面影

猟犬

第1話

僕は人気ない校舎の三階と四階を繋ぐ踊り場の窓から日が沈むのを見ていた。二月の斜陽が胸を刺すようだ。目頭が熱くなるのを必死に抑える。たかだか、夕陽でこれほど悲しいのは、夕景そのものがもつ侘しさのほかに...君の面影。

 半年前、まだ君と付き合って一月も経っていない頃、君と二人でこの窓から身を乗り出して陽炎の立つ校庭を見たっけ。僕の耳元をくすぐる風が君の少し茶色い髪を靡かせていたっけ。


「ねぇ見て!夕陽が綺麗だよ!」

君ははしゃいだ。

「明日は水道橋に...ほんとだ。燃えてるみたいだね。」

「あ、あれ見て」

君が快活な声でそう言って校庭の方を指差す。

「陽炎が出てる!」

「ほんとだ。ゆらゆらしてて綺麗だね。」

夏の陽炎なんてありふれているのに綺麗に見えた。

「陽炎って空気の温度の違いでできるらしいよ。」

窓に寄りかかっている君のすぐ隣に僕も寄りかかる。

「地面の上の空気が熱いと屈折すんだっけ?」

「そそ。」

少し沈黙が流れる。ジージー鳴くアブラゼミの大合唱の中にヒグラシが一つ聞こえた。君がピタッと肩を寄せて来る。僕も君の肩に手を回す。また少し沈黙が入って...。

「...大好きだよ。」

肩にかけた手をお腹に回して向かい合い固く抱きしめる。君より一回り大きい僕の肩と僕より一回り小さい君の肩が触れ合い、頬と頬が擦れてしまいそうになる。優しく愛おしい君の匂いがする。心が満たされていくのが手に取るように感じられた。

 君は僕の胸元から僕のことを上目で見つめてニッと少し恥ずかしそうに笑った。

「私も、君のこと大好きだよ。」

天使がいた。幸せだった。世界の全てが満ちていた。思わず君をもう一度抱きしめる。さっきよりもう少し固く、ちょっと苦しいかもしれないくらいに。

 すると、やっぱり力が入りすぎたようで君は

「ちょっと苦しい」

と苦笑いして僕の腕の中でモゾモゾ動いた。

「ごめんごめん」

僕は腕を緩めた。この後、僕たちはしばらく抱きしめあった後、もう一度二人で窓の外を見た。空の低いところで輝いていた太陽はもう向こうの家々の間に飲み込まれようとしていた。空が赤みを帯びた紫に染まっている。残照。夏の宵が迫って来る。美しい記憶。17年の人生の中で最幸の記憶。


 目頭に堪えていたものが一筋...また一筋と頬を伝った。目の前の風景の輪郭が解ける。君が恋しい。生まれて初めてちゃんと好きになれた人が恋しい。とめどなく涙が溢れ、窓枠の上で組んだ厚いコートの袖を濡らす。ここに、そう、僕の隣に立っているはずの君は影のままだった。冷たい風が涙の流れた跡を裂け傷のようにひりつかせる。あの時よりもだいぶ南に沈もうとする赫い赫い太陽の方に凍てついた水たまりが見える。僕は赫い太陽が隠れるのを待ってから階段を降りた。

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面影 猟犬 @kazamasouta

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