第6話 帰れないお隣さん。

「少しは落ち着きました?」


 テーブルを挟み、ティッシュで盛大に鼻をかんだ文乃さん。うん。と鼻声まじりに喉を鳴らすと、小さく頷く。


「うん、じょっとおぢづいた」


「声ガラガラじゃないですか……はぁ、とりあえず、これでも口に入れといてください」


「わだし、のど飴、好きくない」


子供ガキか」


 ブドウ味の飴に首をブンブンと振る彼女に、再びため息を吐く俺。


 確かハーブティって、喉枯れた時に効くはずだよな。


 なにかのテレビで聞き齧った程度の知識だが、まぁ何もないよりはマシかもしれない。


 ちょっと待っててください。と席を立ちキッチンへ向かう。偶然というか、母親が趣味で買ってきた、紅茶の福袋の中にハーブテーがあったため、少しだけ拝借した。


 茶葉を入れたティープレスにお湯を注いで約3分。澄んだ夕焼け色になったお湯を、カップに注ぐ。


 それで初めて知ったのだが、ハーブティって名前でも、決してミントの匂いがするわけではないらしい。白いカップからは、なんだかリンゴのような甘い香りが立ち上っていた。


「とりあえず、どうぞ」


「……ありがど」


 カップを彼女の前に置くと、文乃さんはティーカップの持ち手の部分をつまみ。口元に持っていく。


 妙に一つ一つ様になっている動作に思わず見惚れた。彼女の桜色の唇がカップの淵を挟む。白によく映える唇だなぁ、なんて思っていると、


「……あちっ!」


 視線の先で文乃さんがカップから口を離した。なんでこうも、かっこいいとポンコツの間を瞬間移動できるのだろうか。


 文乃さんは両手でカップを持つと、フーフーして、やっとカップを傾ける。


「……うん。いい香り……あ、喉治った」


「そんなバカな」


 彼女は細胞の一つにすらも、ギャグ漫画補正がかかっているのだろうか。本調子に戻ったことが嬉しそうに、彼女は鼻歌を歌い始めた。


 まぁ、そろそろ頃合いだろう。俺は小さく咳払いをすると前髪を左右に揺らす文乃さんに聞いた。


「ところで、さっきはどうしたんですか?」


「ふんふん♪ ん? あっ……」


 すると、彼女の様子が一変。パッと花でも咲きそうな表情が一気に枯れた。


 再び虚無った視線を紅茶に落とす。


「その……今日はごめんなさい」


 文乃さんの、いきなりの謝罪に思わず「え?」と俺は声を漏らした。


「文乃さん、今日俺に何かしましたっけ?」


 まぁ確かに、今朝のあれはびっくりしたが……。


 てか、あれがまだ今日の出来事なんだな……。


 すると、文乃さんは、口をモゴモゴとさせて「その……」と口を開く。


「廊下でぶつかっちゃったり、それで、前方注意ね♪ なんて調子のいいこと言っちゃったり、あとは……、先生ぶって、「なんでもお姉さんに任せなさい♪」みたいなこと言っちゃったり……あぁ、あはは……」


 少しずつ声が小さくなり、やがて文乃さんはテーブルに突っ伏してしまう。


 別に俺は、文乃さんの言ったことは一切気にしていない。てか、別に彼女が言ったことになんの憤りも感じていないのだ。


 だが、どういうわけか文乃さんは、俺がそう思っている、と勘違いをしているのだろう。なら誤解を解いてあげなくては……。


「あの、文乃さん。俺べつに」


 と。次の瞬間。


「ふふ……ふふっふふ……あっはははっ!」


 いきなり笑い始め、顔をばっと持ち上げた。目尻にうっすらと涙を浮かべながら、言葉を続けていく。


「泥酔して人の家で寝てた女が、「私を頼ってね♪(高音)」ってアホかぁーい!」


「——っ!? ……文乃さん?」


「そもそも、前方注意ってなんじゃい! 私が天井の黒い点を数えてたからぶつかったんじゃろが〜い! あっははは!」


「え、文乃さん酔ってんの? て言うか、一旦落ち着いて!」


 すると、急に静かになった文乃さん。まるで急ブレーキのような表情の変化に、思わずヒヤリとした。


 彼女は窓の外に顔を向けると、虚無った瞳で続ける。


「……来世はゾウリムシがいいなぁ」


「な、何しようとしてるの文乃さん!?」


 せめてもっとマシな来世を選んでくださいよ……。とテーブルに視線を落とした文乃さんにため息を吐く。


 なんか、どっと疲れた……。


「あの、とりあえず今日のこと、なんも気にしてないんで大丈夫ですよ」


「そ、そうですよね、私の声なんて聞きたくないですよね……あはは」


 こいつ、めんどくせぇー!


「いや、そう言うわけじゃなくて、なんて言うか、ずっと文乃さんに驚かされていたっていうか……」


 俺の言葉にゆっくりと顔を上げる文乃さん。彼女の純粋そうな瞳が俺を捉えた。


「私、驚くようなことしてた?」


 そんな言葉に、いつだったか、女子に告白した時の恥ずかしさが、ブワッと溢れてくる。


 俺は思わず視線を外しながら、口を開いた。


 あぁ、もう。本当にこの人は……。


「……うまく言えないけど文乃さん、すごくかっこよかったていうか、大人ぽかったっていうか……」


 すると、それって……と、文乃さんが息を呑む。


「……でも私、とっくに成人してるよ?」


「そう言うことじゃないのよ」


 早いテンポで鳴っていた俺の心臓が、ため息をついたことによって、スピードが緩くなる。


 一周回ってリラックスできたのでまぁいいだろう。


 今一度、咳払いして彼女に視線を合わせた。


「はぁ、もういいや。学校での文乃さんが別人すぎて、ずっと気になってたんですよ」


「え……み、湊くん……そんなストレートな……」


 少女漫画のヒロインか。なんでそう言うところは敏感なんだよ……。


 ……でも、なんか可愛いな。


「まぁ、何はともあれ、文乃さんに対して一切マイナスな事は思ってないので、安心してください」


「本当に? ぶつかった事、怒ってない?」


「怒ってないです」


「調子に乗ってたことも怒ってない?」


「はい、怒ってないです」


「……はぁ〜! よかったぁ〜! それじゃあ、実は湊くんが提出したノートにコーヒーこぼしちゃったのもノーカンだね!」


「はい、おこ……は、なんて?」


 今、確実に聞き捨てならないセリフを聞いたような気がしたが、まぁ、文乃さんが元気になったのであれば、いいだろう。


 目の涙を指で掬う文乃さんに俺は言った。


「まぁ誤解も溶けたようですし、もう少しゆっくりして行ってください」


 俺はシャワー浴びてきますね。と席を立った。


 そして、ドアノブを握った瞬間。


「あ、あの湊くん!」


 彼女の上擦った声に、俺は振り返る。


 これ以上、一体彼女から何が出てくるのだろう。


「なんですk……は?」


 刹那、俺は彼女が握るそれを見て、素っ頓狂な声をあげた。





「……なるほど、つまり、部屋のドアを開けようと鍵を差し込んだら、鍵が回らなくて、ドラマみたいにヘアピン差し込んだら、鍵が抜けなくなって。ヤケクソで無理やり回したら。真っ二つになったと……」


 ……。


「お言葉ですが文乃さん。もしかして、『アホ』か『バカ』であられますか?」


「てへっ♪」


「てへっ♪ じゃねーよ! なに借家の鍵ぶっ壊してヘラヘラしてんだよ!」


 俺の中に溜めていたものを全て吐き出すようにして言うと、酸欠のせいか頭がクラクラした。今日はもう、ツッコミのキャパシティをオーバーしたらしい。


 テーブルの真ん中に置かれた、鍵の持ち手から、哀愁が漂う。


「……あぁ、もう疲れた。それで、管理人さんには連絡したんですか?」


「うん。だけどね……3日だって」


「何が3日なんですか?」


「ドアの修理が完了するまでと、スペアの鍵ができるまで」


 あぁ、せめてヘアピンを差し込まなかったか、無理やり回さなければそんなことにならなかったのに……。


 すると、文乃さんは華奢なため息を吐き出す。


「3日間どうしよう……」


「ビジホとか、近くにないんですか?」


「一応調べてはいるんだけど、この近くになくて……」


 そう言われて、俺も近くのビジネスホテルを検索してみたが、確かに学校に一時間以内に通えそうな範囲にビジネスホテルはなかった。


 しばらくすると、「もう、漫画喫茶しかないかな……」と、呟く文乃さん。


「いや、女性一人で満喫に泊まるのは危ないですよ」


「でも、それ以外方法が……」


 彼女はそう呟き、再び折れた鍵に視線を向ける。


 べつに、自分で鍵をぶっ壊したのは文乃さんだし、正直お隣さんになったのも、昨日の話だ。


 しかも、初対面は今日の朝、いわば、ほぼ赤の他人。


 だけど、


「なら、ここにいればいいじゃないですか」


 俺は呼吸をするように言葉を口にしていた。


 驚きに目を丸くする彼女に続ける。


「満喫に女性が一人で、3日も泊まるのは危ないし、それでもし何かあった時、お隣さんが何もしなかったっていうのも嫌じゃないですか」


 だから……。


 と続けようとした瞬間。次に目を丸くしたのは俺の方だった。


 なぜなら、彼女の瞳からお大粒の涙が溢れたのだ。


 ぐすっと鼻を啜り、文乃さんは口を開く。


「ありがと……ポンコツでごめんね……」


「あぁ、もう泣かないでくださいよ」


 俺は彼女にそういうと、ティッシュの箱ごと彼女に渡した。


 女性一人で危ない、とか、文乃さんに何かあった時、俺のせいにされたくないとか。本当はそんなもの全部建前で、俺は単純に彼女を放って置けなかったのかもしれない。


 正直、損得勘定で動きがちな俺は、自分に得がないと思うことには絶対に手を伸ばさないと決めている。


 だけど……。


「ありがと……湊くん」


 そう言って文乃さんは、目元をぐりぐりと擦ると、にへらと緊張感のない笑みを向けた。


 だけど、こんなふうに感謝されるのも、悪くないなって。そう思った。

 

 


 





 


 


 

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