偽椿

天満悠月

晩冬

「ねえ。結局、一晩中眠れやしなかったわ」

 白みはじめた床の間の布団の中で、少女と呼ぶには大人びて、女と呼ぶにはあどけない娘は呟いた。

 傍らでしんと瞼を閉じる、娘とよく似た顔立ちの痩せた青年は、その呟き声に無言を返す。

「ああ、布団から出たくない。こんな朝は、くっつき合って動きだしたものだけれど。そうしたら、温かいから苦ではないし。でも、あなたは起きないのでしょう」

 娘がかすれた声で呼びかけても、やはり青年は白い瞼を伏せたまま。

「仕様がない」

 娘は白い掛け布団を剥いで、すっくと立ち上がった。背に流れる黒い艶髪を軽く手で梳きながら、廊下へ続く障子を開ける。いくらか建付けの悪くなっている三尺向こうの雨戸を、注意深く押し引いていけば、まばゆい光が床の間までを照らした。

 庭を覆う白雪がみだす朝の光に、娘はその黒く大きな瞳を細めた。今朝から鳴きはじめた春告鳥の声に、彼女は耳を澄ます。白く色づいて消えていく吐息を、どこか遠くに眺めながら。

「梅の花が開いたのね。去年は慌ただしくて、時期を逃してしまったけれど。今年は少し間に合わなかった」

 本館の向こうに立つ背の高い移紅うつりべにの梅の木は、淡紅梅色の花を、葉のない枝の先々に咲かせていた。

 暫しその木花の向こうに思いを馳せていた様子の娘は、一つ寒気に身震いして抱き合わせた両腕を叩いた。

「さて、準備をしないと」

 娘は寝室に寒風と光が入り込むままにしておいて、薄暗い廊下の先へと向かった。

 ピンと背の伸びた娘の摺り足はほとんど音もなく、また広大な館はしんと静まり返って、聞こえるのは鳥のさえずりと、朝日に溶けた屋上の雪が時折落ちる音。

 二部屋分を飛ばして障子を開ければ、放置されて久しい様子の囲炉裏の間。その奥の襖で仕切られた部屋へと、娘は足を踏み入れる。薄暗い室内には、背が天井まで届く巨大な黒壇の箪笥。仕切りの細かいその古い箪笥には、収納物を書き留めた半紙が無数に貼り付けてある。

 娘は最下段右端の引き出しを開けた。紙には『芥子』の文字。懐紙に分けて包まれたものを、引き出しの中にある分すべて取り出し、胸元に仕舞う。そうしてまた静かに立ち、薄暗い黒壇の箪笥の部屋を後にした。

 彼女が次に向かったのは厨だった。樽の中で凍りついている水の表面を金槌で叩き割り、柄杓で三杯、銅の薬缶へ移し替える。冷水の入った薬缶を携え、彼女は再び床の間へと引き返した。途中、通りすがり際に囲炉裏の間の入り口に銅の薬缶を置いて。

 床の間の火鉢の中でわずかに赤みを灯している炭を一片、鋏でつかみ、娘はまた囲炉裏の間へと向かう。畳の上に正座し、燃え残っている炭に種火を与え息を吹いてやれば、緋色の炎が天井の煤に向かって低く燃え上がる。自在鉤に薬缶を吊るし、娘は静かに待った。胸の合わせの中に仕舞った、芥子の粉の包みたちを、時折気にするそぶりを見せながら。

 ふと、娘は思い出したようにスッと立ち、また厨へと向かった。深めの陶器茶碗をひとつ手にとって、火の元へと戻る。そして再び正座をして、薬缶が口笛を鳴らすのをただ静かに待った。開け放しの廊下との敷居から、寒風が流れ込んでくることにも構わずに。

 やがて甲高い音が鳴り、娘はそっと薬缶の蓋を開けた。立ち昇る白い湯気を見つめ、煮えたぎる湯の中から爆ぜる気泡の音に耳を傾け、娘はまたしばらく待った。

 ようやく薬缶を火から下ろし、膝元に置いてあった茶碗の中に少量を注ぎ、洗って、燃える薪の上に中身を投げる。ジュワッと音を立て、熱湯は炎の中に消えた。もう一度茶碗の中に湯を注ぐと、娘は薬缶の中に残った湯をすべて使って、薪を濡らしてしまった。火は虚しげな声とともに消え去った。

 懐から取り出した薬の包を、娘はひとつ広げた。褐色の粉末が、わずかばかり。それを湯の入った碗の中に溶かし入れる。もうひとつの包も同じようにして、またもうひと包、さらにもうひとつ……。

 透明だった湯が、すっかり朽木色に染まった。

 娘は熱い、濃い薬湯の入った茶碗を大切げに抱きながら、床の間の方へと引き返した。先程となにも変わらぬ様子でまぶたを閉じている青年を一瞥して、娘は縁側に腰を下ろした。段石の上を覆う霜を、冷えた草履で掻き落とす。

 枯れ草に隠れる氷の張った池、雪の積もった石畳、葉の落ちて枝ばかりが伸びた植木と、手入れの放置されて久しい常緑樹。荒れた庭園。その中心に立ち並ぶ、二本の椿の木。紅の花を咲かすのと、白の花を咲かすもの。この屋敷が建てられたときに植えられたという、『夫婦めおと椿』と客人たちから親しまれてきた、年老いた双子の樹木。近すぎて、割れた幹が絡まり合い、半ば一本の木のようになって、冬になるとその濃い緑の葉の中に紅と白を入り乱れさせていた。

 その花の時期も、終わろうとしている。

 娘はいくらかぬるくなった碗を両手で包み、瞳を閉じた。

「いざ過ぎてみれば、この一年もアッという間だった。去年の今頃を思い出す。せめてあのときに戻れたら、もう少し良くしてあげられるだろうに。ねえ、妹って言ったって、同じ日に生まれたのだから、時々には姉の気分になってみたりもしたけれど。結局、わたしは強がりのあなたに甘えるのが、好きで仕方がなかったのね」

 娘はぽつりぽつりと、言葉を切りながら呟いた。そうして、口当たりの良い温度になったであろう薬湯を、一口、ゆっくりと口に含んだ。

「ああ、あなたの言う通り。味わって飲むようなものじゃないわ」

 娘は喉元を細い手で抑え、えずくのをこらえるようにして細い呼吸を二、三度してから、碗に残った褐色の薬湯を息を止めて飲み干した。

「二度と飲みたくない。その心配はいらないでしょうけれど」

 苦しげな声音で文句を言い、娘は碗を持って立った。そうして、先まで足を乗せていた段石の上に、陶器の碗を落とす。高い音とともに、流麗な文様が砕け散る。

 その様子を見届けて、娘は青年が横たわる床の間の敷居を跨ぎ、冷えた布団の中に戻った。

「さあ、これでわたしもよく眠れるでしょう」

 左側で眠る青年の方に、娘は手脚を伸ばし、体を寄せる。

「なんだか、こんなようなことを、随分と前にも、したような気がする」

 そのまま青年の布団へともぐり込んで、肋の浮いた胸へと腕を回し、包帯に覆われた手を握り、肉のない腿へと膝を絡めた。

「どれだけぶりかしら。ずっと我慢していたの。ようやく抱きしめられる。できたら、まだあなたが温かい頃に、もう一度しておきたかったけれど」

 次第にか細くなっていく声で、娘は青年の耳元に囁いた。痩けてもなお娘と同じように美しい青年の横顔の向こうで、雪に覆われた侘しい庭園が陽光にきらめいている。

「儚くて、美しい世界だった」

 娘は深く長い吐息とともに、その墨色の瞳を閉じる。

 今年の冬に最後、一輪ずつ残っていた紅白が、ぽとり、ぽとりと、白雪の上に落ちた。

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