第2話 匂いの変貌と影響
私の名前はメラルロッド=スイートピィ。親しみを込めて、皆はメラルダと呼んでいる。ありふれた花の名前を冠する、花の似合う女。
そんな私は現在入浴中。
大理石で造られた浴槽は足を伸ばしても余りあるほど広く、肌の潤いを保つために特注したクリーム色の入浴剤とピンクの花びらを湯船に浮かべ、優雅な一時を過ごしている。
いつもなら、侍女の付き添いがあって入浴の世話をしてくれるのだが、今は一人だった。
だからこそ、生まれて始めて自分の体を自分で洗ったし、好みの入浴剤をふんだんに使わせてもらっている。
ほのかな花の薫りと、健康的な乳の香りが混ざって、私の心を和やかにさせてくれた。
「あー。いい匂い。ふふ。花びらを浮かべるのはやり過ぎかもしれないけど、いいわよね。これくらい。だって、臭いだなんて、そんな酷いことを言われたのだって生まれて初めてなのだし」
十分に贅沢を堪能し、一応自らの匂いをくんくんと確認する。
お風呂上がりの微熱に包まれるように、フローラルな香りが漂ってきた。
香水作りを趣味としている私は、人一倍匂いには気をつかっている。例え、花の薫りと言えども、強すぎれば刺激となり、薫りとは呼べなくなる。
その案配を熟知しているからこそ、お風呂上がりのほのかな薫りは、艶やかな美肌と相まって、出会った異性を虜にしまうと自負している。
今の私はパーフェクト。クサイの『ク』の文字だって言わせない。ーーーパーフェクトにもクの文字が使われているけれど気にしない。
浴室を出た私は、着替え補助の為、脱衣所で待機してくれていた三人の侍女に笑顔で話しかける。
「皆さん。お待たせしました。さぁ。もう、大丈夫です。私を冒していた魔物の体液は、綺麗さっぱりなくなりまーー」
「「「うっ!?」」」
侍女達は鼻を塞ぐような無礼はしなかったものの、皆が顔をしかめ、そして、息を止めているのが見て取れた。
「……綺麗さっぱり汚れはーー」
「「「ううううっ!?」」」
私が近づく度に侍女達の表情は険しさを増していく。
「ど、どうしたの? そんな、怯えたような顔をしてーーね、ねえ。私、臭くないでしょ。ほら、確かめて。ねぇ」
淑女として、身体を晒しながら歩くのはどうかと思うが、状況が状況だ。
私は裸のまま堂々とした足取りで、侍女たちに触れられそうな距離まで近付く。
すると、新入りの若い侍女が突如として叫び出した。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ。もう無理ですぅぅ! こんなの臭すぎて耐えられません!! お暇をいただきますぅぅぅ!!!」
この屋敷に奉公に来ていた新人侍女が一人逃げだした。退職宣告までして。
「……えっと……一体何が?」
残る二人に目を向ける。
すると、中堅の侍女は口をゆっくり開くと、
「先輩……自分、もう、限界です……」
糸が切れたマリオネットのように、その場にバタリと倒れた。
「えええええ!? あ、あなた大丈夫!? ねぇ!」
返事がない。ただの屍のようだった。口から泡を吹き、時折、痙攣しているので本当に死んではいないようだが、青白い肌は屍のそれと遜色なかった。
「私のせい? 私のせいなの? 嘘でしょ? 嘘だといって!」
残る一人の侍女に縋るような目線を向ける。
新人教育を任されるほどの逸材であり、いつも私の髪を優しげな眼差しでとかしてくれる、お気に入りの侍女だ。
ーーにこり。
いつものように優しげな瞳を向けてくれてーーーーいたのだが、白目を向いて倒れてしまった。
「いやぁぁ!! なにがどうなってるの?!」
脱衣所で次から次に起きる悲劇の連続に、私は軽くパニック状態だ。
「何事ですか。騒々しいですよ」
そんな私の前にあらわれたのは、侍女長を勤めるメリッサだった。
メリッサは侍女長として、生まれたときから私の世話をしてくれている。具体的な年齢を聞いたことはないが、50代半のお父様と近しい年とのこと。
お父様がお母様と添い遂げる以前からの付き合いだとか。お父様の愛人だと揶揄するものもいるが、私にとってはどちらでも構わない話だ。
病弱だったお母様の身の回りのお世話を一任されていた信頼に足る人物であり、お母様が亡くなってからは、私の世話係を含めた屋敷全体の指導に励んでいる。物心つく前にお母様を失った私にとって、メリッサは母親代わりの存在だった。
メリッサが私を見捨てるようなことはあるはずがない。きっと大丈夫。
「入浴はお済みのようですね。お嬢様」
「ええ。今しがた終わりました」
「でしたら、早く衣類に袖を通して下さいませ。婚前の女性が肌を晒すなど、はしたないですよ」
あくまでも侍女長として堅実な対応をしてくれる。いつもは小うるさく感じる苦言も、今は心地良い。
「わかってはいるのだけれど、その、侍女達がーー」
一人は逃亡。二人は床に倒れているこの状況で着替えられるはずもなかった。
「まったく。お嬢様を煩わせるとは。この者たちには後でお灸を据えなくてはなりませんね。わたくしがご介添え致します。お召し物はこちらです」
「め、メリッサは、 大丈夫? 倒れたりしない?」
「何を仰るのですか。そのようなことあるはずもございません」
「本当に? 私、臭くない?」
「主君に向かって、そのような不敬なことを口にするはずがございません」
「口にはしないけれど、臭いってことかしら?」
「ーーそのような不敬なことを口にはできません」
「やっぱり臭いのねぇ……」
「げふん、げふん」
不自然に咳き込むメリッサ。
私はメリッサまで倒れられて困ると、急かされるままに衣類に肌を通していく。
ショーツにペチコート、新しい寝巻きを身に着けたところで、背中まである後ろ髪を束ねて欲しくて欲しくてたまらない、私よりも頭一つ身長の高いメリッサを見上げる。
「メリッサ?」
いつもなら、こちらからお願いするまでもなく、髪を支えてくれるはずのメリッサが全く機能していない。
見上げたメリッサはいつものように涼しげな表情で目を閉じていた。
相手を不快にさえないよう、極力視線合わせないままに待機するメリッサの方針。
だが、私が発する言葉を一言も聞き逃すことのないように、常に神経をとがらせている。それがメリッサだったのだが。
「メリッサ? あなた、もしかして、立ったまま……」
メリッサには侍女長としての誇りと享受があったのだろう。逃げ出すことも、その場で身を崩すこともしなかった。
ただだだ、立ったまま気を失っていた。
「メリッサぁぁぁぁ!」
私は最後の砦とも言えるメリッサの誇りに対し、申し訳なさと敬意に膝をつき、嘆きに伏せた。
ひとしきり落ち込んだ私は、せっかく着用した衣類を再び脱ぎ捨てると、浴室に戻り、扉を締め、湯船の中に身を沈めた。もう、お風呂から出ない。
どう考えても不可能なことなのだが、このときの私の決心はとても硬かったように思う。
放心状態のままぶくぶくと乳白色のお湯を揺らし続けた。
脱衣所では、倒れた侍女たちを救出作戦しようと賑わっている。
皆一様に、気を失ってもなお立ったまま主を待ち続けるメリッサの生き様に涙しているようだった。
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