第41話 第四巻 こころもとなし(2)

「私の命は物語を書き上げるためにあると言っても過言ではありません。人が物を食べなければ生きていけぬように、私は物語を書かねば生きていけぬ身。私はようやくこの世に生み出すべき物語を完成させることができたのです!ああ、これほど喜ばしいことがありましょうか……」


 水葵みずあおいが楽しそうに話すのを聞いて霞は声を震わせた。怒りで体が焼かれるように熱い。


「己の願望をかなえるためならば国崩くにくずしをしても構わないと?苦しむ人間がいてもいいと……そうおっしゃるのですか?」


 水葵は口元に当てた扇を揺らし、淡々とした口調で答えた。


「元来、人の願いとは何かを犠牲にして成し遂げるもの……。私の願いも他の者達の持つ願いと何ひとつ変わりませぬ。かすみ様も様々なものを犠牲にして第一王妃の世話役というお立場にいらっしゃるのでしょう?」

「……」


 水葵の切り返しの強さに思わず霞は黙り込んでしまう。霞も菖蒲あやめを今の立場に押し上げるのに他の姫たちを蹴落けおとすように仕向けてきたのだ。


「最初は純粋に物語を完成させたかっただけでした……。そんな折にの考えに触れ、作品が持つ意味が変わり始めたのです。あのお方の不思議な力が加わってあの物語は初めて意味をなし、完成します」

「作品のためなら悪事にも手を貸すといのですか?化け物は宮中の者をたくさん殺し、国の安寧をおびやかしているのですよ?それだけでなく私の父を、母を……一族を殺した!」


 霞の悲鳴と怒りが混じったような声に水葵を取り巻く空気が固まる。暫しの沈黙の後、水葵は口を開けた。


「霞様から見れば悪事だと思われるやもしれませんが、私は正しい行いだと思っています。人は自分が当事者にならねば人の痛みを理解できない……。愚かな生き物です。積み重なった虐げられし小さき者の感情はいづれどこかで破裂する。それが今、起こっている。それだけのことなのです」

「何を言っているの……?」


 困惑する霞に水葵が真剣な口調で続ける。


「あのお方は単なる国崩し、権力を求めているのではありません。たったひとりで理不尽にあらがい、を求めて深淵しんえんな物語を必死で歩いておられるのです」

「いい加減にして!物語とうつつは違う!」

「いいえ。物語は人の心。現を映す鏡です。『ひめつばき物語』が少しでも人を、世を変えることができるのであれば私は自分の命も惜しくはありません」


 堂々たる水葵の主張に霞は唇を噛んだ。このまま水葵に言い負かされれば原本を手にすることができない。


(なんて信念のつよいお方。物語を書く者としての強い自信を感じる。だからといって私が化け物を許すことはないわ。絶対に)

「水葵様がせられるような信念が化け物にあったとしても、私の信念は変わりません。火事で消えた私の一族、白樺しらかば様と牡丹ぼたん様、水仙すいせん様のためにも……」


 盤上の前で次の一手が打てずに体を震わせる霞の頭の中に楓の姿が浮かんだ。


 楓は「またここで会おう」と言ってくれた。

 伊吹は「ずっと側に居る」と。

 菖蒲は「どんなことがあっても味方だ」と……。

 桐が笑顔で走って行く後ろ姿を思い出す。

 

(ああそうか……私、今一族のためだけに戦っているのではなかったのね。今を生きる大切な者達のために私は戦ってる!)


 大切なことに気が付いた霞は、体の内から勇気が湧いてくるのを感じた。苦しみや憎しみに染まっていた霞の表情が凛とした表情に変わる。背筋を正し、御簾越しの水葵を真っすぐに見つめた。


「私は今を生きる大切な者たちのために化け物を討ちたい。人心ひとごころを自在に操り、化け物にとって都合の良い世の中にその者達の幸せはありません。今まで己の為に手を汚してきたのです。此度こたびは他の者達のために喜んで手を汚しましょう」

「……!」


 水葵が息を呑む声が聞こえる。扇を畳むと、手を打った。


「霞様にあれをお持ちして」


 今まで息を潜めていた侍女達が御簾を潜り抜けて姿を現すと、霞の前に二つの巻物が乗せられた盆を目の前に差し出す。霞はそれが何なのかを理解すると驚きの声を上げた。


「これは……『ひめつばき物語』の四巻と最終巻!」

「霞様のおっしゃられた通り。私の侍女じじょである女童めのわらわに水仙の局から取って来させました。餞別せんべつにこちらをお受け取りください」

「何故です?水葵様は化け物の信念に同調しておられるのでしょう?それを敵対する私にどうして……」


 水葵はふっと短く息を吐いた。先ほどまでのひりひりとした雰囲気がない。穏やかな空気に霞は体中に入っていた力を抜いた。


「何故でしょうね。本当は追い返すつもりでしたのに……。霞様の物語の行く末を見たくなったからかもしれません」


 霞は絵巻物に触れ、ふっと鼻で笑う。


「水葵様は本当に物語がお好きなのですね。私の人生さえ物語と捉えてしまうなんて……」

「私にとっては全ては物語ですから……。それと最終巻ですけど私が書き写した写し……内容は原本と同じです。最終巻は……あのお方が……」


 水葵の言葉が途切れ途切れに聞こえてくる。異変を察した霞が水葵の御簾に近づく。


「水葵様?如何なされたのですか?」

「私も罰を受けるのです……。覚悟はしていました……悔いはありません。物語を書くためにあらゆるものを犠牲にしてきましたから。水仙様と同じように醒めない悪夢を見るのでしょう……」


 脇息きょうそくにもたれかかりながら水葵は声を振り絞る。霞は御簾に触れ、息を呑んで様子を見守った。


「私が書かなければという思いで『ひめつばき物語』を完成させました……どうか、どうかそれだけはお忘れなきよう……」

「水葵様!」


 その後水葵から返答はない。侍女たちが御簾の中に入っていった。霞は静かに絵巻物を胸元にたずさえ、水葵の局を後にする。

 陰陽師達の祈祷で騒がしかった宮中が突然静まり返っていた。その代わり、女官や貴族たちの噂話が飛び交っている。


「陰陽寮が封じられているらしい……」

「こんな時に?殿下は何をお考えなの?」

「一体、宮中で何が起こっているんだ」


 通り過ぎる人々の言葉の端々には不安や恐れが感じ取れる。霞はたもとに絵巻物をひそませ、恐れ惑う人々の間を縫うようにして足早に廊下を抜けた。




「やっと来た!言われたとおりにこれ、持ってきたよ!」


 自室の襖を開けた途端に飛び出してきたのは桐だ。先ほどまでの宮中の鬱々とした落ち着かない空気が嘘のように晴れ渡る。霞は瞬きをしながら桐が差し出してきた絵巻物を受け取った。

 それは空木うつぎが手にしていた『ひめつばき物語』の第三巻だった。これで霞は呪いの物語を全巻集めたことになる。


「ありがとう。桐様……。それと空木様は……」

「化け物の術にかかって眠ってしまったよ。多分、口封じのためなんだろうね。他の陰陽師達は陰陽寮で拘束されているみたい。建物の周りを衛士えじたちが取り囲んでた」

「そう……」


 桐は悲しんでいる風もなく、かと言って楽しそうでもない表情で語る。霞はそんな桐のことを心配した。桐はまだ子供で唯一の親代わりである空木が窮地にあるのだ。見た目は平気そうでも心のどこかで傷を受けているのではないかと思い悩んでしまう。


「私の術で空木様を目覚めさせようとしたら、倒れかけていた空木様が止めたんだ。お前は今やるべきことをやれって……」


 霞はしゃがみ込んで桐と視線を合わせると、しっかりとした口調で答えた。


「大丈夫。空木様も私がお救いしてみせるわ。だから安心して……安全なところに控えていなさい」


 桐は霞の励ましに大きく頷いた。そのまま局を出て行くと思いきや、くるりと回れ右をして霞の局に舞い戻る。


「桐様?」

「楓様が呪いの物語を読んでいる間、私が見守ります!たぶん、それが今やるべきことだと思うから。その方が蔵人頭くろうどのとうも安心するだろうし」


 そういって桐はにやにやしながら霞を見た。霞は咳ばらいをする。


「桐様。あまり大人を揶揄からかうものではありません」

「はーい」


 気の抜けた桐の返事を聞き、自室に入ると霞は集めた『ひめつばき物語』と対峙した。霞の目の前に桐がちょこんと正座し、その様子を見守る。


(一体水葵様は物語を通して何を伝えようとしたの……?)


 深呼吸をした後、霞は絵巻物を紐解ひもといた。

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