第28話 キミとなら、
そして、莉奈のドラマの撮影も終盤に差し掛かり、また、夏休みも近くなった、7月のある日。
「ね、湊。私、告白された」
放課後、陽炎が立ち上る住宅街のアスファルトの上。莉奈から突然飛び出したそんな言葉に、俺は口をぽかんと開けた。
告白というのは、俺の認識が正しければ、あの好きな人に自分の気持ちを伝えるあれで、間違いないだろう。
意外……ではなかった。莉奈は可愛いし、それに今や、ドラマに出演している、プチ有名人でもあるのだ。
でも、驚いた。そして何よりも、莉奈が少しだけ遠くに行ってしまいそうな、そんな考えが頭をよぎった。
だけど、俺はそれを誤魔化すように「ふーん」と返事を返し、先に歩き始める。
その日はT字路で別れて、お互いの家に直接帰った。
それから、数日経って、あれだけ莉奈の周りにいた同級生や他学年のクラスのやつは、誰一人として寄り付かなくなった。
確か、莉奈が告白してきたひとつ上の先輩をフッた。という噂が流れてからだったと思う。だが、それが一部の女子からすると良くなかったのだろう。
その女子たちが、ありもしなような莉奈の噂話が流しはじめ、莉奈は再び孤立した。
ほんと思春期というのは怖いものだ。私の好きなあの人をフッたあの女。っていうだけで、やりたい放題するのだから。
だけど、俺が莉奈に何かをしてあげられる訳でもなく。ただ一緒に登下校して、時々俺の部屋で、ドラマのセリフの練習をする。
そんな日々が続いた、7月8日。
俺が珍しく寝坊し、莉奈の後に遅れて学校へ着いた時だった。
白い有線のイヤホンをポケットにしまい、教室に入ると、莉奈の席に数人の女子が囲むように集まっていたのだ。最近は悪い噂もあったし、いい予感はしない。てか、いい予感がするわけがない。
まぁ、案の定その感は当たるもので、
「ねぇ、莉奈ちゃんドラマに出てる俳優とエッチな事してるってほんと?」
「え〜、莉奈ちゃん大人ぁ〜、やっぱり私たちとは違うんだね〜」
そんな、普通に考えれば誰でもわかるような事をネタに、莉奈を追い込んでいたのだ。
「……してない」
そうやって、顔を背けた莉奈と目が合い、彼女はすぐに俺からも視線を逸らす。
その視線はまるで、『湊には関係ないから』と言って、全て抱え込んでいそうな、そんな感じがして、なんだか胸が痛かった。
だけど、それ以上に。
そんな莉奈を前にしてなにもできないでいる俺に、一番腹が立った。
すると、クラスのリーダー的な女子が、口を開く。
「え〜、てかさ、証拠あんの?」
「証拠は……」
「あははっ! ほら無いじゃん! てかさ、莉奈ちゃんって顔がいいだけでさ、特に演技が上手い訳でもないし、友達もいないし、それに……」
—— 努力なんてしなくても、顔がいいだけで上手く行っちゃうもんね。
そんな言葉が、俺の耳にやけに鈍く突き刺さる。
さーっと引くように周りから音が消えて。
視界の中で莉奈の瞳が揺れた。
……。
莉奈の、机の上に水滴が落ちた。
その瞬間、俺の中で湧き上がってきたのは、悲しみでも、悔しさでもなく、ある種の殺意に近いものだったと思う。
俺が一人なのも、俺が陰でバカにされてるのも、別にそんなことはどうでもいい。
だけど、莉奈のことをそんな風に言われるのは気分が悪い。
みんなに迷惑かけたくないからと言って、ひたむきに練習を頑張る莉奈。
きっとその姿を知っているのは、俺だけなのだろう。
みんなに迷惑をかけたくないと、必死に練習する莉奈も、俺だけに見せる、やんわりとした表情も、そして、その日々を楽しいと思ったこの気持ちも。
その全てをひっくるめて、ないも知らない奴に否定されるのは、いけ好かなかった。
いや、小学生らしく、もっと簡単な言葉でまとめよう。
まぁ詰まるところ。
「……は。ふざけんなこの野郎」
莉奈を否定するのだけは、許せなかった。
これが女の子に手を挙げた、最初で最後の記憶。
気がつけば俺は、その女子の肩を掴み、床に引きずり倒していた。俺の心臓のバクバクなる音とは逆に教室は静まり返っていた。
そんな中、俺は驚きの表情に満ち溢れていた莉奈の腕を引っ張り上げ、席から離れる。
そして教室のドアの前までくると、床に倒れたまま素っ頓狂な顔をしていた女子に、
「莉奈は誰よりも努力してるし、友達だっている。それに、莉奈が絶対に他の人とエッチなことなんてするもんか……だって」
……。
「莉奈は、俺のだから」
そう言って、息を呑む彼女を引っ張り、教室を出た。
「……」
「……」
ドアの前で、少しの沈黙。あぁ、完璧にやってしまった。これは流石の俺でも、明日から学校に来ずらいなぁ……。
なんて思っていたその瞬間、教室の中から、大きな声で泣く声が聞こえて、
「——っ! やばいっ逃げるぞ!」
俺は咄嗟に走り出した。もちろん彼女の手を引いたまま。
「え? ちょ、ちょっと湊っ! どこ向かってるの!?」
「分っかんねえよ!」
「えっ……ぷっ! あっははは!」
「笑ってる場合じゃねえって!」
「あはは! ふぅ、ふぅ……だって、湊、今最高にカッコ悪いから!」
「あぁ、そうかよ!」
「うんっ!」
俺たちは上履きのまま、俺の家まで逃げてきた。時刻は午前9時半。きっと今頃学校では大騒ぎ間違いなだろう。
お互いに汗がびしゃびしゃの状態で部屋に上がり、クーラーの設定温度を最大に下げてソファーに座り込む。
お互いに息切れの状態で、上下する肩がぶつかった。柔軟剤の匂いよりも、莉奈の汗の匂いにどきりとした。
「すまん、なんかここしか思い浮かばなかった」
「はぁ……はぁ……あぁー! 疲れたぁー!」
莉奈はだらんとソファーの背もたれにもたれかかり声を上げる。そりゃ、学校からここまでの約三キロをノンストップで走ってきたのだ。
でも、莉奈は今までで一番楽しそうな声をあげた。
それに俺は鼻を鳴らすと、ポケットに手を突っ込む。あ、そうだ……。
「莉奈」
「ん? なに湊?」
こちらに顔だけを向けた莉奈。そんな彼女の顔の前に、白い有線をぶら下げる。
「これ、やるよ」
ワンテンポ遅れて素っ頓狂な声を上げた莉奈。上体をゆっくり起こすと彼女は続ける。
「え、でもこれ……結構高かったやつなんでしょ?」
「あぁ、だから結構音も遮断できるし、それにほら」
俺は、イヤーピースを指で摘むと、彼女の顔に近づける。
そして、莉奈の両耳につけると、
「こうしてれば嫌なものも、あんまり聞こえないだろ?」
そう言って微笑みかけると、莉奈の大きな瞳が一瞬大きく見開いて、すぐにまた吹き出した。
しばらく、笑った後、莉奈は目元を擦り、こちらに目をむける。
「ありがと……でもさ」
そう言って、イヤホンを耳から外した莉奈。汗で張り付いた髪の毛を払うように顔を横に振ると、再び視線を合わせる。
そして、
「湊の声だけは、もっと聞きたい」
彼女は短く言うと、やんわりと微笑む。
どこか力の抜けるような、見てるこちらが暖かくなるような、そんな表情で。
だが俺は、彼女に見惚れている事に気がついて、「……勝手にしろ」
そう言って、すぐに顔を逸らす。
その時初めて、莉奈ってこうやって笑うんだなって、そう思った。
……。
久しぶりに、こんなに笑った。
まだ湊に手を引かれて、走ったばかりなのに、これじゃ呼吸する暇もない。
苦しくて、痛くて、でも……。
「ありがと」
心地いい。
私がそう返すと、彼は目を丸くして、恥ずかしがるように視線を逸らす。
ほんと、人前では『俺の』なんて言えるくせに、こう言うのは恥ずかしいなんて、ちょっと変わってる。
すぐに転校するから友達作るのがめんどくさい、って言うのも、きっと別れる向こう側のことを考えてのことだし、私と一緒にいてくれるのも、多分私が一人でいるから。
ちょっとめんどくさくて、誰よりも優しい。
でも私は、そんな湊が好き。
白い有線のイヤホンが、彼の声をくぐもらせている事に気がついて、私は、イヤホンを耳から外す。
きょとんとした表情を浮かべる湊に、「でもさ」と私は言葉を紡いだ。
「湊の声だけは、もっと聞きたい」
そうやんわりと微笑むと、湊は驚いたように目を見開き、口をぽかんと開ける。
「……勝手にしろ」
彼はまた恥ずかしそうに視線を逸らす。
胸の高鳴りと、私の目尻から自然と溢れた涙。
この先、キミとなら、どこまでも逃げられるような。
そんな気がした。
「……で、そのお返しに、その『うさぎさん人形』もらって……って、文乃さんっ!?」
「うぅ……ぐずっ……湊ぐん……ティッシュ」
子供みたいに鼻水を垂らしながら、目元を擦る文乃さん。
ティッシュを渡すと文乃さんは勢いよく鼻をかむ。しかし勢いが強すぎたのか、ティッシュを貫通してしまったらしく、「うぅ……うぇ〜……ティッシュ……がぁ〜」と、涙を強めた。
もうここまで来ると、何が要因で泣いているのかよく分からんな……。
文乃さんはしばらく泣いたあと、テーブルの上のコーヒーと、もう一つ追加で出したプリンを秒で飲み込み、やっと落ち着いた。
やはりどの世界においてもプリンは最強らしい。
「ごめんね……なんか、感極まっちゃって」
「いえ、まぁ、こんな話なんで、仕方ないですよ」
「ううん……そんな事ないよ」
文乃さんはそう言うと、俺から視線ずらし、からになったプリンの容器に目を向ける。
どこかホッとしたような、少しだけ寂しそうな、複雑な表情を浮かべて、
「そっか、私にとっても、莉奈ちゃんにとっても、恩人なんだ……」
そう、ぼそりと呟いた。
その後しばらく静かな時間が続いた。
俺はテレビを見て、文乃さんはスマホを眺める。同じソファーに座っているのに、別のことをしてたと思う。
すると突然、文乃さんが口を開く。
「『芹沢 リナ』……この子が昔の莉奈ちゃんなんだ」
彼女の独り言だったかもしれないものに、俺は顔を向ける。
「久しぶりに聞きました、確かそんな芸名使ってましたね」
「へぇー。子供向け番組に一本と、恋愛ドラマに一本出演……あ、このドラマ、私知ってる。てか、あれ? それ以降は出てないんだ」
「あー確か、中学に上がる前に、その仕事辞めたんです」
まぁ……理由は俺も知らないけど。
すると文乃さんは、へぇー、と息を漏らしスマホの画面を閉じる。
「そうなんだ……って、もうこんな時間」
文乃さんがスマホの時計を見ると、そんな声を上げる。
時刻は20時ぴったり。きっと文乃さんにもシャワーを浴びたり、明日の準備だってあるだろう。
「話、結構長かったですもんね……すみません」
「ううん。そんな事ないよ」
そう小さく首を横に振ってソファーから立ち上がる。
俺も彼女を見送るつもりで、玄関までついて行った。
「湊くん、今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ。文乃さんの料理美味しかったです。毎日食べたいぐらい」
「……っ! 毎日って……でも、湊くんがいいなら……」
「文乃さん?」
「あ、ううん! また暇があったら作りにくるから。それじゃ、また明日」
頬を赤く染めた文乃さんはドアを開け、外に出ていく。
一体何か変なことを言ったのだろうか。
リビングに戻るまでの廊下で、そんな事を考えていると、ふと、俺は足を止めた。
フラッとした足元を支えるため壁に手をつく。
——毎日食べたいぐらいです。
毎日……。
「あぁ、俺、やったわ」
久しぶりに、恥ずかしくなって、頭を抱える俺であった。
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