第9話 稚魚と痴女。
「それじゃ、また明日」
「おう、気をつけて」
放課後、帰路についてから約30分。
T時に分かれた道で足を止め、お互いに声をかける。莉奈はふふっと鼻を鳴らした。
「まぁ、お互いにここから家、見えてるんだけどね」
「今の世の中分からんだろ、もしかしたら俺の見える範疇で莉奈が攫われることだってある」
「そんなことないと思うけど、でもまぁ……」
莉奈は、ふふっと、心地良さそうに鼻を鳴らし、
「その時は、湊が助けてくれるんでしょ? いつもみたいに」
そう言葉を続けて、柔らかい笑みを見せる。「それじゃ、またね」と小さく手を振り、白いイヤフォンをつけた彼女を見送った。
莉奈の華奢な背中が、玄関に消えるのを確認して、俺も反対方向へ歩き出す。
「いつもみたいに……かぁ」
ため息をついて、半開きのカバンに目を向ける。
有線のイヤフォンも、俺がずっと持ち歩いているこれも、きっとお互いに時間が止まったままなのかもしれない。
そして、そんな関係の二人を、共依存とでも呼ぶのだろうか。
カバンの中に街灯が差し込む。刹那、手作りの『うさぎさん人形』の目がやけに憂いげに映った気がした。
玄関の鍵を開けると、ドアノブを下げる。
開け放ったドアからは嗅ぎ慣れた芳香剤の匂いがして、なんだか安心した。
『おかえり』がない事を知りながも、呟いた「ただいま」。
リビングに荷物を置くと、俺は早速キッチンへと立った。
今日も、文乃さんは疲れて帰ってくるだろう。ならせめて、何か温かいものだけでも作ってあげたい。
そんな事を考えながら、具材の上を滑らせた包丁は、なんだかいつもよりも心地がよかった。
それがなんでかは分からなかったが、少なくとも、自分のために作っていた時にはなかった感覚だと思う。
文乃さんはどんな味が好きなんだろう、味噌汁は出汁が強い方がいいのか、それとも、味噌が濃い方がいいのか。
ネギの切り方一つでさえも、ずっと文乃さんのことばかり考えていた気がした。
一通り、夕飯を作り終え、時刻は17時半。まだ文乃さんが帰ってくる気配はなかったため、先にシャワーを浴びることにした。
いつも使っているシャンプーも、昨日文乃さんからした匂いと同じと考えるだけで、なぜか心臓が速くなる。
あぁ、だめだ。風呂にいると変に意識してしまう。
サッと頭と体を洗って、浴室を出ることに。
脱衣所で着替え、髪を乾かすと、再びリビングへと戻った。
「ん、文乃さんからだ」
テーブルに置かれたスマートフォンに目を向けると、『ふみのん』という名前でメッセージが送付されており、犬のアイコンをタップする。
内容は、自分の着替えを買ってくるから、少し遅れるとのこと。
昨晩のことを思い出し、ため息を吐いて『了解です』と返信を送った。
そして同時に、今日は昨晩と同じ事が起こらなければいいな。とも思った。
「ただいま〜、湊くん」
玄関が開く音と共に、今日も荒波に揉まれたような声が聞こえた。案の定、リビングから顔を出すと、そこにいたのは綺麗でかっこいい文乃先生ではなく、ポンコツでゆるゆるな文乃さんだった。
靴を脱ぎ廊下へ上がると、文乃さんがにへらと微笑む。
「ごめんねぇ〜、遅くなっちゃって。お腹空いたよね?」
「いえ、文乃さんこそお疲れ様です。あ、夕飯はできてますよ」
「うん、ありがとー、湊くん」
彼女が両手で持つ袋の片方を持ち、リビングへと案内する。
ソファーの横に袋を置くと、料理を温め直して、二人で食卓を囲った。
文乃さんがオムライスをスプーンで削り、口に運ぶ。
「うん! 美味しい! 湊くんすごい!」
「あはは、ありがとうございます。でもなんか考え事してたら、チキンライス味濃くなっちゃって、ちなみに味は薄い方が好きですか?」
「ううん。私は濃い方が好きかなぁ」
濃いめ多め硬め! と続けておちゃらけた文乃さんに、それは一定のラーメン屋だけです。とツッコミを入れて、二人で笑う。
「てか、文乃さん、その髪の毛にくっついてるの何ですか?」
「え、何かついてるの?」
「はい、なんか、黄色い棒状の……」
と、テーブルに手をつき、前のめりになる。
彼女の頭に手を伸ばし、指先でそれを摘んだ。
「……芋けんぴ、ですね」
「芋けんぴだね……」
……。
「わ、私ね。趣味で芋けんぴ活けてるんだぁー」
「いや、無理しかねえだろ」
早速、彼女の本領が発揮され始めて、思わずため息を吐く。日常生活で何をどうやったら、芋けんぴを髪の毛に付けて帰ってくるのだろう。
だが、何が怖いかって、文乃さんならありえるか。と半分ぐらいそれで納得してしまっている自分が怖かった。
すると文乃さんは、そういうこともあるよね。と小さく頷き、再びオムライスを食べ始める。
大きく口に頬張り、膨れ上がった白い頬を眺めては、なんかリスみたいで可愛い、なんて思う俺だった。
その後、夕飯を食べ終えた文乃さんは、シャワーを浴びに浴室へ入った。
その間に洗い物を済ませようと、スポンジで泡を立てる。
俺が作った料理は、想像していたよりも彼女の口に合っていたらしく、自称、炊事当番に任命された。まぁ、きっと、彼女なりに喜んでくれたと見てもいいのだろう。
テレビから流れる芸能人の歌と、かすかに聞こえる、華奢な鼻歌。
いつもやっているはずの皿洗い一つにしろ、文乃さんがそこにいるだけで、楽しくなってしまうのはなぜなのだろう。
そんなことを考えて作業をしていると、しばらくしてリビングのドアが開いた。
「う〜んっ! さっぱりしたぁ〜!」
そんな風に腕を伸ばして、ふにゃふにゃな声を上げる文乃さん。
しかし、彼女の服装は、昨日と同じぶかぶかなスウェット姿だった。
思わず文乃さんに聞く。
「あれ、文乃さん。着替え買ってきたんじゃないんですか?」
すると、きょとんとした顔で、小首を傾げる。何か解釈違いでも起こしたのだろうか? でも、文乃さんは着替えを買うから遅れると言っていたはず。
すると、彼女の中で何かが繋がったのだろう。「あー、そうだよね」と、鼻を鳴らし、口を開く。
「ごめんね、下着だけなんだ」
「え、下着だけなんですか? あの袋の中身も全部?」
俺がパンパンに膨らんだ袋を指差し聞くと、彼女は恥ずかしそうに頷く。
袋の大きさから、どう見たって5日分ぐらいの量はあるだろう。そもそも、明後日には自分の部屋の鍵が直るというのに、なんでそんなに買ってきてしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、ふと、文乃さんが口を開く。
「えぇーっとね、下着のお店に行って、店員さんと仲良くなって。それで、訳あって男性の人とホームシェアしてるって言ったら、店員さん、盛り上がっちゃって……」
彼女の言葉に、へぇー、と生返事で返す。男性と同棲してるって話題だけで、そんなに下着を買ってくるほど、盛り上がるものなのだろうか?
何にせよ、やっぱり女性はよく分からない。
「それに、下着なら何枚あっても損しないでしょ! ほら、地震が来て洗濯できなくても、これだけあれば安心だよ!」
「まぁ、確かにそうですけど」
納得したような、してないような。煮え切らない返事を返して、袋の方へと目を向ける。
まぁ確かに、下着なら自分の住む部屋に戻っても使えるだろうし、あと2日しかいないのに、わざわざ服を買う方がもったいないか。
そう、自分の中で完結して、そのあとは二人でテレビを見たりして過ごした。
……。
そして、事件は就寝してから約一時間後。日付が変わる瀬戸際で起こった。
今日もソファーで寝ていた俺は昨晩同様、寝室のドアが開く音で意識が浮上した。
昨日はここで、下着姿の彼女がリビングを徘徊するという、怪奇現象に驚いた。てか、びっくりしない方がおかしい。薄暗い部屋の中、真っ白なおっぱいが徘徊していたのだ。
もう感覚としては一種の悪夢に等しい。
そのあと彼女は、寝てる時に服を脱ぐ癖があるという話を聞き、今日も同じ事が起きるのでは? とそわそわしていた。
だが、今日のはちょっとだけ違った。
「みなと……くん……」
半分ほど夢の中にいそうな、細い声がして、俺の肩を揺らす。
ゆっくりと目を開けると、やはり今日も彼女は下着姿になっていた。顔のすぐ近くに、やんわりとした暖かさを感じて、どきりとする。
「どうしたんですか、文乃さん」
「……トイレ」
あぁ、完璧に寝ぼけてる。
俺はゆっくりとソファーから起き上がり、彼女の腕を掴むと、トイレまで案内する。
「足、気をつけてくださいね」
「……うん」
トイレの前まで到着し、彼女がドアノブを下げる。
……。
その瞬間だった。
「……は?」
トイレの感応式の明かりがパッとついたのと同時に、俺の口からそんな声が漏れた。
いやいや、待て待て……そんな事あり得んだろ……。
俺も寝ぼけているのだろうか。今一度、目を擦り彼女の姿を確認する。
そして……。
「なっ! なんじゃそりゃぁぁぁーっ!」
思わず、そう叫んでしまった。
文乃さんも、寝ぼけた口調で口を開く。
「どうしたの湊くん? 文乃だよぉ〜。ふーみのんのん……」
「あんたはいつまで寝ぼけてんですか! いや、それじゃまるで痴女じゃないですか!」
「……稚魚?」
「ちぃ! じょ! あぁ〜もう!」
そう言いながら、今一度彼女の全身に目を向ける。
白くて程よい肉付きの太ももと、くびれた腰を妖艶に装飾する黒色の際どいパンツ?
その胸の大きさに対して、明らかに布面積が小さすぎる、黒色のブラジャー。
男性であれば本能的に手が伸びてしまうような体に、さらに色気で装飾するようなデザインのそれは、もう、なんていうか。大人の下着だった。
ていうか、なんだ? 大人っぽくいうと、ランジェリーなのかそれ?
初めて見たそれに、好奇心半分、理性というブレーキがかかる。同人誌やAVでしか見たことのないそれに、俺は口をパクパクしていると、
「ん〜。これね〜。店員さんが、男の人は、こういうの喜ぶ……って……っ!」
あ、目が覚めた。てか、今?
急に目を見開くと、彼女はトイレのドアを勢いよく閉める。
ドア越しに、か細い声で、
「ごめん、湊くん……脱いだやつ、持ってきてもらってもいいかな……」
と、文乃さんは声を絞り出す。ドア越しに赤面している彼女を思い浮かべて、俺まで恥ずかしくなった。
その後、緊急下着会議を開催したのは、いうまでもない。
あと2日。文乃さんではなく、俺の理性が保てるかどうかが、心配だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます