第5話 母親の言葉
気が付けば真夜中だった。
屋敷は静まり返り、カーテンが開いたままの大窓から月明かりが部屋を照らしている。
どうやら泣きつかれて寝てしまったようだ。
目尻と鼻先がヒリヒリとする。喉もカラカラだ。お腹も空いている。昼からなにも食べていないことに気付いた。
こんな状態で朝まで待つことは困難だった。
私は自分が暮らす屋敷のなかを忍び足で進んでいく。廊下には誰もいない。皆部屋で寝ているのだろう。私が部屋を抜け出したと、騒ぐものは居なかった。目指しているのは調理室。そこには備蓄として乾燥したパンが置いてある筈だ。いつもならスープに浸して食べるのだが、この非常時、固くてもいい。お腹を満たせるなら何でもよかった。
目的地にたどり着き、目的のものを見つけるとその場で少しずつ咀嚼した。
思っていたよりも固いパンはなかなか噛みきれない。ゆっくり唾液で湿らせながら飲み込む。それでもまだまだ苦しかったので、壁にかけてあった革袋を手にとり、中に入った水を飲む。
革袋から直接水を飲むなんて慣れないことをしたせいで、口からこぼれた水が胸元を濡らす。
貧しいうえにみすぼらしくなったものだ。
けれど、今の私には相応しいのかもしれない。
クサイ。それは汚物そのもの。私はそういう存在なのだ。
私は残ったパンの入った袋と水入りの革袋をもって調理室を後にした。
朝になればきっと温かい食事が運ばれてくると思うが、その2つの袋を私は手放せなかった。
自室に帰る道すがら、灯りが目に入る。
それはお父様の書斎からこぼれ出た光だった。
こんな夜中に何をしているのだろう。私はこっそりと書斎の小窓から中を覗く。
お父様はいつもの椅子に座り頭を抱えている。その向かい側、こちらに背を向けて立っているのはメリッサだった。
「メリッサよ。自分はどうすればいい? メラルダはずっとこのままなのだろうか」
こんな時間にわざわざするということは、内密な話なのだろう。話題は当然、私のことだ。
「ーー呪いが定着してしまえば、並の神官では解呪できません。おそらくは、ずっとこのままかと。そうやって呪いに悩まされ続けた冒険者を何人も見てきました」
「そうか……。治ることはないのか」
「けれど、呪いを宿したまま生きている者も多くいます。お嬢様の場合、生命を害する類の呪いではありませんので、あとは呪いを受け入れられる環境の問題かと」
「それが問題であろう……。どこでメラルダを養えば良いのだ? 自室に軟禁し続けるわけにもいかん。かといって、部屋から外に出すわけにもいかん。この短時間で何名のメイドが辞めたか。周りへの被害が大きすぎ。自分はいいのだ。娘がいくらクサくても我慢できる」
「本当に?」
「我慢……できる」
「自信がなさそうですが」
「自分の話はいいのだ!適度に距離を取る。鼻栓もする。世話人も鼻栓を許可させる。だが問題はユリウスだ。あいつだけはどうにもならん」
「兄君ですか。確かに問題ですね。今は意識を失ったまま、眠られておりますが、目を覚ましたとなれば再びお嬢様の元に向かうでしょう」
「……ああ。あいつのことだ鼻栓など死んでもするまい。このままでは本当に死んでしまう」
「兄君を遠ざけることはーーできませんね」
「あいつには跡取りとして、これからも側で仕事を教えていかなければならない。遠ざけるというのならメラルダを選ぶしかない。だが……だが」
「心中お察しします」
遠ざけるとはすなわち、屋敷を離れ、奉公に出るということ。女の身で考えるなら、それはすなわちは婚姻。
しかし、今となってはこの汚れた身を受け入れてくれる貴族などいないだろう。
屋敷に留めて置くことも、外に出すことも出来ない。父親として出来ることは手詰まりだった。
お父様はずっと同じ考えを頭の中で巡らせていたのだろう、すっかり憔悴している。
見かねたメリッサは提案する。
「旦那様、やはりお嬢様には街を離れていただくしかありません」
「っ!?」
それも屋敷を出る選択に変わりはない。だが、嫁ぐと離れるでは意味合いが全く違う。頼る宛もなく街を離れるということは、1から自分の居場所を見つけ出すしかない。この世界において、根無し草な人たちはこう呼ばれている。〝冒険者〟と。
メリッサは、すなわちこのように提案したのだ。
家名を捨て、冒険者に身を落させるべきだと。
私は頭が真っ白になった。
冒険者になる。口にすれば簡単だ。それに、冒険者に憧れてもある。
この身一つでどこまででも行ける。領主の娘としての立場に縛られることもない。言われるままに習い事に勤しむは必要もない。それは自由という憧れだった。
けれど、憧れは妄想だからそこ出来ることだ。冒険者がそんな楽しいばかりでないことは想像に難しくない。
住む場所がないということは、常にお金の心配をすることだ。魔物のいる世界を歩くということだ。命の危険にさらされるということだ。
どれほど過酷なのか。その真実を私は知らない。
だが、それしか道がないというのなら私は冒険者になろう。お兄様を苦しめるくらいなら、冒険者になってやる。それくらいの覚悟はできている。
ただ、それを突きつけた相手がメリッサだった。その事実が私の意識をどん底に落とした。
メリッサは私にとって母親だった。
お母様のことで覚えていることは何も無い。いつも側にいて、私を叱ってくれて、育ててくれたのはメリッサなのだ。
メリッサが私を、スイートピー家には要らないと言った。側にいて欲しくないと言った。冒険者になって死んでもいいと言った。
ーー言ったのだ。
「ああ。そうか。わたしーー捨てられるんだ」
私は自室の窓辺から月を見上げながら、堪えきれなかった一筋の感情が溢れ出た。
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