第2章・第8話 五文字の天岩戸(あまのいわと)

 ――極端な話だけどさ、この時思ったの。

 あたしに、犯罪者を軽蔑する資格はあるのか? って。


「と……」

 話題を変えようとした時だった。ふいに、ぐらりときた。精神的にではなく、物理的に。地震だ、と理解するより先に、上からゴミが落ちてくる。

「危ねえッ!」

「きゃっ!?」

 それは、信じられない程の俊敏さだった。人形の身でありながら、ユウヤが跳んだ。横っ飛びに突き飛ばされる。数瞬前まで座っていた場所に、壊れたステレオデッキがドールハウスの屋根を壊して落ちてきた。

「ふー……大丈夫か?」

「え、ええ、おかげさまで……」

 人形同士が折り重なっている様は、はた目には滑稽かも知れない。

 けれど、重要なのはそこじゃない。「ユウヤが助けてくれた」ことだ。

 理解が追いつかないほどの感動だった。だって……だって、人間だった頃、身体を張ってくれる男なんて、皆無だったから。


「おっと、いつまでもこの体勢だと、なんか気まじぃな?」

 照れた笑みで、ユウヤが離れる。変に、名残惜しかった。肌の温もりも何も、それよりそもそも、仮にあのステレオが直撃したにせよ、痛みなんか感じないはず。あ、動けなくなるのは困るかも知れないけれど、この身体では死なないんだから、プライオリティーは低いはず。


 ただし、そんなことをあげつらって、彼の勇敢さを汚したくなかった。だから代わりに、冗談めかして言った。

「その身体で、ずいぶん早く動けるのね。慣れの問題?」

「ま、そんなとこだな」

 それでその場の話題は終わった。ただし、お城代わりのドールハウスが壊れてしまった。修理はできるのかしら? と思っていたら、先にユウヤが言った。

「プリンスの名の下に命じるぜ。お前等、俺達の新しい家を用意やがれ! ソッコーでだ!」

 それって、かなりの無茶振りなんじゃ? と思ったんだけど、国民達は、どこから探し出してきたのか、新しい「家」をまるごと用意してくれた。

「意外と何とかなるものなのね……」

「別に、初めてのことでもねえしな」

 こともなげに言う、ユウヤだった。素直に、頼もしいと思った。そしてやっぱり、そんな男は、過去の自分の中に一人もいなかった。


 とにかく、東西南北の概念が希薄というか、意味がないのは分かってるんだけど、仮に今までの家があったのを北の方向としたなら、東側に「引っ越し」をした。


 そういう決まりなのか、ただの慣例なのかは知らないけれど、今回の「新居」も、少し高めの所に据えられた。必然的に、この身体で「登る」必要があった。歩きづらそうにしているのを見てか、ユウヤが言う。

「足下、気ぃ付けろよ? 手ぇ貸してやりてぇんだけど、この身体じゃ意味ねぇのが、ちっとな」

「それには及ばないわ」

 さりげない……本当に何らの打算も下心もない、純粋な気遣いを聞いて、また少し動揺した。それを気取られないようにするのは、少し大変だった。とにかく、歩きづらくはあっても、不可能じゃない。なんとか、新しい「家」の椅子に座った。

「ふう。ま、危ないところを助けてもらった事を含めて、あなたの気持ちには……その、えっと……」

 そこで、はっきりと言葉に詰まった。

 単純な、ありふれた、ひらがな五文字が言えなかった。


 いえ、ちょっと待って? 今の今まで、そう、掛け値無しで死ぬまでの二十八年間、その「ひらがな五文字」を誰かに言ったことがある?

 ……ない。ないのよ。え? なに? それってどうなの!? とてつもない問題じゃない!? い、いえ、待ちなさい。過ぎたことはしょうがないわ。大事なのは今よ。今、言わなきゃ。言うべきなのよ。


 その、幼稚園レベルの一言は、あたかも、天岩戸のようだった。その心は、他人が「外」からどうこうできるものではなく、「内」からしか動かない、つまり、自分の意志を奮わせないといけないってこと。歯がゆかった。実際には数瞬だったはずだけど、百万年懊悩したような気分だった。精神的にへとへとになりつつ、ようやく……言った。


「あ、りが、とう……」

「はははっ、気にすんなって」

 ぐらり。今度は心に来た。ユウヤの屈託のない笑顔。誇張抜きで眩しかった。息切れを起こしているところに持ってきて、卒倒しそうだった。

「ご、ごめんなさいね、ユウヤ? ちょっとあたし、今から寝るわ……」

「ん、分かった」

 訝しまれることがなかったのは、幸運と言えたかも知れない。文字通りの「寝逃げ」で、貴重な「間合い」を取ることができた。


 ……我ながら、微笑ましいって言うか、何周か回ってバカよね。

 けど、悪い気持ちじゃなかったな、ほんっとに。

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