第24話 その背中が遠くなる。
たぶん、学校で莉奈から昼食に誘われるのは、初めてだった。
——よかったら、今日、一緒に食べない? 和茶ちゃん、休みでさ。
きっと莉奈は自覚してないかもしれないけど、彼女の、何かを心配するような表情は、初めて見た気がする。
だから、その分俺はどう返したら良いのか、分からなくなって、曖昧な返事を返した。
そして、その後はそれっきり。
いつも通りのそっけない莉奈と言われれば、莉奈なのだが、その視線は黒板ではなく、ずっとノートの上に落ちているような気がした。
彼女を横目で眺めていた視線を外すと、バレないよう、小さくため息を吐き出す。
どうすれば良いのだろうか。
そんな考えとは別に、あの時感じた、後ろめたさのような物の後味を、口の中で転がしていた。
「……」
放課後、いつも通り莉奈と帰路についた。
まぁ、一緒に帰ったと言いつつ、莉奈はずっと白い有線のイヤホンをつけて、俺の少し前を歩いているのだが。
そのうち、いつものT字路に到着。
俺の少し前で足を止めた、彼女の背中に声をかける。
「それじゃ、莉奈。また明日」
返事はない。その代わり白いイヤホンがさらりと風に揺れる。
はぁ……と小さくため息を吐くと、気をつけて帰れよ。そう呟き自分の家の方向へと体を向ける。
そして、数歩足を進めた時だった。
「ね、湊」
彼女の声と同時に、俺の背中のシャツがグイッと引っ張られる。
莉奈の突然の呼びかけに、なんだか、久しぶりにその声を聞いたような感覚を覚えながら、振り返った。
そして、いつだったか、何かを隠そうとして、無理やり笑っているような、彼女の顔に、少しだけ目を見開く。
「……どうした? やっぱり明日の昼、一緒に食うか?」
いつも通り返して欲しい。そんな期待を込めながら、彼女に言う。
すると彼女は、少しだけ口をもごもごと動かすと、不安と何か複雑なものが絡まったような声で言った。
「湊はさ、ずっと私の幼馴染……だよね?」
そんな突拍子のない質問に。
そんなずっと変わらない幼馴染の表情に。
—— 湊は、どこにも行かないよね?
ふと、7、8年前のことを思い出した。
揺れる前髪の奥から俺を伺う瞳は、あの時から、ずっと怯えたままだった。
だから俺も、あの時と同じように、その手に優しく手を添える。
「大丈夫、これまでも、これからも幼馴染だよ」
そう言って笑って見せた。
ワンテンポ遅れて、莉奈もくすりと鼻を鳴らす。
「……そっか、そうだね。湊、だもんね」
「まぁな」
莉奈は安心したように息を抜いて、俺の手から離れる。
「ごめんね、変な心配しちゃった」
それじゃ。またね。莉奈はそう言って微笑むと、短いスカートをひらりと揺らして、踵を返す。
華奢な背中で揺れる髪の毛に、なんとも言えない後ろめたさを感じて、俺も歩き出した。
シャワーを浴びて、ソファーに腰を沈めると、小さくため息を吐く。
思い返していたのは、今日一日の莉奈のことだった。
飯を急に誘ってきたり、急に拗ねたり。
それに何よりも。
——湊はさ、ずっと私の幼馴染……だよね?
彼女のあの言葉と、表情だった。
なんでそんなことを聞くのか、そして、なんでそんな表情をするのか。
俺にはよく分からなかった。
天井を見上げながら、ん〜。と喉を鳴らし、腕を組む。
でも、一つだけ気づいたっていうか、思い出したことがある。
それは、今も昔も、彼女は何かに怯えているような瞳をしているということだ。
そんなことを考えていると突如インターフォンが鳴り響き、玄関へと向かう。
ドアスコープを覗き込むと、そこには文乃さんが立っていた。まだ服装は学校の時のままで、その手には大きめのビニール袋が握られている。
鍵を開けてドアを開けると、俺は文乃さんに言った。
「文乃さん。お帰り」
すると文乃さんは、「え……あ。」と戸惑ったように視線を逸らす。
そして、もう一度その視線を持ち上げると、
「……ただいま。湊くん」
どこか気恥ずかしそうにそう呟いた。
可愛らしい表情のまま、文乃さんは、えへへ。と笑う。
「なんか、新婚さん……みたいだね」
不意に飛び出した、彼女の言葉に、思わず息を呑む。
時々、普通にこういうことを言ってくるからこの人は困る。
「……ところで、それ、どうしたんですか?」
彼女の持っていたビニール袋へと目を向ける。袋の持ち手から飛び出した大根の葉が小さく揺れた。
すると、文乃さんは「うん」と小さく頷いて、
「今日は、私が夕飯作ろうかなって……迷惑、かな?」
こちらを上目遣いで覗き込む。
「……」
「えーっと、湊くん?」
「……あ、すみません。ちょっとフリーズしてました」
かろうじて言葉を返すと、文乃さんはきょとんとした顔で小首をかしげる。
「ふーん。湊くん、変なの」
「……まぁ、そう言うことでいいですよ……とりあえず上がってください」
「うん……お邪魔します」
ドアを大きく開けて彼女を通す。
俺の靴の横に並べた、黒のパンプスを見てふと、本当に新婚みたいだなって思った。
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