第29話 カタストロフィ
あれは、私と湊が中学一年生になった梅雨のこと。
雨が降りしきる放課後、傘を並べて歩いていた時のことだった。
「あ、そういや、言い忘れてたわ」
そんな会話の切り出し方に、私は「ん?」と彼の顔を覗く。
どこにでもいそうで、ここにしかいない。見慣れた湊の顔を。
すると、彼は自然と呼吸をするように言った。
「俺、明日友達とカラオケ行って帰るわ」
……え?
ずっと二人だと思っていた彼の、そんな言葉は。
私の思春期真っ只中の情緒を揺さぶった。
「……」
私は家に帰るなり、そのままベッドに倒れ込んだ。その衝撃で、もしかしたらスカートが捲れて、アホみたいな格好になっているかもしれないが、今はそんなこと気にならなかった。
小学生の頃から今まで、一度も一緒に帰らないことはなかった。まぁ、流石に仕事をしていた時は一緒には帰れないけど。
でも、学校に行った日には、雨の日だって、夏休み前の大荷物を持って帰る日だって、隣には湊がいた。
だけど明日、湊は新しくできた友達と、カラオケに行く。
その事実だけが、私を今こうしてベッドに押さえつけいる。
ずっと一緒だったから、明日湊がいないのが嫌なのか。
それとも、湊に友達ができたことが嫌なのか、よく分からなかった。
でも、なんだかモヤモヤが大きくなって、その発散の仕方を知らない私はベッドで悶えてたと思う。
「ん〜……んん〜っ! あーっ! あーもうっ!」
まぁ、多分こんな感じ。きっと普段は静かな私がベッドの上で転げ回っていたからだろう、その後、お母さんにめちゃめちゃ心配された。
その最後にふと、明日、こっそり跡つけようかな。
なんて考えて、すぐに辞めた。
ほんと、思春期とは恐ろしい。心のモヤモヤが時々行動をバグらせるのだから。
あぁ、ほんと、早くなくなれ、思春期……。
って、思ってたのに。
「すまん、先生に呼び出されてた。なんか俺やったらしい」
学校から最寄りの駅。その手前にある公園で、湊がそう言ってやってくると、先にいた男子二人と女子一人が、笑い声をあげた。
金髪のハーフの男の子、『ルカ』くんと、その横にいるマッシュみたいな髪型の黒髪が『優斗』くん。そしてその彼女の『美穂』ちゃん。
「え〜! 絶対あれだよぉ〜!」と、面白そうに笑う美穂ちゃん。それに釣られて、他の男子も「美術のやつだろ。あの作品はやべえって」と、笑い合う。
それを、私は……。
「あれは仕方ないよ……」
少し離れたベンチに座り、聞き耳を立てていた。
紙粘土で何かを作ると言う課題で、湊が作ったものが物議を醸し出した。
彼は大砲と言っていたが、あれはどう見ても、ちn……。
すると、その時だった。
「ごめーん! 遅くなったぁ〜!」
そんな華奢な声を上げながら、湊たちの元へと走っていく一人の女性が目に留まった。
黒髪の、可愛らしいボブカットが印象的の、ちょっと背が低い同じ制服の女子。
確か、名前は。
「こら、遅いぞ、『梓』」
「ごめんルカくん。先生に呼び出されちゃって♪ でもなんでかなぁー……」
「いや、理科の実験中にアルコールランプで、スルメ炙ったら怒られるだろ!」
そう、優斗くんがツッコミを入れて、みんな一気に笑い出す。
湊も、楽しそうに笑っていた。
『本居 梓』。あぁそうだ、そんな名前だ。少し身長が小さくて、少し幼い顔つきと、それに反して大人っぽい体つきをしている。
その見た目からも読み取れるように、可愛いものが好きで、誰にでも優しく、常に明るい。
そんな彼女はクラスでも人気者で、クラスの中心人物。
すると、いつもは絡まないせいだろうか、物珍しげに湊の方をじーっと見つめる。
それに気づいた湊は「あぁ、そっか」と口を開く。
「普段あまり話さないからな。俺は鹿島湊。俺もさっきまで先生に呼び出されてた、よろしく」
すると、梓ちゃんは、目をぱちぱちとしたあと、
「え〜っ! そうなの! 同じだぁー!」
と、湊の手を握って、ブンブンと振り回した。ていうか、私でも湊の手に触るまで、一年ぐらいかかったのに、あの子距離感バグってない?
てか、なんで湊もそれで嬉しそうにしてるの……。
「あぁ、まぁ。そう言うこともあるよな」
「え〜、普通はないよ〜。ちなみに湊くんは何で呼ばれたの?」
え、しかももう名前呼び?
「俺は、美術の時間に作った……」
「あ! それ知ってる! ち○ちん!」
「だから大砲だっての!」
そんな二人の会話に、「お前ら声大きい!」と、仲裁に入るルカくん。
「それじゃ、とりまカラオケ行くか」
ルカくんの言葉に、みんなが遠ざかっていった。
その中の一番後ろを歩く湊の背中、その横に並んだ、華奢な背中と、二人の楽しそうな横顔に、なぜか嫌な気持ちになった。
その後、度々湊は放課後に友達と遊び、その中には絶対に梓ちゃんがいて。
私はそれを見たり聞いたりしては、またベッドで悶えた。
あぁ、あともう一つ、思春期の弊害が出始めた。
今までは単純にドキドキしていたものが、もっと体の奥の方に響くようになっていた。
ふと、隣を歩く湊の手に触れたり、体育の後、湊から少しだけ汗の匂いがしたり。
それを思い出して、ベッドの上で悶えた。
湊が私から離れていく。少しずつ手の届かない場所に行ってしまう。
そんな恐怖心にも似た感情を、一瞬の快感と彼からもらったイヤホンで覆い隠した。
そんな、やりきれない思いが増えていったある日のことだった。
「なぁ、莉奈」
一緒に帰っても中々会話が続かないことが増えた放課後、帰り道。
そんなことを気にして歩いていた今日も、雨が降っていた。
T字路で呼び止められて、湊の方へと振り返る。
「なに?」
一切可愛げのない、返答。自分でも、もっと愛想の良い返し方ができればいいのに、なんて思った。
すると湊は、「あ、えーっと……」と、視線を逸らし、誤魔化すように後頭部を掻く。
その顔はまるで、何かを隠しておこうか、言うべきかで迷っているような表情で。
だから、必然的に私も、不安になった。
「どうしたの?」
私が改めて聞くと、湊は観念したようにため息を吐き、こちらに顔を向ける。
そして、
「俺さ、梓ちゃんに告られたわ」
あはは。と恥ずかしそうに笑う湊。
一方で、私の世界からは音が消えた。
告られた。と言うのは、私の認識が正しかったら、あの、好きな人に想いを伝える、あれで間違い無いのだろう。
ツーンとした痛みと、胸の中に流れ込んでくる、ドロドロとした感情。
「……あは、あはは……そっか。それで、付き合うの?」
「いや、まだ返事を待ってもらってる」
でも、それ以上に、湊が隣にいない生活が、私には想像ができなかった。
いつもの通学路も、学校も。
息を吸って吐くように、自然と隣にいた湊が、別の女子の隣にいる。
それを遠くから見てる私は、どんな顔をしているのか、全く想像ができなかった。
あぁ、聞きたくない。いくら湊でも、そんな話なら、聞きたくない。
「でも、梓ちゃん、結構いい子だと思うし、湊も……楽しそうだし! たぶん、うまく行くと……思う……」
そう言って、私は湊に背を向けると、自分の家に向かって歩き出す。スカートの生地の繋ぎ目にあるポケットから、白い有線を取り出す。
なにも聞きたくない。
そんな言葉が頭の中で反射して、イヤホンを耳につけると、カバンの中のスマホに繋げる。ぱちぱちと傘の上で弾ける雨音がくぐもった。
……だが。
「……な。……い、…りな!」
……。
「おい待てって!」
突然肩を掴まれ、後ろにぐいっと引っ張られる。その衝撃で右耳のイヤホンがはずれ、湊の声がはっきり聞こえた。
そのまま、振り返ることなく、私は言う。
「急にどうしたの? 私さ、靴びしょびしょで、早く帰りたいんだけど」
だが、湊から帰ってきた言葉は、全く違うもので。
「なんか言いたい事あんなら、言えよ」
そんな言葉に私はびくりとする。
「……言いたいことは言ったよ。お似合いの二人だと思う。あとは、湊が決めた方がいいよ」
そう呟いて、私の肩に乗っている手に触れる。これが、湊が私に触ってくれる最後の手かもしれない。
そう思うと、もう少しだけ触っていたかったけど。彼の手を少し持ち上げると、私は歩き出す。
湊の隣じゃなくなるかもしれないけど、湊がいなくなるわけじゃない。
梓ちゃんが湊の彼女になれたとしても、湊の幼馴染にはなれない。
このポジションは私のもの。それなら、湊が幸せな方が、私はいい。
外れたイヤホンを着け直す。
水溜りに、雫が落ちる。
「……じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」
イヤホン越しの、くぐもった声に、私は思わず足を止めた。
そんな顔? 一体今の私はどんな顔をしているのだろうか。
カバンからスマホを取り出そうとして、下に視線を向ける。私の足元の水溜りに水滴が落ちた。
……あれ、なんで足元の水溜りに水滴が? 傘をさしてるのに、もしかして雨漏り?
すると、その瞬間。傘を持つ手とは逆の腕を引っ張られ、彼の方へ引きつけられる。その衝撃で再び外れた、右耳のイヤホン。
そして、湊が私の頬に手を添えると、
「泣いてるから、聞いてんだろ」
そういった。
それに気づいてしまった私は、他のものも芋づる方式に気付き始める。
顔が熱いのは、泣いていたから。ここ最近ずっと不安だったのは、湊が誰かのものになってしまいそうだったから。
そして私は、その誰かに嫉妬していたから。
視界が滲んで、自然と嗚咽とひゃっくりが迫り上がってくる。
あぁもう最悪。私、泣き顔可愛くないのに。
でも、それ以上に、
「……やっぱりやだ。告白……断って……」
私には、湊しかない。それ以外に私を証明できるものは、なにもないことに気づいてしまったから。
別にシラを切るつもりはない、その後、確実にそれが要因で湊は告白を断った。
それから放課後は毎日湊と帰るようになったし、湊は、元々の交友関係の狭さから、また一人でいることが多くなった。
私が、湊を一人にしてしまった。
でも、湊が一人だと、私は嬉しかった。
だって、その隣は必然的に私になる。
私が湊に依存するように、湊も、私にしか依存ができなくなる。
でも、そうだな。湊にはよく、私の交友関係を心配されるから、友達を作っておいた方がいいかも。
それなら、手っ取り早く梓ちゃんを真似しよう。あいにく、私はお芝居が得意なの。
そして私は、梓ちゃんたちと絡むようになり、クラスでの絶対的な地位と、湊との絶対を手に入れた。
そして、高校に上がって……。
とある、5月の終わりが近づいてきたある日のこと。
「あ。」
久々に和茶ちゃんときたショッピングモール。
二人で来月の下旬に始まる体育祭のことを話している最中に、バッタリと出会ってしまった、見慣れた顔に、素っ頓狂な声を上げた。
「湊……文ちゃん……先生?」
私がそういうと、二人とも困ったような顔を浮かべた。
「あはは、見られちゃったかぁ〜」
そう、先生は言う。湊は誤魔化すように視線を逸らして、後頭部を掻く。
え、聞いてない。今日湊が出かけるって話も、文ちゃん……篠崎先生と一緒に出かけるような関係なのも、全部知らない。
こんな湊……私知らない。
……。
なんだろう……今何か、私の中で割れたような音がした。
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