第42話 第五巻 あかし(1)
霞は主に物語の最終部を集中的に読み進めていった。さして時間を掛けずに最終巻に手を伸ばす。ちらりと前方を見ると桐が居眠りをしているのが見えた。仕方ないとため息を吐いた後、霞は背筋を伸ばすと最終巻を読み始める。
(これが呪いの物語の
物語の主人公、「つばき姫」は
第一巻から第四巻まではふたりの揺れ動く恋心を描いている。影帝がつばき姫を攫ってきたのはいいが、身分差と宮中に取り巻く愛憎劇に巻き込まれ、ふたりの愛に幾度も試練が訪れるのだ。
人心を操る術さえなければ、純粋に物語は面白い。水葵の技量の高さがうかがえる作品になっている。
最終巻はふたりの過去に迫る物語になっていた。
影帝の母の思惑で、出会いの場所である久美神社に追放されてしまうつばき姫。影帝はつばき姫に出会うまでの自分を思い返し、つばき姫の元へ走るのだ。
霞は右から左へ慎重に巻物を巻き進めていく。やがて、その手がある部分で止まった。
それはつばき姫の後を追っていた影帝がつばき姫に追いつき、神社で再会した場面だ。霞はその一文に釘付けになる。
『私は人ではなく、この神社に住まう
つばき姫は影帝に己の生い立ちを語っていく。
『殿下が生まれるよりも遙か昔に私は生まれました……。私は姫となり、権力者に愛されましたが、その生活は決して楽しいものではありませんでした。手ひどく扱われ、他の姫からいじめられ……。次第に人を強く憎むようになりました。だからこんなにも私を愛してくれる人がいるなんて信じられないのです。それでも嬉しかった』
影帝はつばき姫の正体を知ってもつばき姫のことを諦めなかった。
『私はお前が人間ではなくても、何であろうともお前のことを思っている。一緒に戻って暮らしてくれないか』
つばき姫は涙を浮かべながら影帝の言葉に従う。
影帝はつばき姫に酷い仕打ちをしてきた者達を説き伏せ、ふたりは宮中で幸せに暮らすという呪いの物語にあるまじき意外な終わり方だった。
安堵したのも束の間。物語の最後に書かれた、原本にしかない加筆部分に霞は目を疑った。
(これは……)
今までの幸せな描写から一転。つばき姫の心の内が書きなぐられていたのだ。
『私が私であるだけで何故こんな思いをしなければならなかったのか。権力と目に見える姿形にしか興味のない男に
霞は心臓を掴まれたような、苦しい気持ちになった。それは宮中に居るものであれば一度は思うことがあるからだ。
『私はただ愛し合った人と幸せになりたかっただけ。どうしてそれが許されないかったのか。人のように優れたものを何ももたない……私だからか。人と認められねば愛することも愛されることも許されないのか……。
幸せを掴んだ今でも私は一生忘れない。私を
霞は
(隣に
いつの間にかつばき姫の心と霞の心が共鳴する。ここまで読み通したせいで霞はつばき姫に深く感情移入していた。霞の心臓がドクドクと脈打つ。
「えいっ!」
「……いたっ!」
そんな霞の額に突然衝撃が走る。目を覚ました桐が霞の額を中指ではじいたのだ。霞は額を押さえながら桐を睨んだ。
「桐様……。何をなさるのですか」
「術に取り込まれかけていたから私の術で祓ったんだ!」
桐は霞を弾いた右手を掲げ、得意気に鼻で息をする。
「あの。前から思っていたのですけど……桐様のこれは陰陽師の術ではないですよね?」
「空木様の教えだから完璧に決まってる!」
桐の勢いに押されて霞は黙り込む。それ以上追及するのを止め、霞は静かに巻物を巻きなおす。物語を読み終えて霞は頭の中の盤上に向かい合う。
霞の中で引っかかっていたのはひめつばき物語に登場する『久日神社』だ。影帝とつばき姫の出会った場所なのだが……何かが引っかかる。
自分でも何に引っかかっているのか分からず、霞は
「
「く……び神社?
桐が不思議そうに正面に座る霞の顔を覗き込んだ。その瞬間、盤上の前に座っていた霞に衝撃が走る。
今まで盤上の反対側……相手の顔が見えないまま戦ってきた。その相手の顔が今ならはっきりと見える。
(どうして今まで気が付かなかったの……)
霞は桐を押しのけて局を飛び出した。
「霞様っ!どこ行くの?」
後を付いて来た桐に霞は声を上げる。
「私のことはいいから!桐様、貴方は言われたとおりに動いて」
「う……うん」
一瞬だけ思案顔になった桐は着物の袖を探ると、霞に何かを手渡した。
「じゃあこれ。持って行って」
「これは?」
「
それは陰陽師が作る、
「ありがとう……行くわね」
桐は大きく頷いてみせると、霞と反対の方向に走り出す。
(な……何?)
引きちぎれた御簾、倒れた几帳の中に居たのは霞の顔馴染み、
「い……いきなりどうしたというの?」
「憎い……。私よりも働きが良く、身分の高い御父上を持つあなたが。どうせ今まで私のことを馬鹿にしていたんでしょう?」
(
女官達の騒動は発端に過ぎなかった。他の部屋からも貴族たちが姿を現し、人を襲い始めたのだ。
ある者は首を絞めようとし、ある者はひたすら
向こうでは男達が。あちらでは女たちが……。
静かで厳かな宮中の雰囲気が一気に
今までお互いに積もり積もらせていた不満をぶつけあっているかのようだ。
霞の身体は、異常な光景を前に熱くなっているのに、頭の中は恐ろしいほど冷え切っていた。
『
自然と聞こえてきた榊の声が霞の身体を、頭を最善の方向へ動かす。
(いちいちひとりずつ止めていたのでは間に合わないわね。早い所化け物の居場所へ向かいましょう)
先へ向かおうとした霞の行く手を阻む者がいた。
「気に入らないのよ。その才が……。
それは顔馴染みの女官だった。霞の
(……今正気を失った者達に構っている暇はない!)
霞は唇を噛み締めると着ていた小袿を一枚、脱ぎ捨てた。それも掴みかかって来た女官の頭にかぶさるように。
「……!」
視界を失った女官を背に、霞は化け物が待つであろう場所へ走った。
(早く……急がなくては!)
同じころ、
「東宮様よりご
(化け物が動き出したか……)
楓は唇を噛んだ。すぐにこれが帝の命を狙うためのものだと悟った。
(こんな時に
想定通りに物事が動かない苛立ちを抑える様に楓は帝に向き直ると、説得を試みる。
「殿下……。このような状況です。見舞いは後日、日を改めて……」
「それはできない」
帝の勢いに楓は圧倒される。絶対に譲らないという意思を感じ取り、楓は後に続く言葉が出て来ない。
「あいつはいつも自分がいつ死ぬかもしれぬと
楓は「その東宮が帝を殺めようとしていても?」とは言えなかった。帝の目があまりにも真剣で、東宮のことを心配していたからだ。
ふたりの仲の良さを知る楓は帝を止めることができなかった。
(霞様は危険を顧みずに化け物の元へ向かっているはず……。ここは俺がどうにかして殿下をお守りするしかないだろう)
楓は決意を固めると、帝に向かって声を上げた。
「なれば守りを固めて行きましょう。私も同行致します」
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