5.決戦(2)


 山の中腹。

 沢を越え、銀杏イチョウの群生地を越え、更に山道を登っていくと、大きくひらけたところに亜人の村があった。


 広場を中心に粗末な住居がいくつか並んでいるが、この規模の村なら亜人の数は二十から三十といったところだろう。


 逃げられる場所も少なく、比較的楽に制圧できそうに見えるが――。


「クソッ! 鼻が使い物にならねぇ」

「お前ら、さっき伝えただろうが! 耳を澄ませ! 俺たちの武器は鼻だけじゃない。音で敵を識別するんだ! 亜人どもの小細工なんかに惑わされるんじゃない。敵の呼吸、心音、足音、衣擦れの音、全てに注意を払うんだ!!」


 村中に広がる柑橘のニオイに文句を言う兵士に、隊長のシバルツが檄を飛ばす。

 視力が低い上に色弱。

 生まれつき『見る』という行為が苦手なコボルトにとって、嗅覚を奪われることはすなわち、周囲を察知する能力の大幅な低下を意味している。


 しかし、これくらいで下等種の亜人たちに後れをとるなど、ましてや撤退するような無様な真似はできない。


 そんなことをしたらシバルツは、今晩から城中の兵士に後ろ指を刺されることになる。

 上に立つ者として、肉体も精神も強くなければ、部下たちから舐められてしまう。

 そうなれば、隊長の地位すらもすぐに奪われてしまうだろう。


 コボルト社会は常に競争を強いられている。

 昨日までの上司が、今日は部下になっていることなど決して珍しい光景ではない。

 生物としての格付けによって構成される上下関係は、いつだって何度だってひっくり返るのだ。


 シバルツは大きな耳を前後左右に動かし、敵の動きを音で探る。

 亜人たちが嗅覚を潰しにきたのは大きな誤算だったが、案内役のダルシアが早いうちから柑橘のニオイに気づいてくれたおかげで、村へと向かう道すがらに対策を検討できた。


 ――が、しかし。


「…………襲ってこない?」


 一向に亜人たちが近づいてくる気配が感じ取れない。

 どんなにゆっくり静かに動いたとしても、小さな物音くらいはするはずだ。それを聞き取るには十分すぎる耳を、シバルツたちコボルトは持っている。

 それは、柑橘のニオイに紛れて亜人たちが襲い掛かってくるに違いない、というシバルツの読みが外れたということ。


 まあいい。それならそれで考えがある。


「十二人は三人一組で亜人の住処を廻れ、十人は入口から広場までを監視、残りは俺について来い」


 三十人を三組に分けて、村の中を捜索していく。

 シバルツが兵士を連れて、村の奥、入口と反対側へと歩みを進めたそのとき、シバルツの鼻が微かな血のニオイを捉えた。


 この先に誰かがいる。


 怪我をした亜人なのか、それとも行方不明になった同胞なのか。いずれにせよ、正体を見極めておいて損はない。


「コッチだ」と小声で指示をだし、更に奥へ。


 突き刺さるような柑橘にニオイと、ベッタリとした海風のニオイの中から、鉄臭い血のニオイを嗅ぎ分けて、一歩ずつニオイがする方へと近づいていく。


 血のニオイがだんだん濃くなっていく。

 広場も終わり、村の反対側へとたどり着いたシバルツは目の前の光景に震えた。


 村の奥に生えた樹。

 そこには無惨な姿に成り果てた同胞が逆さ吊りにされていた。更には、顔の形が分からなくなるまで殴られた跡。


 誇り高きコボルトが、亜人如きに殺されてしまった。それだけでも許し難いことであるのに、あろうことか死体を吊るすとは王国への宣戦布告に他ならない。


 これは明らかな挑発だ。乗ってしまっては敵の思うツボ。怒りで震える拳を抑え、シバルツは周囲を警戒して耳に神経を集中させる。


「だ……れか……」


 澄ました耳に飛び込んできた、か細い救難信号。

 そうだ。行方不明になった亜人はふたり。


 もうひとりが生きているなら、せめて片方だけでも救い出さなくては――コボルトの名が廃る。


 シバルツは声の聞こえた方へと、勢いよく飛び出した。

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