第40話 第四巻 こころもとなし(1)

「『化け物』のことで急ぎの件とは……。如何したかえで


 場所は紫星殿しせいでん北西ほくせい。帝の生活の場、清風殿せいふうでんにて。楓は帝と対面していた。

 朝の澄んだ空気と帝の雰囲気がそうさせるのか。清風殿には澄み切った空気が流れていた。

 朝の祝詞のりとの前。御簾越しに対面した帝の表情は強張っていた。菖蒲のこともあり、気が立っているのだろう。

 話題が化け物のことだったので帝の寝所周辺は人払いが成されていた。

 楓は頭を下げた後、御簾に向かって霞と話したことを伝える。


「早急に陰陽寮おんみょうりょうふうじ、陰陽師達の動きを押さえておくようにお願いしに参りました」

「何故だ?今化け物の呪いの祓いで陰陽師達が必要な時だろう」

「……その陰陽師達が化け物と通じていました」

「……!」


 御簾越しであっても帝が動揺する空気感が、楓の肌にひしひしと伝わって来る。驚きと落胆は当然だろう。


「……陰陽師達に化け物の正体を吐かせたのか?」

「いいえ。私も陰陽師達に襲われたものですから捕えないことには何ともいえません。陰陽師達の処遇は他の物に任せ、今は殿下の御身を第一にお考えください」

「……遂に俺の命を狙いに来るか。化け物は」


 帝の言葉に楓が頷く。


「はい。清風殿の周辺の守りを固めましょう。その間に私のが化け物をちます」

「その者で大丈夫なのか?」

「はい。私がいちばん大切に思い、信頼している人物ですから……」


 楓の表情を眺めていた帝は目を丸くさせた。


「楓が白樺しらかば以外の者をそんな風に言うなんて珍しいな」

「そうでしょうか?」


 戸惑う楓に帝は少し頬を緩めたが、すぐその後で真剣な表情に戻る。


「では、衛士えじたちの配置についてだが……」





 帝と楓が議論を深めている中、伊吹いぶきは清風殿の妻戸つまどの前の簀子に座っていた。清風殿に入ることのできる人物は限られており、楓から指示があるまで外で控えていたのだ。

 待っている間、伊吹の頭の中にあったのはかすみのことだけだ。


(霞を一族のかたきに一人立ち向かわせるなんて……できるはずがない)

左近衛府さこのえふ様」

「……なんだ?こんな時に」


 思い悩んでいるところ、急に呼びかけられ不機嫌な声になってしまった。伊吹は目の前に現れた客人に目を瞬かせる。


「お前は……?」


 伊吹に話しかけてきたのは髪を振り分けにし、まだ幼さの残る少女だった。伊吹のような体格のいい武官を恐れることなく、じっと小さな目で眺めている。お面を付けているかのように少女の表情はぴくりとも動かなかった。


「『ひめつばき物語』の最終巻のありどころを知りたくはないですか?」

「な……!なぜそれをお前が知ってる?」


 少女の言葉に伊吹は思わず立ち上がった。それでも少女は何の感情も表に出すことなく、同じ言葉を繰り返す。


「『ひめつばき物語』の最終巻のありどころを知りたくはないですか?」

「知っているのか……」


 伊吹には霞を助けるための考えがあった。

 

(俺が化け物の正体を霞より先に見破り、先に討ち倒せばいい)


 少女の前までやってくると真剣な表情で少女に語り掛けた。


「案内してくれ。最終巻のある場所へ」


 少女はこくりと頷くと、伊吹を先導するように歩き始めた。




きり様……桐様」


 楓達が立ち去った後、霞は桐の身体を揺らした。

 気持ちよさそうに眠る子供を起こすのは気が引けたが、ゆっくりもしていられない。


「ううん……まだ眠いよ……」

「ごめんなさいね。急がなければならないの」

「……何?」


 桐が目を擦りながら霞を見上げた。寝起きのせいで少し機嫌が悪そうだ。


「あなたの力を見込んで……頼みたいことがいくつかあるの……」


 霞は桐に化け物を狩る策を伝えた。桐はたちまち目を輝かせて飛び起きる。


「なんか楽しそう!分かった!やってみる!」

「ありがとう。此度のことあなたが居なければここまで策を考えることはできなかったわ……」

「えへへへ。そうかな?」


 素直に喜ぶ桐に、霞は軽く頭を撫でてやる。


「ねえ。ひとつ聞きたいことがあるんだ」

「どうしたの?」

「私が師匠の弱みって……どういうこと?」


 霞は微笑みながら続けた。


「空木様は……あなたのことを大切に思っているということよ。化け物に貴方のことで脅されたんでしょうね……。言うことを聞かなければ優秀な弟子を殺すと」


 霞は陰陽寮に控えていた時、すぐに桐が空木にとって大切な存在であることを悟った。楓の前では決して感情を見せなかった空木が、桐を前にした途端に変わったのだ。まるで聞き分けの悪い子供を諭すような……親にしか見えなかった。


「ふーん。師匠って孤児の私のことを大切に思ってくれていたんだ。いつもは小言こごとばっかりなのに」

「親というのは子供にあれこれ口出ししたくなるものなのよ」

「ふーん……。そんなんだ、そうだったんだ……」


 桐は何を思ったのか。釈然としない返事をし、そのまま兎のように飛び跳ねて局の出入口に立つ。その小さな背に声をかけた。


「危ないと思ったらすぐに逃げるのよ。自分の命をいちばんに考えなさい」

「そういう霞様もね。蔵人頭様に怒られちゃうよ」


 霞は微笑みを浮かべて桐を見送ると、真剣な表情に戻る。


(さあ。私も急ぎ向かわなければ……)




 桐を見送った後、霞が向かったのは……水葵の局だった。



「急ぎお話したいこととは……一体なんでしょう。霞様」

「急なお話にも関わらず迎え入れてくださりありがとうございます」


 水葵の侍女達に何度か断られたが無理を言って押し切ったのだ。

 御簾越しに水葵を象徴する、青色の着物が見えた。着物が海のように波打っているように見えた。目の前の光景に目を奪われながら霞は深々と水葵に頭を下げた。

 周囲の呪い騒ぎに動じることなく水葵の局には静寂せいじゃくが広がっている。


ときが惜しいのではっきりと申し上げます……。水葵みずあおい様、貴方は人ではないもの……宮中の崩壊と支配を目論もくろむ化け物と繋がっていますね」

「……」


 水葵の迷惑そうな雰囲気が緊張に変わる。霞は背筋を正して頭の中の盤上に駒を置いた。


「『ひめつばき物語』の原本、最終巻を水仙様の局から奪ったのは……貴方様の侍女でございましょう。水仙様の局を出て行く小さな人影を見ました……。髪型と背格好、歩き方からあれは恐らく水葵様の所にお仕えしていた女童めのわらわでしょう。

小さな体を生かして水仙すいせん様の局にひそみ、機を伺って原本を持ち出した……水葵様の元に届けられているはずです」


 最後の一手を置くかのように、霞は水葵を指差した。暫しの沈黙の後、水葵はふうっと短く息を吐く。


「さすがは霞様。あんな状況でよく周りを見ておられましたね……」

「それは……化け物との関係をお認めになったということで宜しいでしょうか?」


 霞の瞳に炎が宿った。


「何故、化け物に手を貸したのですか?国を崩すことに……人を傷つけることに躊躇いはなかったのですか?」


 思わず声に力が籠る。広々とした水葵の局に霞の声が反響した。霞の怒りに動じることなく、水葵が口を開く。


「私は国崩しにも、権力争いも興味はございません。ましてや人智じんちを越えたお力を恐れているわけでも、信奉しんぽうしているわけでもありません」


 静かな湖面こめんのように落ち着いた声、たたずまいに霞は緊張感を高めた。


「では……何故?」

「私はただ……人の心を大きく揺さぶり、うつつに影響を及ぼすような物語を書きたかっただけなのです」


 水葵の言葉に霞は愕然がくぜんとする。


(そんな理由で……国崩しに、悪事に加担かたんしたというの?)


 霞の反応を見ていた水葵は扇を開き、口元を隠して笑っていた。

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