幕間・月下の免罪符


 夜もすっかり更けた頃。


 ロンスたちの住む村の近くにある沢から、川沿いに山を下っていったところ。段々になった滝がある小さな河原に細い煙が上がり、しばらくして消えた。


 太陽が沈んだ闇夜にあっては、遠くから煙を目視できる者などいない。煙を観測したのは、焚き火の側にいたサーファだけだ。


 役目を終えた焚き火を乱暴に始末すると、サーファは闇の中で衣服を脱ぎだした。


 月明かりが彼女の白く滑らかな絹肌を照らす。

 決して大きくはないが整った形の胸。

 細く引き締まった腰。

 たおやかな魅力を携えたシルエットと赤褐色の髪が、月の光によって夜闇に浮かんでいる。


 サーファは深呼吸をすると息を止め、濡らした布で身体を拭く。


「……んくっ!」


 冷たさのあまり、結んでいたはずの口元から小さな吐息が漏れた。


 身体は清拭せいしきでも良いが、頭皮の脂はそう簡単には落ちてくれない。

 サーファは歯を食いしばって段々になっている滝のひとつに頭を突っ込んだ。


「くうぅぅぅぅぅぅ!」


 冷水が頭皮に突き刺さる。

 頭を洗い終わったあとも、髪からしたたった水が肩や背を襲い、きめ細やかな肌に弾かれた水滴が雫となって地面へと落ちていった。


「は……くちゅんっ!」


 晩秋の冷たい夜風が追い打ちとなり、サーファはくしゃみと共に身体を震わせた。

 汚れを落とすため、とはいえ寒空の下での水浴びはちょっとした拷問だ。


「なにをしている。風邪を引くぞ」


 暗闇からサーファを心配する声が届く。

 やや低くハスキーな声質。それはサーファのよく知る声だった。


「あれ? もう来てたんだ」

「もう、じゃない。待ち合わせの時間は半刻(約一時間)も前だ」

「そうだっけ? ごめんごめん。どうしても食事と水浴びだけはしておきたくって」


 サーファの視線の先には、焚き火の跡と焼き魚を食べた残骸が残されている。


 村の青年ロンスから提供された夕食は、彼女の胃袋を満たすには圧倒的に質量が不足していた。

 あのあと少し村で情報収集を試みたものの、お腹が悲鳴をあげる前に退散したのが、おおよそ二刻(約四時間)ほど前のことだ。


「これから山の中を走り回るって――」

「うるさいなぁ。いいの! 気持ちの問題なんだから。……それで、そっちの準備はどんな感じ?」


 水浴びを終えたサーファは、濡れた髪に布を当てて水気を取りながら、片手間に訊いた。


「こちらは問題ない。お前の指示通りに進めるだけだからな。あんなものバカでも出来る」

「アルフはバカの基準が厳しすぎるよ。そんなんじゃ、いい上司になれないよ?」

「そんなものになる気はない。……それで、お前こそ村の方はどうなんだ?」

「こっちは、だいたい予想通りってところかな」


 衣服をまといながら、サーファは森の奥にいるはずのアルフへと回答を投げる。


「やはり五分五分か……。厳しいな」

「うぅん。四分六分シブロクかなぁ。失敗がロクの方ね」

「計画してたときより悪くなってんじゃねぇか」


 アルフから、あきれた声でツッコミが飛んできた。だから「だいたい」と前置きをしておいたじゃないか。


「そんなことで本当に上手くいくのか?」

「さあ。頑張ってはみるけど、ダメなときはダメだからね。そのときは作戦を切り替えるだけだよ」


 アルフは長い沈黙のあと、「そうか」と一言つぶやいた。


 どんなに成功率が高い作戦であっても、次善の策は必ず用意してあるものだ。

 そしてアルフは立場上、『次善の策』の内容を知っている。知っているから、作戦を切り替えることになった場合の結末を想像してしまったのだろう。


 ぞんざいな口調とは裏腹に、アルフは心根が優しいのだ。


「ああ、そういえば。村人の中で『亜人の王』に救いを求めている青年がいたよ」

「……それはまた。ご愁傷さまとしか言えないな」


 闇の中で見えはしないが、きっとアルフは小さくため息をついて目をつぶり、首を横に振っていることだろう。


「あははは、同感だよ。彼にとって『亜人の王』は機械仕掛けの神なんだろうね、きっと」

「ふん。どんな困難でも解決に導く絶対的な存在、か。そんな都合のよい輩がいるなら是非とも会ってみたいものだ」

「そうだね。得体のしれない英雄なんかを待つ時間ヒマがあるなら、ほかにやれることがいくらでもあるだろうに――」


「「天は自ら助くる者を助く」」


 ふたりの言葉が重なった。


 この言葉は、サーファの口ぐせのようなものだ。

 サーファのそばにいることが多いアルフならば、タイミングよく言葉を重ねることはそれほど難しいことではない。


 天は自身で努力する者に力を貸してくれる、という古くから伝わる言葉。

 それは自身で努力しないものに天が力を貸すことはない、という意味にも取れる。


 これから起こるであろう未来を少しだけ知っているサーファにとって、この言葉はある種の免罪符であった。

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