第32話  さよなら。

 『大人知恵熱』、なんて、大人が考えすぎたり、勉強しすぎたら熱が出る。みたいな言葉があるが。まさに、今の俺がそうなのだろう。


 6月も、もう終わりの方が近くなってきた第三週目の水曜日。


 午前7時10分。莉奈との待ち合わせ時間を過ぎても、俺はまだベッドから起き上がれないでした。


 いや、てかもう可能なら、このまま起きたくない。


 頭は重いし、痛いし。体も、全身鉛が染み込んだようにだるい。


 世界は通常なのに、俺だけ移動速度低下のデバフをかけられたように、ノロノロとベッドの上を転がっていた。


 すると、突然スマホがブルブルと鳴りだし画面に目をむける。


 相手は莉奈からだった。


 画面を指でスライドして通話に応じる。


『湊遅い。もう10分も遅れてる。どうかしたの?』


「……いや、なんか体が……」


 すると、電話越しに『あ……』と短く息を吐く声が聞こえて、俺も思わず、「なんだよ」と返す。


 すると、莉奈はいつも通り淡々と言う。


『そっかぁ〜、今日もかぁ〜。まぁ湊も男の子だもんねー。今日はなにでシてたの? 音声? 動画? それとも……私?』


「あーはいはい、もうそれでいいですよ……つーか、すまん今日休むわ」


『え、本当にどうしたの? もしかして熱でもあるの?』


「あー、ちょっと待ってろ、今測るから……って、あぁ、38度あるわ……」


 すると、次の瞬間。


『待ってて、今からそっち行くから』


 先ほどまでの、おちゃらけたような雰囲気が一切なくなった声が帰ってきた。


 カツカツと早足で聞こえるローファーの踵に、俺は「いやいや……」と通話口に声をかけた。


「俺は大丈夫だから、莉奈はしっかり学校に行ってくれ」


『熱が出てる人の信用ならない言い訳ランキング第一位だよそれ。しかも38度あって大丈夫って、説得力低いから』


 まぁそうだけど。となんだか莉奈に言い負かされたような気がして、声が小さくなった。


「でもな、今日だって体育祭の打ち合わせあるだろ?」


『そんなのどうだっていい』

 

「どうだってよくないんだよ。今日は越川先輩も自分のクラスの役員で来られないし、消去法的に莉奈しかいないんだよ」


『……そう、だけど……』


 スマホの向こう側で、ローファーの音が止まる。


「それに、もしかしたら風邪である可能性もあって……、その、昨日も俺たち、キス……しただろ。だからお互い粘膜感染してる可能性もあって……」


『……』


「莉奈?」


『湊の変態。言い方がいやらしい、あー心配して損した』


 強めの吐息が聞こえた後、ゆっくりとローファーの踵の音が再び聞こえる。


『……わかった、今日はゆっくり休んで。先生には私が伝えとく』


「すまん、頼むわ」


『……あとさ』


「ん?」


 ……。


『私は、湊でシてた……から』


 そこで通話が切れて、体からドッと力が抜ける。


 なんだか嬉しいような、でも、彼女のまっすぐな思いに対して、いつか俺の曲がった思いが、莉奈を傷つけてしまいそうな気がして、胸が痛かった。



 


 結果から言うと、風邪では無かった。


 精神的なものからくる熱発らしく、まぁいわゆる考えすぎが原因らしい。


 辿々しい足取りで帰路に着く途中、異様にプリンが食べたくなって、コンビニで買った。


 ただ、ちょっと意識が朦朧としていて、3個入りのものを、4つも買ってしまったらしい。


 計12個。これは一人じゃ食い切れないな……。


 冷蔵庫にプリンを入れる。


 今度、文乃さんと、莉奈と、俺の3人で……ぷりん……食べたい……。




 

「……ん。うん?」


 ぼんやりとした意識が浮上して、ゆっくりと目を開ける。


 見知らぬ天井……。なんて創作の世界みたいことはなく、俺が毎朝見上げている天井の模様が目に入った。

 

 ゆっくりと上体を起こす。はらりとめくれた布団を眺めて、いつの間に布団で寝たんだっけ? 

 

 なんて思った。あ、あと熱さまシートも。


 スマホに手を伸ばし時刻を確認する。


 ……あ、莉奈からも、文乃さんからも連絡きてる。あとで返さないと。


『17:34』表示された通り、確かに窓の外はややオレンジに染まりつつあった。


 あぁ、そっか。確かプリンを冷蔵庫にしまって……。


「……ん? なんか変な匂いする」


 ふと、鼻をついた……なんだろうか、炊飯器の炊き立てのような香りに、ゆっくりとベッドから起き上がる。


 そしてリビングのドアを開けると、


「……え?」


 俺は思わず素っ頓狂な声を上げた。


 キッチンの、もうもうと湯気の上がる鍋の前に立つ、背中まで届く綺麗な黒髪。半袖の白色のブラウスと、淡い青色のロングスカート。


 すると、その女性もこちらの音に気がついたのだろう、ゆっくりと振り返っては、


「あ、湊くん……勝手にお邪魔しちゃってごめんね」


 あはは、と苦笑を浮かべたのであった。





 

「ごちそうさまでした」


 手を合わせると、からになった器に目を落とす。


 そういえば今日は朝から何も食べていなかった。だからなのか、よく分からなかったが、文乃さんが作ってくれた鮭お粥は、今まで食べたどんなお粥よりも美味しく感じた。


 そして心なしか、力も湧いてきてような気がする。


「そんなのしか作れなくて、ごめんね」


「いえ、なんていうか、うまく言葉にできないんですけど。すげぇ美味かったです」


 向かい側に座る文乃さんに言うと、彼女はふふっと鳴らす。


 そっか。と短く答え、俺の食器を持ってキッチンへと向かった。


「あ、食器なら俺が」


「ダメだよ。今日はしっかり休まなきゃ」


 そう言って、余裕のある笑みを浮かべた。


 どうやら、俺はプリンを冷蔵庫にしまったあと、リビングで力尽きていたらしく。偶然、学校のプリントを届けにきてくれた文乃さんが、玄関の鍵が開いてることに気がついて、その中で俺が力尽きて倒れてたのを見つけたのだとか。


 文乃さん曰く、「湊くんが鍵閉め忘れるなんて、相当弱ってたんだね」とのこと。

 

 その後は、文乃さんに言われた通り、ゆっくりとソファーに座っていた。


 しばらくすると、文乃さんも食器を洗い終わったのだろうか、俺の方に近寄り、少し屈んで聞いてきた。


「湊くん、お風呂入れそう?」


「はい。文乃さんのおかげで力入るようになったんで、大丈夫だと思います」


 と、ソファーから立ち上がった瞬間、立ちくらみがして再びソファーに腰が沈む。


「湊くん大丈夫? 腰とか打ってない?」


「あはは、すみません……ちょっと立ちくらみが……今日はお風呂大丈夫です」


「そ、そう……でも……」


 とモジモジとする文乃さん。なんだろうか、汗の匂いでもするのだろうか。まぁでも、確かに今日は病院にも行ったし、そこそこ気温も高かった。


 汗だってそれなりにかいただろう。


 それなら、せめて着替えだけでも。


 なんて思っていた、その瞬間だった。


「私が……体……拭こうか?」


 彼女が小さく呟いて、俺も「え?」っと、そちらへ顔を向ける。


 視界の先には文乃さんが恥ずかしそうに頬を染めており、なんだか純粋に可愛なと、久しぶりに思った。


 まぁ、でも今は莉奈と付き合っているわけであって、彼女以外の女性に体を拭いてもらうなんて……。


 ……。


「あはは、ごめんね。そんな私なんかに体拭かれても」


「……お願いします」


「だ、だよね! それじゃ私……って、え?」


 文乃さんは頬を真っ赤にしながら、そんな素っ頓狂な表情を浮かべる。


「なんですか、言い出したのは文乃さん、ですからね」


 そんな彼女に、俺は言った。


 俺は莉奈の彼氏。でも今日だけは、この体調不良を理由に、文乃さんに甘えたいって、そう思った。



 

 自分のベッドの上に座り、パンツ以外を脱いだ俺。


「……それじゃ、拭くね?」


「……はい」


 文乃さんの声が聞こえるのと同時に、背中に温かいタオルの感触を感じた。ザラザラとしたタオルが、優しく背中をなぞっていく。


「うん……そしたら、次はちょっと腕あげて?」


「こうですか?」


「うん。そしたら……前も拭いていくね」


 そう言って、脇腹の横から伸びてきた文乃さんの華奢な手が、タオル越しに俺の体をなぞった。


 背中に感じる文乃さんの大きな胸の柔らかさと、首筋に感じる息遣い。


 その体勢は後ろから抱きしめられている。というのが一番近いだろう。時々ぞくりとした感覚に、変な声が出そうになって、我慢した。


 そして、一通り上半身を吹き終わると、彼女の手が止まる。


 しばらく彼女の息遣いを聞いていると、不意に文乃さんが耳打ちしてきた。


「下も、拭く……から」


「え、あ。下は自分で拭くので……」


 だが。


「……だめ。湊くんは、しっかり休んで」


 すると文乃さんは左手で、パンツのウエストの部分を持ち上げて、右手を中に突っ込む。


 生暖かいタオルと、時々当たる文乃さんに手に思わず心拍数が上がる。


 これで上がったのが心拍数だけならよかったのに、ほんと思春期とは大変なものだ。


「……あっ」


 と、文乃さんの手が俺のそそり立ったものに当たって、動きが止まった。


 あぁ、恥ずかしくて死にそう……。


 すると、彼女の大きな胸越しに、どくどくと早い心拍数が伝わってきて、俺はさらに興奮した。


「ごめん、湊くん……やっぱり終わりにしよっか」


 そう手を引っ込めていく文乃さん。


 でも、なんだかさっきまで散々文乃さんに良いようにされた気がして、それが悔しくて、


 俺は文乃さんの右手首を掴むと、口を開いた。


「……最後まで、責任、とってくださいよ」


「——っ! でも! ……。」


「……。」


「……うん」


 ゆっくりと、文乃さんの手が、動き始める。


 文乃さんの心拍数と甘い息遣い。


 多分、人生でこれほどまでに心臓がはち切れそうになったことは、無かった。





 体を一通り拭き終え、着替えを済ませた。


 文乃さんはずっと頬を赤く染めながら、恥ずかしそうに俺から顔を逸らす。


 そして、俺もあまりにもの恥ずかしさから、文乃さんのことを見れないままでいた。


 ベッドに腰掛けて文乃さんは、早口に口を開く。


「わ、私……洗濯物干し終わったら、帰るね」


「……ありがとうございます」


「……」


「……」


 そんな風に、沈黙がやってきた。


 たぶん、この沈黙はお互いの恥ずかしさもあるのだろうが、それ以上に俺と莉奈の関係があるからだと思った。


 現に、あの日以来、まともに文乃さんと話すことも、会うことも無くなってしまったのだから。


 静かな時間が続いた後、廊下の方から洗濯機のピーっ! という音が聞こえてきて、文乃さんが寝室を出ていく。


 しばらくして、再び文乃さんは寝室へと戻ってきた。


「湊くん、洗濯物干し終わったから、私帰るね」


 そう言って、やんわりと微笑む彼女、でもなんだか、ここで文乃さんが帰ってしまったら、もうこの先、一生こんなふうに会えなくなる気がして、


「それじゃ。お大事に」


 そう言って、寝室のドアへと向かっていく彼女の背中を……。


「文乃さん、ごめん」


 後ろから腕を回し、彼女をベッドへと引き摺り込んだ。


 お互いにベッドに横向きの体勢で倒れ込む。


 文乃さんのシャンプーの匂いにドキドキしていると、文乃さんが大きく息を吸って、肩が上下したのをの感じた。


「湊くん……ダメだよ、こんなこと」


 優しく静かにいうと、文乃さんは俺の腕に触れる。


 また熱でも上がってきたのだろうか、ぼんやりとした意識で、俺は口を開く。


「まだ……一緒にいたい」


「……私も」


 でも、そんな言葉とは裏腹に、文乃さんは俺の腕から離れる。


 言動と一致しない行動に戸惑っていると、ベッドから降りた文乃さんは、視線を合わせるように床に膝をつき、俺の頭を撫でた。


「……でも、湊くんは莉奈ちゃんと付き合ってるんだから、そっちを大切にしてあげなくちゃ」


 そう言って、やんわりと微笑んだ文乃さん。


 その目尻に浮かんだ涙を見て、この人も、演技が下手になったな。ってそう思った。


「でも、俺……文乃さんのこと!」


 その刹那。


「んっ……」


「——っ!」


 突如、俺の唇が、文乃さんの柔らかい唇によって塞がれた。


 シャンプーのような甘い香りと、しっとりとした柔らかい唇の感触。


 このままずっと、こうしていたい。


 そう思えば思うほど、この感覚が愛おしくなって。


 そして、彼女の唇が離れると、


「知ってるよ……でも、ダメだよ」


 そう、涙を流しながら、文乃さんは俺の頬に手を添える。


「湊くんには、守るべき大切な人がいるでしょ? それに、私は大人なんだし、もう、大丈夫だから」


 だから。


 そう言って文乃さんは俺の目尻を人差し指でなぞる。


 その人差し指が濡れていて、俺は初めて自分が泣いていることに気がついた。


「ちゃんと、莉奈ちゃんのこと、愛してあげてね」


 それだけを言って。文乃さんは立ち上がる。


 彼女が出て行った後の、一人の寝室は。なんだか寂しくて、息苦しくて。


 そして、


「なら、そんな顔、してんじゃねえよ」


 最後の、文乃さんの涙を流す横顔を思い出して、舌打ちをした。




 


 

 

 

 


 


 


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