第11話 ガラスの仮面
「すみません、お待たせしました」
昼休み。俺の声が響いたのは、別館の3階。
彼女に指定された、音楽準備室だった。
引き戸を開けると、刹那、ふわりと甘い匂いが頬を掠める。
俺の視界の先で、長い黒髪が背中で小さく揺れると、
「あら、いらっしゃい♪」
半身で振り向いた文乃さんは余裕のある笑みを浮かべた。
窓から差し込んだ光が彼女の髪の毛を照らして、妙に神秘的に目に映る。
思わず、今朝の寝癖だらけの文乃さんを重ねて、少しだけ心臓を弾ませた。
慣れないんだよなぁ、この人のギャップ。
窓際の席に座る彼女に手招きをされて、俺は向かい側に腰掛ける。
今日、なんか暑いね。と小さく手で煽った文乃さんの、白い首を汗が筋を引いていく。
その汗が白色のブラウスに、肌色を浮かび上がらせたのを見て、俺は視線を上げた。
「あの、今日はすみません」
「ふふっ。気にしないで、放課後は学生の自由時間だもの」
「そう言ってくれると嬉しいです。あと、今のうちに渡しておきますね、文乃さ」
するとその瞬間、言葉を遮るように彼女の人差し指が俺の唇に触れる。前のめりになった彼女から、ムスクのような甘い匂いがして、思わず息を呑む。
大きな瞳の上を行き来する長いまつ毛と、やんわりと持ち上がった唇の端。
すん、と鼻を鳴らすと、
「し、の、ざ、き、先生、ね? 湊くん♪」
そう、家で見せるやんわりとした笑顔と、かっこいい彼女の微笑みを混ぜたような表情を浮かべた。
刹那、変な跳ね方を覚えた心臓。熱を帯びる頬。
彼女の瞳から、そっと視線を外しては、
あぁ、卑怯だ。そういうの。
なんて、心の中で呟いた。
「……文ちゃん先生だって、俺のこと湊くんって、呼んでるじゃないですか」
「あら、ふふふっ♪ 私はいいのよ、だって先生だもん」
「いや、でも……あぁ、大人って本当にずるい」
本当、文乃さんはずるい。
その後、一緒に昼食を食べて、部屋の鍵を彼女に渡した。
やっぱり、部屋での文乃さんとは全然違う雰囲気を醸し出しており、その印象はしっかりと芯のあるお姉さんって感じがする。
綺麗に伸びたままの背筋も、唇の端を持ち上げたままの表情も、やはり別人なのでは? なんて思うタイミングはあるが、ふとした時に、一緒に髪の毛を食べてしまったり、タコさんウインナーを落として泣きそうになったりと、文乃さんが見え隠れする事があって、なんか安心した。
今は俺と文乃さんの一対一の環境だから、文ちゃん先生時々、文乃さんみたいな感じかもしれないが、昼食を終え、音楽準備室から一歩でも外に踏み出すと、彼女から文乃さんが消える。
「それじゃ、またね。湊くん♪」
そう、小さく手を振って踵を返す。
彼女の余裕のある横顔が、少し遅れて、さらりと揺れた髪の毛によって隠されていくのを、俺はただ眺めていた。
ふと、彼女に対して思う事がある。
なんで文乃さんは、そんなにもカッコイイ自分を演じているのだろう。
別に、学校での文乃さんが嫌いなわけではない。むしろ、部屋での彼女とのギャップがあって、それはそれでいいとは思う。
だが、どうしても気になってしまう。
「文乃さんは文乃さんのままでも、みんなから好かれそうなのに」
彼女の背中で揺れる、黒い髪の毛を眺めながら。そっと独り言を呟くのであった。
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