啼く。そろそろ大雪が降ることもないだろう)
彼は黙々と、溶けて固まり、重くなった雪の塊を転がす。脚の悪い老人や怪我人が通る道に、妨げとなるものを残しておくことはできない。
玄関から門までの雪かきが終わり、キラは大きく息を吐いた。額に浮いた汗を、
「ふぅ、朝っぱらから疲れちまった」
キラは顔を上げ、独り
大路に面した門の外は、既に賑わい始めていた。古くから湯治場として栄えてきたこの街には、遠方からの客も多く滞在し、宿や土産物屋は溢れんばかりだが、いずれも繁盛している。
湯治にやってくる者が多いということは、病人も多いということであって、薬屋の需要もある。
巨大な門の高い位置に掲げられた、古い檜の板。そこに焼き彫られた『
門の柱にもたれかかり、人々の往来する様子を、キラは眺めていた。
「おはよう。もう入ってもいいかい」
馴染みの
「おはようさん。サラが中で準備して待ってるよ」
「毎朝大変だろう。水っぽい雪を除けるのは大仕事だ」
「アンタみたいな年寄りたちのために、やってんだよ。是非もっとねぎらってくれ」
「それじゃあ、ベッコウ飴でもあげようか」
「そんなもんで喜ぶ歳は、とっくに過ぎたよ。と、言いてェが、本当に持っているならくれよ」
「ほれ。青白い顔をしおって」
「ありがとうよ。ンン、旨い。まあ、入ってよ。おれはこいつを舐め終わってから戻る」
「はい、どうも」
館へ向かう老爺の背中を見送って、キラは硬い飴を口の中で転がしながら、また門の柱に背を預けた。
ホゥ、と吐いた甘い息が、淡青の空に白くとけていった。
(病人に心配されるようじゃ、参っちまうな)
薄くなった飴を噛み砕き、キラは組んだ両手を天へ伸ばした。
(さァて、いつまでもサボっていたら叱られちまう。戻らんとな)
キラは白い庭を横目にしつつ、玄関に戻って、戸を引いた。
「世話になったね。それじゃあ、また」
「あれ、もう帰るの」
老爺は膨らんだ巾着袋を手にぶら下げて、戻ったキラに会釈した。
「いつもと変わらんからね。薬だけもらって、お暇するよ」
「ゆっくりしていけよ。どうせ、この時期は昼頃まで他の患者は来ないんだから。大抵の病人は、寒い朝が苦手なんだ」
キラは、丈も袖も短い半纏を脱いで、床に放り投げる。並より背丈のある彼のために、生前の祖母が大きめに繕ってくれたものだが、その後も成長し続けたキラには、すっかり小さくなってしまった。しかしながら、手直しをするのも面倒がって、小さいものをそのまま使い続けている。
「帰って、孫の面倒を見にゃならんのだ」
「そうなの。じゃあ、しかたないな。飴、助かった。次来るときも、何か持ってきてくれよ」
「それじゃあ、黒糖のにするかね」
「孫の余りでいいからな」
「正直、お前さんらも孫みたいなものだからなあ」
「そんなら、遠慮なく爺ちゃんに菓子をせびるぞ」
「昔、散々せびっておいて、まだやるか」
二人の笑い声が、広い玄関に響いた。
昔、まだ幼いころの兄妹は、祖母が仕事をしている間、医学と薬学の勉学に励んでいた。だが、子供の集中力は長くは続かないもので、しばしば本での学びを中断して、祖母の診察の様子を窺いに行った。概ねは静かに仕事の様子を覗いていた。
だが、ことこの老人がやってきたときには、悪戯を仕掛けたり、それこそ菓子をせびったりと、今は生真面目に振舞っているサラも揚々として、かまわれに行ったものである。無論、そうすると祖母は双子を叱りつけ、勉強部屋へと引きずって戻すのだが、老人は帰り際になると、こっそりと甘味を寄越してくれるので、兄妹はまた彼に懐いてしまうのだった。
「まあ、ゆっくりとしたお戻りだこと」
二人の笑い声を聴いてか、サラが正面奥の部屋から出てきた。
「雪がしつこくこびり付いちまってんだよ。雑に退けるだけじゃあ、滑っちまうから、いちいち削って来たんだぞ。ゆっくりとしたお戻りにもなるってもんだ」
(休んでいたことは、黙っていてくれよ)
キラはさりげなく老人に目配せした。
「雪っていうのは、昼のうちにとけて、夜にまた固まると、どんどん硬く、重く、しつこくなるもんでな。癇癪を起こしそうになっとったから、飴で宥めてやったよ」
わきまえているらしい昔馴染みは、キラの言い訳に加勢した。少々キラにとって不名誉な言葉を添えつつ。
「仕方ありませんね。力仕事を任せきりの身で、あまり文句を言うものでもないし」
「そうだよ。ねぎらってよ」
「お疲れさまでした。明日もよろしく」
言葉では感謝しつつも、口調はどことなく冷ややかである。
「へェ、へェ」
(客の前だからって、ツンとしやがってさァ)
キラは草履を脱いで、上がり
「そういえば、西ノ園の梅が見ごろだそうだよ」
引き戸に手を掛けながら、老爺が思い出したように言った。
「ああ、あそこのは、いくらか早咲きなんだっけ。うちの梅はまだ、蕾がようやく色づいてきたところだけれど」
「昨年は、行きそびれてしまったから。来週あたり、お暇をもらって行きましょうか」
「そうさね。最近は、みんな調子も安定しているようだから、急に診てくれ、ってのもないだろう。今から門に張り紙をしておけばいいさ」
「来週なら、出店も増えているだろうね。時々には息抜きも必要だぞ。それじゃあ、どうも。またよろしく」
老人は、草履の底を地面にこすり付けながら、孫の面倒を見るべく帰宅の途に就く。双子はその、厚着で膨れた背中を見送った。
「さて、今日は何人来る予定だっけ」
「十三人」
「いるね。二人はスッぽかすとしても、多い」
「特に今の時期は、あんまり具合が悪いと、家から出られない人もいるから」
「かといって、往診に行ってやる余裕もないしなァ。むかァし、この屋敷にいっぱい住んでいた頃は、できたんだろうけれど」
「この家に、こんなに部屋が必要なほど人が住んでいたなんて、今じゃあ想像もできないわ」
「婿をとるばっかりで、嫁に行く女がいなかったからな。この家の中で増えるしかなかったんだろうが。ン、足音がする。次のお客か。今日はみんな早いな、珍しい」
「それじゃあ、診察部屋に行ってちょうだい。今度は私がお出迎えするから」
「はいよ。ようやく座れるや。散々踏ん張ったから、脚が攣っちまいそうだ」
キラは脱ぎ放った半纏を拾って、先ほどサラが出てきた部屋へと向かった。
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