第15話 そのままのキミで。
「おはよ、湊くん♪」
約束の土曜日、午前10時。
玄関のドアを開けると、そこには既に文乃さんが立っていた。
俺も挨拶を返すと、彼女は嬉しそうに頷く。
白のブラウスと、ブラウンのロングスカートが風をはらみ、ふわりと膨らむ。
んっ。と小さく声を漏らして、長い黒髪を抑える文乃さんに、思わず息を飲み込んだ。
このペースで心臓を波打たせていたら、きっと寿命も縮まってしまうかもしれない。
それほどまでに、目の前に立つ大人の女性は魅力的で、
「……えへへ、今日なんか、風強いねぇ〜」
そして、こうやって時々見せる柔らかいギャップに、情緒が揺さぶられるのだ。
俺は頬の熱を誤魔化すように息を吐き、もう一度彼女を見る。
ぱちぱちと、大きな瞳の上を上下した長いまつ毛。さらりと揺れる前髪。
白い首を装飾する、細い銀のネックレスが日光を反射した。
「まぁ、季節の変わり目ですからね。ちなみに文乃さん、忘れ物ないですか? ティッシュ、ハンカチ持ちました? あと、部屋の鍵締めましたか?」
すると文乃さんの白い頬がぷくぅーっ! と膨らみ、んー! と喉の奥を鳴らす。
さながら小動物の威嚇みたいなその表情は、シンプルに可愛いものだった。
「もぉー! 湊くん! 私、そこまで子供じゃないよぉ!」
「あはは、すみません。なんか、いつもの文乃さんなら、2、3つぐらい忘れ物してるかなって」
「え、待って。湊くんから私って、そう見えてるの?」
「まぁ……、取りあえず行きましょう」
俺は煮え切らない返事を返し、先に歩き出す。
その後、「ね、私って、もしかしてポンコツなの?」と必要以上に気にしながら、俺の後に続く文乃さんであった。
ひとたび人目につくところに出てしまえば、文乃さんは完璧で綺麗なお姉さんへと変貌する。
彼女の自信に満ち溢れた大きな瞳や、ピンと伸びた背筋。
髪の毛と同じように揺れる、ブラウスやロングスカートの裾。
彼女の白いスニーカーの踵の音でさえも、『篠崎文乃』を最大限装飾する鎧になっていく。
すれ違う人の中には、パッと見て可愛い女の人や、同性であっても、この人イケメンだなぁ。って思う人もいる。
しかし、その中に文乃さんを混ぜてみても、存在感は頭ひとつ分ぐらい飛び抜けているように感じた。
いや、実際に飛び抜けていたのだろう。その証拠に、駅のホームや信号待ちしている時に、周りからの視線を感じた。
ここまで視線が集まると、俺のことじゃないと分かっていながらも、やはり歩きにくい……。
信号で足を止めると、俺は小さく息を吐いた。
「湊くん?」
「……あ、はい。なんですか?」
ふと、文乃さんの声の聞こえてきて、そちらへ顔を向ける。彼女は心配そうな表情を浮かべて言った。
「大丈夫? 顔色悪いけど……あ、もしかして」
「あ、すみません。なんでも」
「お腹減っちゃった?」
「なんでだよ」
思わずツッコミを入れた。なんで数ある心配の中からそれを選んだんだよ。
つーか、その自信満々で答えたら、え違ったの? みたいな顔はなんなんだよ。
あと、まだ朝飯食ってから一時間しか経ってねぇんだよ。減るか腹なんて。
「ごめん、違った?」と、眉を寄せる文乃さん。
俺は、はぁ、とため息を吐く。そして一拍置いてから、ふふっと鼻を鳴らす。
「いや。やっぱり文乃さんだなって」
ん? と不思議そうな顔を浮かべて小首を傾げる文乃さん。
どれだけ外面を偽装しても中身は変わらない。
それがなんだか、どこかの幼馴染と似てる気がして、少しだけ安心したような気がした。
「なんでもないです。さ、行きましょ。信号変わりますよ」
顔を前に向けて足を一歩踏み出す。
その瞬間だった。
「ね、あの人めっちゃ可愛くね?」
「分かるわぁ〜。ってことは隣の人は彼氏さん?」
「いや、そんなわけないだろ、だって……」
—— どう見たって、釣り合ってねえだろ。
そんな言葉に、俺の足は止まった。
「ん、湊くん?」
あぁ、そうだ。俺たちは釣り合っていない。
文乃さんは誰もが目を向けるような美人で、片や俺は、教室の隅で一人飯をしているような、準陰キャラ。
そんな二人が並んだ時に、釣り合ってないと言われるのは、当たり前なのだろう。
「湊くん? 信号変わっちゃうよ?」
そこで一番致命的なのは俺だ。
美人なお姉さんに頼られて、調子に乗って。
心のどこかで、彼女と釣り合ってると、無意識に思ってしまった。
そんな勘違いが、どこかの誰かが放った言葉によって、剥がされる。
それはまるで、心地のいい夢から覚めるような、
そんな感覚とよく似てる気がした。
次第にツーンと鼻頭を小突かれたような感覚が走り始める。
このまま、彼女の横を歩いても良いのだろうか。それが彼女を下げる行為になってしまうのだろうか。
それなら、もう、俺は……。
その瞬間だった。
「湊くん、こっち」
突如腕を引っ張られたと思えば、俺の少し先で文乃さんの髪の毛が、ハラハラと揺れる。
普段、華奢な印象を持っていたその背中は、なんだか妙に力強く見えた。
しばらく腕を掴まれたまま文乃さんの後ろを歩き、近場の公園に入る。
木陰のベンチの前で足を止めると、腕を離し、文乃さんがこちらに体を向けた。
「とりあえず、ちょっと休憩しよっか」
ね? と彼女に促され、ゆっくりと腰を下ろす。固い木の感覚と文乃さんが隣に座った振動を感じると、俺は息を漏らす。
「すみません、文乃さん」
「なんで謝るの?」
「いや、だって……」
あそこで聞いてないふりをして、平然を装うことだってできた。
でも、俺の足は止まった。
止まったのだ、自分の感情によって。
でも、それをそのまま伝えたら、なんだか文乃さんに悪い気がして。
何も言えないまま、アスファルトの蟻に目を向ける。
自分よりも遥かに小さい蟻なんかよりも、俺の方がよっぽど惨めで小さく見えた。
言葉を探して奥歯を噛む。
するとその瞬間、俺の右手に温もりを感じた。
はっと息を呑み、そちらに目を向ける。
俺の右手に重なる文乃さんの手は、白くて華奢で。
でも、映画やラノベみたいに、サラサラじゃなくて、ちょっとだけ汗ばんでいた。
文乃さんの方へと顔を向ける、すると彼女はふふっと鼻を鳴らし、ゆっくりと唇を動かした。
「ね、湊くん。手のひら上にしてみて」
「え……こうですか?」
「うん。そしたらね」
そう言って、俺の指の間を彼女の指が這っていく。それは世間一般的に言われる、『恋人繋ぎ』と言うやつだった。
理解した瞬間、今まで彼女に感じたどの跳ね方とも違う鼓動に、我ながら驚く。
「え、ちょっ、文乃さん?」
一方文乃さんは、余裕の表情を崩すことなく俺に言った。
「湊くん。今日は私の彼氏役ね?」
彼女の言葉に、一瞬フリーズして、すぐに声が出てくる。
「え、いや、それはなんて言うか……色々と釣り合ってないっていうか」
だが、
「釣り合わないじゃなくて、私がそうして欲しいの」
俺の言葉を遮るように文乃さんは言った。
大きくて純粋な瞳が、力強い視線に変わる。
「周りから見てどうじゃなくて、私が湊くんとこうしたい。釣り合ってる釣り合ってないじゃなくて、今日は湊くんと一緒にいたい……」
そこで一息ついて、彼女はふふっと鼻を鳴らす。
「だから、今日は私だけを見て。私は、そのままの湊くんが、一番好きだから」
彼女のまっすぐな瞳と、キリッとした言葉がに、胸のモヤモヤが消えていく。
文乃さんは、おっとりしてて、おっちょこちょいで、すぐ泣いて。
でも、時々こうやってかっこよくなる。
あぁ、卑怯だ。こんなにいいものを持っておいて、それよりも遥かに劣る俺なんかを、こうして絆していく。
持たざる者にしか分からない心の棘を、溶かしていく。
本当に、文乃さんは卑怯な人だ。
「……ほんと、それで勘違いしたらどうするんですか」
小さく呟いて、俺は彼女の指の間に指を這わせる。
そうやって完成した恋人繋ぎを見て、文乃さんはふふっと鼻を鳴らした。
「今日だけは勘違いしてもいいんじゃない?」
「はいはい、今日だけはですよ」
そう二人で言い合って、小さく笑い合う。
「それじゃ行こうか、湊くん」
「はい、文乃さん」
ベンチを立ち、木陰から出る。
刹那、風が吹いて感じた彼女の匂いが、なんだか心地よかった。
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