第16話 大丈夫。
「わぁ……綺麗……」
そんな、華奢な声が心地よく耳に残ったのは、青くライトアップされたクラゲ水槽の前。
文乃さんとのショッピングを終えた後、俺たちは世界一高い電波塔の下に併合されている水族館へと足を運んでいた。
地図を見た感じ、そこまで大規模であるわけではないのだが、ペンギンやオットセイがいたりと、都会のど真ん中で見られる水族館としては、かなり内容が濃いものだと思う。
隣で口をぽかんと開ける彼女を横目に、俺も口を開く。
「確かに、クラゲってこんなに綺麗だったんですね。あのクラゲとか、触手絡まってて面白いです」
「どこ? あ、もしかしてあのクラゲ?」
体をこちらに傾けて、自然と文乃さんの肩と触れ合う。柔らかくて、華奢な線を感じて、俺は小さく唇の端を持ち上げる。
「そうです、あの一番上のやつ。なんか、寝起きの文乃さんの寝癖みたいで可愛いです」
「もぉ〜、湊くん……バカ……」
文乃さんはだんだんと声を小さくしながら、視線を前髪に隠す。恋人繋ぎをする彼女の左手が、キュッと力込めた。
あぁ、可愛い以外の何者でもない。
「あはは。それじゃ次行きましょうか、なんかチンアナゴも見所らしいですよ」
「え。本当!? 私、チンアナゴ好きなの!」
文乃さんは前髪を揺らしながら、顔をこちらに向ける、大きな瞳に水槽の青が反射して、なんだが幻想的だと思った。
手を離した文乃さんが「チンアナゴ〜」と、ふにゃふにゃポーズをしたのを見て、思わず鼻を鳴らす。
「何やってんですか、全く」
まぁ、きっとあの有名なアニメの真似だろうけど。
すると突然どこからか、「さかなぁー!」と言う声が聞こえてきて。その驚きで二人で数秒見つめ合ってから、お互いにふふっと鼻を鳴らす。
「ふふっ。どこからか、コーカサスオオカブトとかこないよね?」
「あれはミームです。本編じゃないです」
「そっか」
短く言葉を交わして、自然と手を繋ぐ。
その後、チンアナゴやペンギンを見るたびに、前髪とスカートの裾を揺らした文乃さんだった。
「ん〜! 今日はいっぱい遊んだぁ〜!」
駅のロッカーに預けていた荷物を取り出すと、駅のホームで電車を待つ。
俺が電波塔の鮮やかなライトアップを見上げていると、隣で文乃さんが満足げに息を吐く。
俺は彼女の方へと顔を向ける。
「はい。確かに朝からいっぱい歩きましたね」
「うん! まずはお洋服買って、お昼につけ麺食べて。その後クラゲとかペンギンとか……あ! チンアナゴパン美味しかった!」
「ほとんど食べてる時の記憶しかないじゃないですか」
「あはは! でも今日は、一日中ドキドキしてた」
声のトーンを少し落として、彼女は穏やかな笑みを浮かべる。しおらしく胸に手を当てる彼女に、思わずどきりとした。
「そうですか。まぁ、なんていうか、俺も……その……」
「……ふふっ、そっか。それじゃ、また来ようね。湊くん」
彼女は心地よく鼻を鳴らし、優しく肩を寄せる。
文乃さんの両手が買い物袋で塞がっていて、手を繋げないのが残念だと思った。
「はい。是非」
俺は、文乃さんに笑みを返すと、水族館のマークがプリントされたビニール袋に目を向ける。
透明なビニール袋越しに、チンアナゴのキーホルダーと、年間パスポートの青いカードが見えた。
両方とも、文乃さんとお揃いのものを買った。
チンアナゴのキーホルダーも、カードの絵柄も、二人ともペンギンのものを。
——なんか、恋人っぽいね。
って笑う文乃さんにドキドキしながら、それを選んだ。
だけど、1日限定のこの関係は、お互いの部屋に入った瞬間終わる。
またね。そう言って部屋のドアを潜る感覚は、遊園地から帰る時の、あの感覚とよく似ているような気がした。
だから、少しでも長くこの時間が続いて欲しいと思った。できればこのまま電車が迎えに来なければいいなって。
そう思った。
だけど、日本の電車は時計よりも正確と言われており、電光掲示板通りの時間に電車がやってきてそれに乗り込む。
休日の夜間ということもあってか、座席には座れないものの、人はそれほど多くはなかった。
最後尾の車両。運転席側の壁にお互いが背中を預ける。
各駅停車のこの電車なら、もう30分ほどはかかるだろう。単純かもしれないが、そう考えると、文乃さんとの時間が30分保証されたような気がして、嬉しかった。
その後は、いつも通り軽い雑談をしながら、電車に揺られた。
大体最寄りの駅までは、あと10分といったところだろう。
4駅先の俺たちが降りるべきところの駅名を見て、少しだけ名残惜しくなる。
「それでね、それでねぇ〜!」
隣で文乃さんの前髪が揺れる。
そういえば、今思い返せば水族館あたりから、いつもの文乃さんに戻っているような気がする。
まぁでも、確かにずっとあのカッコいい自分を演じるのも、なかなか疲れるよな。
やがて電車は徐々に減速していき、完全に停車するとドアが開いた。
乗客がそこまで多くなったわけではないが、少しだけ圧迫感を感じるぐらいには、車内が混み始める。
すると、視界の少し先の方に金色の頭が特徴的な、女性が結構なテンションで会話をしており、その制服から隣町の女子高校生だということがわかった。
まぁ、見た目や話し方から、確実にギャルなのだろう。
二人の女子高生の会話は、妙に車内に響いていた。
「あはは、あの子達元気いいね」
「まぁ良すぎるっていうか、別に法律的に悪いわけではないですけど……なんていうか」
休日なのに、スーツを着て仕事に行った人や、近くに子供を寝かしつけたお母さんがいるのに、周りのことを全く考えてないような二人に腹が立った。
俺は警察でもないし、裁ける立場にないことも重々承知だが、あれはモラルが足りないと思う。
だけど何よりも、何もいえない自分に少しだけ悔しさを覚えた。
「ま、まぁ今が一番楽しい時期だからね。私にもあったなぁ〜そういう時期〜、懐かしいなぁ〜」
「文乃さん……」
と、彼女に顔を向けたその時だった。
「てか、新しく転校してきたあいつ、やばくない?」
「わかるぅー! いっつも忘れ物するし、体育祭のために作った看板壊しちゃうし!」
「あはは! マジそれ! ほんっと」
「「鈍臭いよね!」」
そんな声が車内に響いた瞬間、柔らかい笑顔を浮かべていた文乃さんから、表情が消えた。
目を大きく見開き、口が閉じ切らないまま、ゆっくりと女子高生たちの方へと顔を向ける。
そんな彼女に、俺は小首を傾げると。突然、
「……ごめんなさい」
と、文乃さんが小さく呟いたのだ。
女子高生の会話的に、決して、文乃さんにその言葉を向けたわけではないのだろう。
ならなぜ……。
「文乃さん?」
声をかけるが、彼女は反応しない。
だから、彼女の肩に優しく触れ、顔を覗き込む。
その瞬間、俺は思わず、「え?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
その目元は前髪に隠れてよく見えなかったが、確実に彼女の顎を伝って、滴が落ちるのが見えた。
どういう訳か分からないが、彼女は泣いていのだ。
それを理解した瞬間、脳裏にパッと浮かんできたのは、今朝の文乃さん。
俺の手を優しく握った、彼女の表情と、手の温もりだった。
「文乃さん、ごめん」
反射的に俺の体は動いた。
文乃さんの後頭部と、彼女の腰に手を回すと、優しく自分の方へと引き寄せる。
すると、俺の顔の横から、「え……」という華奢な声と、少し遅れて袋が床に落ちる音が聞こえた。
彼女の、シャンプーの匂いと、柔らかい体温を感じながら、華奢な体に力を入れていく。
「……湊、くん?」
「……上手いことは言えないですけど、何か嫌なものを見たなら、目を瞑ってください。何か嫌なものが聞こえたなら……今だけは俺の心臓の音でも聞いててください」
そう言うと、彼女の息遣いが聞こえて、胸の圧迫感が増すのを感じる。
彼女の後頭部を優しく撫でる。サラサラな感触の感じながら、俺は言った。
「大丈夫。今は、俺がいるから」
顔は見えなかった。だけど声を押し殺しながら、小さく頷き、俺の胸に顔を埋めた文乃さんは、きっと泣いていたと思う。
文乃さんは、俺の服をギュッと掴むと、
「ごめん……ごめんね、湊くん……」
そう、消えてしまいそうな声を絞り出す。
時々嗚咽を漏らし、ひゃっくりで震える背中に「大丈夫」と、優しく彼女の背中をさすった。
初めて見る、彼女の芯の部分から弱ってる顔に、なんだか胸が痛くなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます