第2話 どちらでも嫌です
痴漢は怖い、気持ちが悪い。しかしストーカーはそれを遙かに越える不気味さがある。一過性とも言える痴漢はその時さえ凌げればどうにでもなるかも知れないが、ストーカーとなるとそうは行かない。
いつでも粘着質に付きまとわれる恐怖は想像するに余りある。止めさせる事を説得させる事は難しい。それで解決する様な相手なら端からストーカーなどにならない。
まさか。
治まっていた女性の震えがまた起こり始めた。当たり前だ。そうならない女性などいないだろう。
「あ、あ、お嬢さん、ちゃうのよ〜。これはあくまで可能性なんやからね〜、確定や無いのよ〜」
「そうやで
感情が昇ぶってしまったのか、今まで女性の肩に置かれていた
「俺かい!」
「警察官やろ! 相手が痴漢でもストーカーでも民間人守るん当たり前やないか!」
「そりゃそうやけどよ!」
「ほらほら、喧嘩しないの〜」
「まずは一過性の痴漢かストーカーか、見極める必要があるやろ。話はそっからや。どっちにしても届けは出してもらうで。えーと、あんた名前は?」
「あ、は、
「よし速水さん、明日時間あっか? 来てくれたらこの辺の巡回も強化できっからよ」
速水さんはおずおずと頷いた。
「は、はい。明日も仕事で、でも途中抜けさしてもらえると思います。そんな時間掛かりませんよね……?」
「調書取るやろし、えぇと、午前休とか取れんならその方が確実やな」
「はい、会社に聞いてみます」
「痴漢に遭うたから警察行くって堂々と電話してやれや。あんたは被害者なんや。怖えぇ思いしたんだからよ。な」
「は、はい」
……冬暉は口は悪いが優しい子なのだ。ぶっきらぼうだし誤解される事も多いが、春眞たち兄姉や付き合いのある友人知人は良く知っている。ベタな例えだが、冬暉は雨の日に捨てられている動物を拾ってしまうタイプなのだ。
それが速水さんにも伝わったのか、また震えは落ち着いて、表情も穏やかになっていた。
どうにかこの場は終結だろうか。ではそろそろ速水さんをお送りしようかという雰囲気になった時、ドアが開いた。その場にいた全員が反射的にその方を見る。
「こんばんは、お世話になってます、カワカミリースです」
立っていたのは黄緑色の作業つなぎを着た青年だった。以前貰った名刺や、胸元の名札に書かれている名は
カワカミリースさん。カフェ・シュガーパインがシュガーバインの鉢植え計8鉢をレンタルしている、植物専門のリース会社である。日々の水やりなどは秋都たちが行っているが、
少しでも枯れ始めたら交換してくれるし、もし病気になってしまっても交換した上で治療してくれる。シュガーパインのトレードマークであり癒しである緑は、カワカミリースさんに支えられているのだ。
いつもなら山崎さんが訪れる時には春眞たちは後片づけに追われていて、山崎さんはシュガーパインの鉢植えの調子を見ながら、そんな春眞たちと他愛の無い話をしたりする。だがいつもと様子の違う店内に、山崎さんは首を傾げた。
「あの、どうかしはりました?」
「あら、ごめんなさいね〜。何でも無いから、シュガーバインよろしくね〜」
「はぁ……あ、あれ?」
やや怪訝な表情を浮かべていた山崎さんは春眞たちをぐるりと見渡し、その視線がある一点で止まると、軽く目を見開いた。
「カ、あ、速水、さん?」
「あ、……山崎くん」
名前を呼ばれた速水さんも驚いた表情を浮かべた。
「あれ、おふたりお知り合いですか?」
春眞が訊くと、おふたりは
「あの、何かあったんですか? もう閉店時間も過ぎてますよね」
店員でも無い筈の速水さんを、店員3人と初めて見る男性が取り囲む様にしているのだから、山崎さんも気にもなるだろう。
言って良いものかどうか、春眞がちらりと速水さんを見ると、視線が合った速水さんは小さく頷いた。
「あのですね、どうやら痴漢か何かに追い掛けられとる気配があると言わはるんで、ここで少し休んでもろてるんですよ」
「え、痴漢!?」
山崎さんの顔色が変わる。
「あ、あのね山崎くん、大丈夫やから。そんな気がしたってだけで、ここに逃げ込めたし、大丈夫やから」
「大丈夫な訳無いやろ!」
山崎さんの声が荒くなる。速水さんの表情に一瞬怯えが浮かぶが、それはすぐに落ち着いた。山崎さんはただ速水さんを心配しているだけだ。それは速水さんも理解したのだろう。
「俺、今からここで仕事あるけど、それが終わったらで良かったら、家まで送るわ。会社の車やけど」
「そんなん悪いわ」
「速水ん家近いやろ。手間でも何でも無いから」
「あ……、ありがとう」
速水さんは安堵して表情を和らげた。春眞たちも家まで送る事を申し出ていたが、やはり知り合いに送ってもらった方が気も楽だろう。秋都も冬暉も、そして茉夏も何も言わなかった。
やがて山崎さんがシュガーパインでの仕事を終え、すっかりと落ち着いた様子の速水さんを伴って店を出て行き、店内には兄弟4人だけになった。
「速水さん、明日届け出てくれよ。待ってっから」
出て行く速水さんに冬暉が言うと、彼女はしっかりと頷いていたので、約束を
「車で送ってくれるんなら安心やね!」
いちばん心配していたであろう茉夏が胸を撫で下ろす。
「ほんまよね〜。ねぇねぇところでさ〜、山崎くんと速水ちゃん、前お付き合いしていたのね〜」
「そうなん?」
春眞が目を丸くすると、秋都はしたり顔で頷いた。
「最初、カナって名前を呼び掛けて、苗字に言い直しとったでしょ〜。名前で呼んどったって事はかなり親しかったって事よね〜。で、言い直したって事は今はそうや無い。お友だちやったならわざわざ言い直しもせんでしょうからね〜。せやからお付き合いしてたんや無いかしらって思ったの〜」
「さすが兄ちゃん。元刑事」
「やだ〜、ちょっと気を付けてれば誰にでも判る事よ〜」
春眞に感心されて満更でも無いのか、それでも秋都は
秋都は元刑事なのだ。それが何を思ったのか突然退職してカフェをやると言い出した。警察官時代にコツコツと実績を積み上げ、人徳を得て、恐らくかなりのスピードで刑事への難関を突破した。その報を口にした時の秋都は本当に嬉しそうで、念願叶って良かったね、と春眞と茉夏もともに喜んだものだった。
なのでカフェの話を聞いた時には心底驚いた。と同時に考え無しに言っている訳では無いと悟る。春眞も夏茉もその程度には兄を尊敬しているのだ。
それは春眞と茉夏が大学を卒業する年だった。3人は話し合い、双子が卒業すると同時にカフェ・シュガーパインを開店する事を決めたのだ。
余談だが秋都がオネエになると言い出した時には、営業と解ってはいても春眞も夏茉も頭を抱えた。
「そんくれぇ俺にも判るっつの!」
現職警察官の冬暉が対抗意識を燃やす。確かに冬暉は乱暴だが人の事は良く見ている。職業柄という事もあるだろう。
「ま、それがほんまやったら人となりもある程度知ってるやろうし、送ってもらえて良かったんかも知れへんね。偶然の再会、かぁ」
「でも元恋人同士とかって気まずいとか無ぇんか? あ、確定や無ぇか」
「気まずかったら送るとか言わへんのや無いやろか」
「少なくとも、山崎くんがええ子やって事は判ったわね〜。今までもそうやと思っとったし頼りにもしてたけど、これからも安心してシュガーバインを任せられるわぁ〜」
秋都が楽天的に言うが、冬暉は何やら考え込む様に顔を伏せ、ぽつりと口を開いた。
「……なぁ、速水さんのストーカーって、あの山崎ってやつって事は無ぇか?」
冬暉の言葉に春眞と夏茉は目をきょとんとしたが、秋都は「まさか〜」と手を振った。
「多分無いわね〜。痴漢でもストーカーでもやるなら仕事終わってからでしょ〜。それに山崎くんがここで速水ちゃんを見た時の驚き方は演技や無かったわ〜」
「そんならいいけどよ」
冬暉は頭を掻いた。
「さぁさぁ、さっさと後片づけしちゃいましょ。遅くなってしもうたから、冬暉も手伝ってね〜」
「何で俺まで」
「早く晩ご飯食べたいでしょ〜?」
「ちっ」
面倒そうに舌打ちしつつも、冬暉は素直に後片づけの手伝いに入った。
翌日、午前10時。カフェ・シュガーパインはいつもの通り開店する。
速水さんは冬暉のところに行ってくれただろうか。春眞たちは気にしながらも、お仕事に精を出す。
今日は土曜日なのでお客さまの入りも上々だ。平日ならマダムらしき女性が多いフロアにも、若い女性やカップルが多い。ランチタイムには満席になる時もあり、ティタイムには7〜8割方席が埋まった。
そしてディナータイムが訪れる。席も8割ほどが埋まっていて、春眞たちは余計な事を考える暇も無く調理に給仕にと勤しむ。アルコールの提供もあり、それらを作るのは主に春眞なので大忙しだ。
ちなみに平日だと30分は取れる休憩時間が、休日だと15分だ。お腹を軽く満たす為の菓子や栄養補助食品を放り込むだけで終わってしまう。
外もすっかり暗くなって来ると、春眞たちはどうしても速水さんの事を思い出してしまう。今日も仕事だと言っていた。また帰りは遅くなるのだろうか。今日は大丈夫だろうか。
速水さんが警察に届け出てくれていて、冬暉の言葉を信じるなら、巡回が強化されている筈だ。無事に、恐怖に襲われる事も無く、家に帰り着いてくれると良いのだが。
19時ごろ、また1組のお客さまが訪れる。出迎える為に春眞がドアに向かった。
「いらっしゃいま……、速水さん」
「こんばんは。昨日はありがとうございました」
立っていたのは、怯えた様子など欠片も無い、微笑を浮かべた速水さんだった。
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