第4話 ふたりの騎士(ナイト)候補

 スマートフォンの地図アプリを睨みながら、春眞はるま冬暉ふゆきは連れ立って早足で歩く。速水はやみさんが住まうマンションはシュガーパインから徒歩5分ほどの距離で、このあたりの地理に明るいふたりが迷うことは無いだろう。念のための地図だ。


「うちから近いんやね」


「そうやな。人通りも、この辺まで来っと、さすがに減るか」


「住宅街やからね。けど速水さんが追い掛けられたってのが駅から店までやから、人通り云々は、ま、当てはまらへんか」


 速水さんのお勤め先は淀屋橋だそうで、大阪メトロ御堂筋線で通勤されている。ご自宅の最寄り駅はJR阪和線の長居駅になるのだが、このふたつの駅はそう離れていない。歩いても1、2分ほどだ。


「まぁな」


 そんな話をしているうちに、ふたりはマンションに到着する。白いタイルで覆われた外観をざっと見ると、ベランダの間隔の狭さからしてワンルームの様だ。玄関はオートロックになっていて、セキュリティは悪く無いと言える。


 インターフォンを鳴らす前に、冬暉は金属製のポストの前に立った。春眞もつられる様に視線を動かす。503号室のポストに「速水」のプレートが貼られていた。


 ざっと全部のポストを見てみるが、速水もしくは「はやみ」と読む姓の住人は速水さんだけだった。名前を出していないポストもあったが、そこが「はやみ」である確率は高く無いだろう。珍しい苗字では無いが、そこいらにぽんぽんある苗字でも無い。


 そしてポストの横には宅配ボックスがあった。冬暉は満足げに頷いた。


 さて、ようやく速水さんの部屋にアクセスする。インターフォンで503号室を呼び出す。ピンポーン……と機械音が響き、ややあってがちゃっとくぐもった音がした。


『……はい』


 怯えた様なか細い声。しかしちゃんと速水さんの声だ。


里中さとなかやけど」


『あ、は、はい!』


 冬暉が応えると、速水さんの声に張りが戻った。部屋に帰ってから今までひとりで怯えていたのだろう。さして長い時間では無かっただろうが、そんな事は微かな慰めになる程度だ。


『今開けますね!』


 そして自動ドアがすっと開いた。春眞と冬暉は速やかに入る。そうして少し奥まったところにあったエレベータに乗り込んだ。1階で停まっていたので、良いタイミングだった。


 エレベータが5階で停まり、ふたりは速水さんの部屋を探す。戸数の多くないマンションなのですぐに見つかった。


 ドアの横にもインターフォンがあったので押すと、数秒後にドアが開いた。


「大丈夫か?」


「は、はい……」


 春眞と冬暉の顔を見て、速水さんは安堵した様に表情を和らげた。しかし顔色は悪い。春眞は昨日シュガーパインに飛び込んで来られた時の事を思い出す。


「今日は店から歩いて帰って来たんやな?」


「あ、はい、そうですけど」


「だとしたら、まじぃな」


 冬暉は忌々いまいましそうに片眉を吊り上げた。


「何が」


「後付けられてんやったら、家知られたやろ、多分」


「あっ……!」


 速水さんが目を見開いて口を押さえた。そこで春眞は冬暉のポスト前での行動の意味に気付いた。


「あ、ポストで部屋番号も知られた可能性もあるって事か」


「速水さんの名前を知られてりゃあな。そもそもきっかけが判んねぇからよ。いんだよ、道ですれ違って目が合っただけでストーキング始めるクズが」


「意味が判らん」


「俺んだって判んねぇよ。ともあれ……今朝は何も無かったか? まぁあったら警察で言ってんだろうが」


「はい、大丈夫でした。晩だけです」


 速水さんは何度も頷く。


「しかも時間が9時前後と来たか……まぁ時間に関しちゃ今日昨日と被っただけやから、他の時間帯は判らんけどな」


「こ、困ります! 今仕事が忙しい時で、あと1ヶ月は帰りが、駅に着くんが9時ごろになるんです。今日も休日出勤で……明日は休みですけど」


 速水さんは狼狽うろたえた。皆が忙しく残業しているのに、事情が事情とは言えひとりだけ先に帰るという事はできないししたくない。その気持ちは春眞にも良く解る。きっと冬暉にも。さらにお話を聞くと、速水さんたち女性社員は男性社員より早く帰らせてもらっているらしい。それならなおさら、今より早く帰らせて欲しいなんて言える訳も無かった。


「早い時間なら明るいし人通りもあるけど、遅ぅなったらそういう訳にもいかへんね」


「そうやな。しばらく晩だけでも家まで送ってくれるやつがいりゃあいんだけどよ」


「うちに来てもろたら、9時の閉店以降なら大丈夫やけど」


「俺も早かったら7時には帰ってっから送れるな」


「あ、いえ、そんなご迷惑をお掛けする訳には」


 速水さんは恐縮する様に身を縮こませる。しかし春眞も冬暉も首を振った。


「そこ遠慮するとこじゃねぇぜ、速水さん」


「そうですよ。僕らは迷惑とも何とも思わへんので、遠慮せんといてください。それより速水さんに何かあった時の方が心配です」


「ま、後味は悪りぃよな」


「冬暉、言い方が悪い」


 春眞がにらんでいさめると、冬暉はひひっと小さく笑った。


「ま、俺らが送ってる時にボロ出してくれりゃあ、そん時にふん捕まえてやんよ」


 冬暉の口角がキリッと上がる。まるでこっちが悪人の様だ。


「血気盛んやなぁ」


春兄はるにぃもやんだよ。自慢の俊足を活かすとこやろ」


「余裕で追い付けるやろうけど、僕、兄弟の中じゃ多分最弱やから。元刑事の兄ちゃんや現職警察官の冬暉や、あの茉夏に敵うはず無いっての」


「死ぬ気で来いや」


「冬暉に行ってどうすんねん。いや実際そんな事になったら頑張るけどね?」


「おう。漢気おとこぎ見せろや」


「はいはい」


「……ふふっ」


 春眞と冬暉のやりとりを見ていた速水さんが、おかしそうに小さく笑った。いつの間にか顔色も良くなっている。


「あ、ごめんなさい。おふたり仲がええんですね」


「まぁええ方でしょうね。でなければ兄弟でカフェ経営なんてできませんよ。兄ちゃん、あ、長男には逆らいません」


「別に怖かねぇだろ、あんな兄貴」


「いや怖いやろ。冬暉が一番身に染みてるやろ」


「怖かねぇって」


 否定しつつ、冬暉の顔は密かに引きつっていた。速水さんには判らないかも知れないが春眞にはばればれで、おもしろくてにやにやしてしまう。


「っと、話が脱線してもた。とにかく帰りは必ずうちにお寄りくださいね。お送りしますから」


「で、でも」


「遠慮は無しですからね。大丈夫ですよ。僕なんかは掃除さぼれてラッキーかも知れません」


 春眞がおどけた様にそう言って笑うと、速水さんはようやく頷いた。


「は、はい」


「じゃあ決まりな。速水さん、誰かが来ても不用意に開けたらあかんで。宅配なんかも下のボックス使え。通販とかする時も着払いはしばらく避けてくれ。居留守使こてもええからよ」


「そもそも夜とかにアポ無しで訪ねて来るんが非常識やしね。ご面倒かも知れませんけど、まずは相手が判るまでは、いや、判っても、気を付けてくださいね」


「あとドアのチェーンは絶対しとけよ。当たり前やけど鍵もな。カーテンも閉めろよ」


「はい、解りました!」


 気持ちもすっかり落ち着いたのだろう、カナはしっかりと頷いた。




 意中の女性の家を知る事が出来た喜びで、男はスキップしたくなる足を賢明に落ち着かせようとしていた。と言っても男はリズム感が悪く、巧くスキップが出来ないのだが。


 部屋番号はポストを見て確認した。あのマンションには彼女と同じ苗字の人間は他には住んでいない様で、となると必然的にそこが彼女のポストになる。名前を出していないポストもいくつかあったが、彼女は自分の運命の女性なのだから、こんな事でつまずくはずが無かった。


 彼女がポストのチェックなどをしてくれたらもっと確実だったのだが、慌てる様に自動ドアの向こうに行ってしまったのだから仕方が無い。


 男はさらに追いかけようとした。だが無情にも自動ドアは男が辿り着く前に閉じてしまった。なので男は彼女の部屋を呼び出そうとした。だがまだそのタイミングでは無いと、男の何かが告げた。


 でも自分の事をもっと知って欲しいと言う欲求だけは、一人前に沸き上がって来る。そこで男はポストにメモを入れる事にした。バッグからメモ帳を取り出して1枚千切り、メモ帳の表紙を下敷き代わりにする。黒のボールペンで簡潔に、たった一言だけを書いた。


 また明日、会いに来ます。


 それをポストに入れると、男はマンションを後にした。


 明日が楽しみだ。男は楽しくて嬉しくて、ヒューヒューと空気しか出ない口笛になりきれないそれを吹きながら、軽やかに歩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る