第3話 密かなどんでん返し
「こちらにどうぞ」
春眞はふたつ空いていたテーブルのうちの、カウンタに近い方に速水さんをご案内する。シュガーパインは全て丸テーブルで椅子は4脚がデフォルトだ。そこだと春眞や
お話と言っても長話をするつもりは無い。お客さまには寛いでいただきたい。店員はオブジェとでも思っていただきたい。
今日の速水さんは「お客さま」なのだから、相応の対応をするつもりだ。だが
秋都が完成させた魚介のマリネを運んでいる最中に速水さんのテーブルを見ると、速水さんはメニューを眺めていた。楽しそうな表情だ。昨日怖い目に遭ったとは思えない。1日経てば落ち着きもするだろうし、冬暉のところに行ってくれたのなら、それが安心材料になっているのかも知れない。
マリネを運んでカウンタに戻る途中、春眞は速水さんのテーブルに寄ってみた。
「速水さん、今朝、冬暉のところには行かはれました?」
ストレートにそれだけを訊いた。昨日が大丈夫だったかどうかは、山崎さんが社用車で送ってくれた筈だし、何せ今の速水さんのご様子からして愚問の様に思えた。
「あ、はい。あの、昨日のお礼を言いたかったんです。ほんまに助かりました、ありがとうございました! 今朝行って来ました。話を聞いてくれたんは生活安全課の婦警さんやったんですけど、里中さん、あ、冬暉さんも一緒にいてくれはって。巡回を強化してくれるって事で、ほっとしました。今日は何もありませんでしたよ!」
「それは良かったです」
春眞はまた安堵して頷いた。これでもう速水さんが怖い目に遭わなければ良いのだが。
と言う事は、昨日の件が痴漢なのかストーカーなのか、それとも速水さんの気のせいなのかは、現時点では判らないままか。当たり前だ。誰も根本を突き止める行動を起こしていないのだから。
しかしこのまま何も起こらなければ、気のせいで片付けてしまっても良い様に思える。何も無かった事にしてしまえば、もう誰も怖い思いをしないで済むのだから。
「では、ご注文がお決まりになりましたら、おっしゃってくださいね」
すっと店員モードに戻った春眞がそっとその場を離れると、速水さんは頷いて、またメニューに目を落とした。
お食事を終えられた速水さんがシュガーパインを出たのが20時半ごろだった。
「ほんまにありがとうございました! あ、ご飯とても美味しかったです。また来ますね!」
速水さんは明るくそう言い残し、笑顔で去って行かれた。
20時半はドリンクのオーダストップの時間でもあったので、各テーブルにオーダを伺いに行く。そのタイミングでチェックを申し出られるテーブルも多く、他テーブルからのオーダも無かったので、まずはチェックを済ませた。
終えてカウンタに戻った春眞はもうオーダが無い事を秋都と茉夏に報告し、こっそりと厨房の後片付けを始めた。その間にお客さまが1組チェックを申し出る。春眞は手が放せないので茉夏が行った。するとその後すぐに最後のテーブルもチェックを申し出た。こちらも茉夏が対応した。
全てのお客さまが退店され、すっかりと静かになったシュガーパイン。秋都は大きく息を吐いた。その顔には少しの疲労と大きな充実感があった。
「春眞〜、茉夏〜、今日も1日お疲れさま〜」
「はいよ」
「はぁい、お疲れさま!」
春眞も疲れてはいるが、やはり充実感は大きい。週末と言う事もあって、シュガーパインは繁盛していた。今日は途中のレジチェックをする間が無かったが、売り上げも良いに違いない。下世話かも知れないがやはり大事な事だ。シュガーパインを維持する前に、兄弟が食べて行かなければならないのだから。
「さ、さっさとお片付けして、晩ご飯にしましょ。今日はソース類もあまり余らなかったわねぇ〜 何にしようかしら」
「米があったら、デミグラスとトマトソース合わせてハヤシライスもどき」
「それいいわねぇ〜」
春眞の提案に秋都はうんうんと頷いた。これで今日の晩ご飯は決まりだろうか。
「でもお米が4人分も無いんよねぇ〜 パスタに掛けようかしら。今日はええ具合にいろいろと減ったわぁ〜 無くなっちゃわないかどきどきしちゃった」
「ボク、お米よりパスタがええな!」
テーブルと椅子を拭きながら、茉夏が楽しそうに言った。
勿論仕込みの段階で、その日の来客数を予想して分量を決める。しかしお客様が何を注文するのかなんて判らないのだから、デミグラスソースが多めに余る事もあるし、トマトソースが余る事だってある。幸い無くなった事は無い。そうならない様にだけはしているつもりだ。
「玉ねぎと牛肉炒めて〜、牛肉は薄切りね〜」
秋都が野菜ストッカーや冷蔵庫を開けて在庫を確認していると、上から乱暴に階段を駆け下りる音が聞こえて来た。
「ちょっと冬暉!? 静かにしぃや!」
既に仕事から帰り、上の住居スペースにいた冬暉が、スマートフォンを振り上げてばたばたと降りてきた。冬暉は茉夏の苦言も聞こえやしない様子で、深刻かつ慌てた表情で言った。
「ストーカーかもしんねぇ!」
「なぁに? もしかして速水ちゃん?」
今現在兄弟の中では、ストーカーと言われれば速水さんに結びつく。秋都のせりふは春眞も、きっと茉夏も思った事だった。ふたりはつい片付けの手を止めてしまう。秋都も冷蔵庫から顔を上げた。
「今速水さんから電話あってよ、こっからの帰り、やっぱ追っ掛けられとる気配がしたんやと。俺ちょっと行って来るわ」
冬暉は午前中速水さんが警察署を訪れた時に、携帯電話の番号を交換していた。
「何かあったらすぐに連絡して来い」
それがさっそく役立ってしまった訳だ。勿論無いに越した事は無かった。しかし現実に冬暉のスマートフォンは着信を告げ、発信元は速水さんだったのだ。
「速水ちゃんてひとり暮らし?」
「そうやけど」
「行くのはええし勿論そうしてあげた方がええけど、いくら警察官やからって、女性ひとり暮らしのお家に男がひとりで行くのはお勧めできないわぁ〜」
「何もしねぇよ!」
「解ってるわよぉそんな事。でもそういう事や無いの」
心外だと声を上げる冬暉に秋都は首を振った。
「じゃあボクが一緒に行く!」
茉夏が威勢良く手を挙げた。だが。
「あかん」
「ダメよ〜」
春眞と秋都の声が重なった。
「何でや!」
「茉夏と冬暉やと喧嘩になる。話は進まんわ速水さんに迷惑やわでええ事無いやろ」
「せぇへんよ!」
「春眞、あなた一緒に行ってあげてね〜」
「はいよ」
「ちょっと秋ちゃん春ちゃん! 聞いてや!」
無視されている茉夏が喚いているが、春眞も秋都もとりあえず相手にしない。今までもこんな事は何度もあって、茉夏は拗ねるのだが、性格がさっぱりしているせいかすぐに機嫌を直してくれる。後に引きずらないので心配無い。
「よし、行くで冬暉」
「お、おう」
春眞はエプロンを外してカウンタに置くと、冬暉を伴ってシュガーパインを出た。
嫌や、何、怖い。
カナはたったひとり、部屋で小さく震えていた。何かを掴みたくて、右手は手近にあったベッドの掛け布団を握り締めている。左手は身体を包み込む様に右の二の腕を掴み、立て膝で縮こまっている。
1度なら気のせいかと思えるかも知れない。気のせいで無かったとしても、通りすがりの痴漢だったらそこで終わっていた筈だ。なのに2度ともなると、そうも言えない。2日続けて痴漢に遭う確率は高くは無い。しかもまだ人通りのある時間帯にだ。
本当にストーカーだったらどうしよう。ストーカーだったら一体誰だろう。身に覚えが無い。最近誰かと関わっただろうか。職場の人なのか、それとも男友だち……は最近は連絡すら取っていない。大学卒業以降、もっばら付き合いのあるのは女友だちばかりだ。
過去の交際相手がストーカーに成り果てるという話も聞いた。犯罪にまで発展しているケースも少なく無く、ニュースなどでも見る。多くは無いが、思い浮かべて見る。山崎くんは昨日仕事中だったのだから除外する。わざわざ車で送ってくれたのだし。
……いや、それすらも演技だったら? 確かにシュガーパインは仕事の取引先だった様だが、そこに逃げ込むカナを見て、してやったりと思ったとしたら?
ああ駄目だ駄目だ、どんどん考えが悪い方に行ってしまう。カナは嫌な思いを振り払う様に何度も首を振った。疑いたくなんて無い。山崎くんは優しい良い人だった。カナの勝手で別れる事になってしまったが、そんな
その時インターフォンが鳴り、カナはびくっと震え上がった。
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