第31話 本当に、全部大切だった。

 あの日、初めて幼馴染とキスをした日から、早くも二週間が経過した。


 季節はすっかり梅雨に入って、空はほぼ毎日灰色のまま。


 いつも通りの平日。いつも通りの朝。


「ん、おはよ。湊」


 T字路。莉奈が耳から白い有線を外す。


「おう、おはよ」


 短く返して手を繋ぐ。


 隣から聞こえた、心地よさそうな鼻音に俺はずっと、文乃さんのことばかり考えていた。




 あの日、莉奈は俺に聞いた。


—— 私のこと好き?


 そんな問いに俺はひどく困惑したのを覚えている。そりゃ幼馴染として、一人の友人として好きだし、多分異性としても、好きと言えなくなはいと思う。


 だけど、その言葉を聞いた瞬間に出てきたのは、文乃さんの顔で。


 それで、「まぁ、幼馴染として」と、濁した。

 

 だが、莉奈は異性として『好き』か『嫌いか』と言う答えを、俺に求めたのだ。


 0か100。好きか嫌いか。


 そして俺は、文乃さんの顔が頭から離れないまま、好きか嫌いかで言われれば、好きであった莉奈に、『好き』と伝えた。


 本当に、嫌いじゃなかった。


 その後に、安堵の表情を浮かべた莉奈から、告白をされた。


 そう、あの好きな人が好きな人に気持ちを伝える、あれだ。


 それで付き合うことになった俺たちは、あの日、キスをした。


 その時ふと思った、俺と文乃さんの関係ってなんなんだろうかって。


 確かに仲は良かったが、別に付き合っていたわけでもないし、でも、お互いに大切な存在であったと思うし。


 でもあの日々がなんか楽しくて、心地よかった。


「んっ……」という、莉奈の妖艶な息遣いと一緒に、彼女の舌が口の中で絡みつく。


 初めてのキスの味は、ほんのりとカフェオレの味がして、少しだけ苦かった。


 だけど、本当に神様っていうのは悪戯が好きらしく、キスをした後、文乃さんが走っていくのが見えた。


 俺はなんだか、莉奈にも、文乃さんにも嘘をついたような気がして、胸が痛くなった。


 それから、文乃さんとはまともな会話も、そして彼女が俺の部屋を訪ねてくることもなくなった。


 時々学校ですれ違っても『文ちゃん先生』の表情で手を振られて。


 文乃さんとよく一緒に昼食をとっていた音楽準備室は、莉奈と対峙して窓際の席に腰を下ろした。


 また、うちに帰ってからも、時々隣の部屋からガッシャーン! と大きな音に思わず玄関で彼女を待ってしまう、自分に腹が立つようになった。


 俺は莉奈の彼氏で、文乃さんとはただのお隣さん。あぁ、それと学校の先生。


 それだけなのに、なんでふとしたときに、彼女がウチのインターフォンを鳴らしてくれることを期待しているのか。


 こんなにも、文乃さんに会いたいと、思ってしまうのか。


 ……。


 その度に俺は、最低な男なんだと、唇を噛んだ。





「それじゃ、湊。また昼休みと……、あ、あと今日の放課後、委員会の打ち合わせで」


「あぁ、またな。って言っても、隣の席だけど」


「でも、二人っきりじゃないでしょ?」


 学校の旧校舎の裏。莉奈はふふっと鼻を鳴らし、俺の耳に口元を近づけると。


「今度はちゃんと、鍵しめてご飯、食べようね」


 俺の耳に甘ったるい息を吹きかけて、手を離す莉奈。挑発的に綺麗な色の舌を見せると、すぐに妖艶な笑みを浮かべて本校舎の昇降口へと歩いていく。


 熱くなったせいなのか、それとも、俺の好みがバレているのか。


 莉奈の華奢な背中の上を、ポニーテールが揺れた。





 放課後、委員会が終わると、俺と莉奈は昇降口へと向かった。しかし、お互いに靴に足を通したところで、


「おい、鹿島」


 背後からの声に俺は振り返る。たぶん莉奈も振り返ったと思う。


 すると、越川先輩は俺に強い眼光を向けて、親指で後ろを示した。


「ちょっと話がある」


 そう言われて、一度莉奈の方に顔を向けると、いつもの演技の笑顔で先輩に言う。


「もう、湊も家のことあるんですから、ちょっとだけ、ですよ♪」


「ごめん莉奈、ちょっとだけ鹿島のこと借りる」


 その後、一度履いた靴を脱ぎ、もう一度上履きに履き替えた。先輩に連れられやってきたのは、人けのない先輩の教室だ。


 先輩がドアの鍵を閉めると、大きくため息を吐いた。


「……たく、何が悲しくて鹿島なんかと……」


「え、呼び出しといていきなりため息とか、ひどくありません?」


「うるせえよ、後輩が揚げ足とってくんな。いびるぞ」


 そう言って、越川先輩はポケットに手を突っ込み、こちらに近づいてくる。


 なんか、圧力を感じて後退りしているうちに、背中に窓のサッシを感じた。

 

「な、なんですか……莉奈が待ってるんで……」


 すると、そのときだった。


「あぁ、それだよ。俺が聞きたかったのは」


 越川先輩はそのまま続けた。


「なぁ、お前莉奈と付き合ってるって、って本当なのか?」


 背中に走った、ぞくりとした感覚。一体誰がそんな噂を流したのだろうか。だけど、この話はもう終わったもの。


 文乃先生はただの先生であり、お隣さんで、俺の彼女は幼馴染の莉奈。


 そう完結した話なんだ。


 もう、それでいいじゃないか。


 俺は、小さく息を吐いて、そうですけど。と返す。


 すると越川先輩は小さく息を呑んで、視線を逸らすと、小さく言った。


「莉奈と付き合ってて、鹿島は楽しいのかよ……」


「楽しくなかったら……付き合いませんよ」


「お前は、本当に莉奈が好きなのかよ」


「……好きに、決まってるでしょ」


「……」


「話はそれだけですか? それじゃ、莉奈が待ってるので帰ります」


 そう言って越川先輩を追い越し、教室のドアの鍵を開ける。


 そしてドアの溝の部分に指をかけた瞬間だった。



「それじゃ、なんで鹿島は、ずっとそんな顔してんだよ」



 越川先輩の声が妙に鼓膜に刺さって、思わず足を止める。


 振り返らず、ぼんやりとガラスに浮かんだ自分の顔を眺めながら俺は口をひらく。


「いつも通りだと思いますけど、俺どんな顔してます?」


「つまらなそうな顔してるよ。少なくとも莉奈の隣にずっといたんだ、お前の顔だって嫌なほど見るしかなかった。でも、今のお前、そのどれよりも、最高につまらなそうだぞ」


 そう言われて、なぜか心のモヤモヤが一瞬だけ軽くなったような、そんな気がした。


 あぁそっか、俺のこの顔は、他人から見たときにつまらなそうな顔をしてるんだ。


 でも、悔しいけど、そんな気がしてた。


 すると、越川先輩は「先に謝っとく」と言った。俺はそちらに振り返ると、思わず目を丸くした。


 少し遠くてはっきりとは見えなかったけど、先輩のスマホの画面に映った、黒くて長い髪の毛と、その女性を抱きしめる男性の写真は、あまりにも見覚えがあった。


 いや、見覚えがあるも何も、俺だった。


 先輩はスマホをポケットにしまうと、「盗撮するつもりはなかった」とセリフを続けた。


「偶然、同じ電車にいたんだ。俺もよく電車は最後尾に乗るから」


 ……。


「鹿島はてっきり、篠崎先生のことが好きなんだと思ってた。てか、そんな顔をしてた。でも、今は莉奈と付き合ってる」


「……だからなんですか」

 

「いや別に、この写真をばら撒いてどうのこうのとかは考えてねえよ。でもな、こう言うのは好きな人にしかやらないんだよ。普通は」


「そうとは限らないでしょ……人それぞれなんですから」


「じゃああれだ。お前ら幼馴染なんだろ? 思い出せる過去から今まで何回、莉奈にこう言うこと、したことあるんだ?」


 この手の話になれば、もう俺の勝ちだ。


 俺が思うに、莉奈とは結構一緒にいた時間が長かったと思う。


 よく家に来るようになって、莉奈の演技の特訓をして、一緒に教室から逃げて、中学生になって、風香ちゃんと遊ぶようになって、そしてキスをして……。


 ……あれ、おかしいな。


 これだけ一緒にいたはずなのに、文乃さんにしたこと、まだ莉奈に一回もしたことないや。


 すると、越川先輩は「まぁ、別にどうでもいいんだけどさ」と、ゆっくりとこちらに近づく。


「だったらいいじゃないですか。別に」


 なんだろう、多分悔しさもあったんだと思う。そんなふうに返すと、越川先輩は俺の目の前で足を止めて笑った。


「あぁ、お前はな」


 その次の瞬間、胸グラを掴まれ、そのままドアに押しつけられる。

 

 初めて見る先輩の力強い瞳に、変に体に力が入って、心拍数が上がった。


「お前なんてどうでもいい。変な話、篠崎先生と付き合おうが、莉奈の幼馴染だろうが、明日、どこかの学校に転校しようが……でもな」


 そこで一息つくと、先輩は静かに、


「莉奈を悲しませたら、控えめに言ってぶち殺すからなお前」


 そう言って、俺の襟を離す。


 俺を手でのけて、ドアを開ける。


「あ、鹿島。最後ドアの鍵しめてこいよ」


 それだけを言って、ドアが静かに閉まった。


 ……。


 静かになった教室で、俺は奥歯を噛み締める。


 本当は莉奈との、この関係がよくないことも、文乃さんが好きなことも、全部わかってる。


 きっと、このままでは莉奈も文乃さんも、誰も幸せにならないことなんて、もっと分かってる。


 でも、


「なら、なんで誰も、助けてやらなかったんだよ……」


 あの日、教室の隅で一人でいた莉奈のことも。


 お酒で自分を誤魔化してボロボロになって文乃さんことも。


 なんで全部、俺だけなんだよ。


 やり場のない、気持ちが溢れてくる。


 全部俺以外の人が、やればこんな気持ちにならなくて済むのに、とか、結局先輩だって何もしてないうちの一人だとか、いろんな考えが頭をよぎる。


 でもその中で、その日々が楽しいと思えた俺がいるから、なおさら分からなくなった。


 本当に全部、大切だったから。

 


 




 


 


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