とある夫婦の……②
2024/04/13②
そこで、妻が、はっと気づいた顔をする。
長年の付き合いは、愛というのは不思議なものだ。
わかってしまうのだから。
一瞬、悲しそうな顔をして、それでも、やれやれとばかりに、妻が私の腕から離れた。
「なあ、君」
「…なんですか、先生」
若い二人が寄ってくる。
「私は、君たちが好きだ」
「わたしたちも先生が好きですよ」
「私は、好きなものが書きたい」
「先生の書きたいものを書いて欲しいです。だから、元気になってください」
「元気になったら、いくらでも書いていいですから、まずは元気になってください」
――――言ったな?
「私は、君たちが書きたい」
「えっ、と。それってどういう――」
「私は、君たち夫婦が書きたい」
夫婦が顔を見合わせて困っていると、廊下をどたばたと走る音が聞こえた。
遠くからはさっきの婦長の叱る声が響き渡った。
何事かと思っていると、騒がしいのが息を切らせて病室に入ってきた。
担当の奴だった。
「先生!先生!?生きてますか!!」
馬鹿たれ。死んでたまるか。
「よかった……本当によかった!あれが遺作になるかと思ってどうしようかと!」
縁起でもないことを言うな。この通り、無事だよ。
「本当に勘弁してくださいよ!無理させているのはわかってるし、僕だって申し訳ないと思っているし、なにより僕が付いていないときに限ってこれ――」
「次作が決まった」
「えっ?」
担当の奴は目を丸くして言葉を止める。
夫婦も、いまだ顔を合わせて不思議そうな顔をしている。
妻だけがくすくすと笑っていた。
「この子らのような、夫婦の話を書く」
そう言うと、若い二人は慌て始めた。
「普通のどこにでもいる夫婦を書いても……」
「ほ、ほら、元気になったらにしましょう!今は休まないと!」
――言ったな?
「夫婦ってのは、一心同体と思わないかね」
「そ、それはまあ」
彼が答える。
「元気になったら、いいと言ったな?」
「え、ええ……」
わざと儚げに言う私に、勢い負けしたのか二人は頷いた。
ニヤリ、と悪い笑みを浮かべたのが自分でもわかった。
妻だけが、くすくすと笑っていた。
「よっこら、と」
さすがに体は重いし、まだ頭はずきずきと痛む。
が、体を起こすのに支障はない。
軽く伸びをすると、ばきばきと盛大な音を立てる。
手のひらを軽く握って、開く、
うむ、握力も問題ない。
首を捻る。また、音がする。
妻が病室の窓を開けた。
春の暖かな風が入る。
青々とした緑の香りが鼻腔をくすぐる。
すぅ、と大きく深呼吸をすると、身体中に新緑が満ち渡る。
呆然としている面々の中で、妻だけが、堪えられなくなったのか声を出して笑っていた。
「おい、紙とペン」
それだけ言うと、担当の奴が慌てて返事をする。
その目は爛々と輝いていた。
「せ、先生」
彼が、呆れた顔で言う。
「ず、ずるい」
彼女が引いたような顔で言う。
「ははは!まだまだだな!」
二人は仕方ない、とばかりに顔を見合わせる。
「俺たちなんかをどう書くんです?タイトルは?」
ああ、そうだな。
題名ってのは大事だ。
名は体を表すというし。
なに、私はただの平和で、どこにでもある、人間模様が書きたいんだ。
人の幸せを。
それも、どんどん幸せになるやつを。
読んでいるだけで、人っていいもんだな、こういうのが幸せだよな、って思えるようなやつを。
抗うでも、争うでもなく、ただ自分たちがどう生きるか、向き合うような物語。
挫折や、壁なんて、そんなのはみんな、現実の生活で飽き飽きしているだろう。
だから、こういうこともあるよな、って、ほっ、とするような。
わかるわかる、って自然と思えるような。
精一杯とか、一生懸命とか、命懸けとかでなくてもいいんだ。
みんな、どうにかこうにかやっているんだ、って日常でいい。
今、持っている幸せを、ひとつひとつ拾い集めるような物語。
そこにはきっと、感動がある。
案外、日常ってのはドラマチックで、ロマンチックなもんだ。
人の営みから見える幸福を噛み締めるような、そんな物語が書きたい。
君たちのような、夫婦の、どこかさわやかで理想的な夫婦の日常。
そりゃあ、人と人が関われば、いろいろある。
それを乗り越えていく夫婦の日常。
そういうものを書きたいんだ。
そう、ただ書きたいんだ。
書きたくて堪らないのだ。
だから――
担当の奴から手渡された紙に、ペンを滑らせる。
いい万年筆だ。
すらすらと字が踊るように出てくる。
「これにしよう」
紙に書いたものを二人に見せる。
『とある夫婦の平凡な日常』
――俺たちにぴったりのタイトルだ。書いてください。
――わたし、楽しみにしてますから、ちゃんと書いてくださいね。
任せとけ。
書かない小説家 曇戸晴維 @donot_harry
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