第1話 文乃さん。

「……本当に申し訳ございませんでしたぁ」


 それから約五分後、ここが自分の部屋でないことに気がついたのだろう。お姉さんは俺のベッドから飛び降りると、そのまま床に額を擦り付けた。


 薄い桃色のブラジャーが白い背中をやけに装飾する。


「いや、まぁ、怒ってないって言ったら嘘になりますけど、とりあえず落ち着いてください」


「無理です、落ち着けません……部屋を間違えた上に、こんな醜態を……」


 そう言って、お姉さんはさらに頭をぐりぐりと擦り付ける。


 まぁ確かに、知らない人に自分の下着姿を見られるのも、なかなか恥ずかしいことではあるが、今はそれどころじゃない。


 俺だって、思春期真っ只中の男子だ。そりゃ可愛いお姉さんの下着姿を見てなんとも思わないわけがない。だからお姉さんの醜態云々の前に、まずは服を着て欲しい。


 部屋の中央に脱ぎ捨てられた、白いシャツと黒いスカートから目を離すと俺はため息を吐き、再びお姉さんに目を向けた。


「とりあえず寒いですし、まずは服、着たほうが良いですよ」


「……確かにこんな見苦しい体、見ている方が苦痛ですよね。すみません、不快な思いをさせてしまって、わかりました、すぐに着ます……」


 こいつめんどくせぇー! 内心そんなことを思っていると、お姉さんはゆっくりと顔を上げ、脱ぎ捨てたものを手に取る。やはりというか、その整った顔立ちからは、女性らしい華奢な体つきをしていた。


 着替え終わると、どこか虚無っている瞳を再びこちらへ向ける。


「その、本当にごめんなさい。昨日、隣に引っ越してきて、近くの居酒屋でだいぶ酔って……」


「あぁ、そうですか……」


 徐々に語尾が小さくなっていくお姉さん。まぁそのあとは言われなくても分かった。


 まぁ、確かに昨日隣の部屋が騒がしかったような気がしたし、それが引越しの荷物整理と言われれば腑に落ちる。だが、その後に居酒屋で飲んで、挙句隣人のベッドで目を覚ますなんて、なかなかそうはならないと思う。


 言うなれば、転校初日の自己紹介でやらかすようなものだ。これはなかなかダメージがでかい。


 俺は、なるほど……と相槌を打った。納得はしてないが、理解はできた。


 まぁでも、いくら近場の居酒屋とはいえ、よく泥酔した状態でマンションまで辿り着けたものだ。そこは本当にすごいと思う。


 ふとそんなことを考えていると、突如グゥーっという大きな音が部屋に鳴り響いた。きっとこんなお腹の音、学校のテストの時になったら間違いなく次の休み時間いじられてしまうだろう。


 そんな音が目の前の美人なお姉さんから聞こえたのだ。


 もうこんなの笑うしかない。いや、笑わない方が失礼まである。


 だが、その時だった。


「……っ! ……うぅ……うえぇ……」


 突如、彼女は大粒の涙を流しながら嗚咽を漏らし始めたのだ。


 どこのギャグ漫画の住人だよ。そう胸の内でツッコミを入れて、彼女に声をかける。


「いや、あれですよね、お酒飲んだ次の日ってお腹減りますよね、あはは」


「なんでっ……未成年ぽいのにそんなこと……ひっぐ、もしかして、キミ……不良さんなんですか! お酒は……体に悪いですよ!」


「誰が誰の心配してんだよ……はぁ、とりあえず落ち着いてください。未成年飲酒はしてないし、別にお腹の音はなんとも思っていませんから」


「……ほんとう……ですか?」


 彼女はしゃっくりをしながら、赤く腫らした瞼を袖で擦る。きっとこの人は、幼い頃に泣いた時もこんな感じだったのだろう。その鱗片が窺えるほど、泣き顔は子供らしくて可愛いと思った。


 彼女の問いに俺は頷き、ふとベッドのスマホに目を向ける。


 時刻は午前五時五十分。朝食を作るにはいい時間だった。

 

 ティッシュで鼻をかむお姉さんに視線を向けると、


「とりあえず、朝ごはん食べて行きませんか? お腹減ったでしょ?」


 そう声をかけた。




「ほ、本当にこんなに食べちゃっていいんですか?」


「はい。作ってしまったので、食べてくれた方が嬉しいです」


 午前六時十分。簡易的に朝食を作ると、テーブルの向かい側に座る彼女の前に、料理を並べた。


 まぁ、料理というには簡易的すぎると思うが。少し焦げてしまった目玉焼きと、醤油で味付けしたソーセージ、それと簡易的な味噌汁と白米があれば、朝食としては十分だろう。


 俺がそう返すと、先ほどの泣き顔とは一変。「わぁぁ……」と声が漏れた彼女の表情はまるで、サンタさんを信じてやまない子供が、枕元にプレゼントがあったような、純粋な表情をしていた。


「そ、それじゃあ、いただきます!」


 はむっはむっ! と美味しそうに白米や、目玉焼きを箸で突くお姉さん。なんだかその様子が可愛らしくて、俺はふふっと鼻を鳴らす。


「ん、な、なんですか……何か顔についてますか?」


「いや、すごく美味しそうに食べてくれるなって、なんか俺も嬉しいです」


「——っ! そ、そんなに見ないでください……なんか、恥ずかしい……」


 俺が言葉を返すと、彼女は味噌汁の茶碗を持ったまま視線を前髪の奥に隠す。一体今彼女がどんな表情をしているのかは分からなかったが、髪の毛の隙間からのぞいている真っ赤な耳を見る限り、きっと恥ずかしがっているのだろう。


 華奢な仕草に、一瞬心臓が変な風に跳ね上がるのを感じて、俺は味噌汁をすすった。


 いつも通り、塩っ気の強い何の捻りもない味噌の味が口に広がる。


「ところでなんですけど、お姉さん、名前なんて言うんですか?」


 俺が彼女に問う。するとお姉さんはお椀から口を離し、美味しい、と呟いてからこちらに視線を向ける。


 綺麗な黒い瞳の上を、長いまつ毛が何度か行き来させると、


篠崎しのざき……文乃ふみのです」


 そう答えて、再びお椀に口をつけた。


「へぇ、素敵な名前ですね」


 俺がそういうと、彼女、文乃さんは恥ずかしそうに、こくんと頷く。


 しかし、憂げな雰囲気を帯びた視線がテーブルに落ちる。


「でも、私、この名前あんまり好きじゃないんです……」


「え、なんで」


 思わずそう聞いてしまったが、俺はすぐに息を呑んで、慌てて違うセリフを吐き出す。


「あ、いや。すみません、嫌なこと聞いちゃいましたね」


 すると文乃は、ううんと首を横に振りこちらに視線を戻す。ゆっくりと唇を動かすと、彼女は言った。


「だって、名前に文って着くのに、国語の点数が低かったり、それで馬鹿にされてきたから……」


 だから……好きじゃないんです。そう言い切って、文乃はソーセージを齧ると、パリッという甲高い音が妙に耳に響いた。


「……ぷっ、あはは!」

 

 だが、深刻そうに語る彼女とは正反対に、俺は思わず吹き出してしまった。その理由が拍子抜けと言われれば、それはそれで正しいのだが、


「な、なんで笑うんですか!」


「いや。俺、みなとって言うんですけど。そんな海っぽい名前の割に全然泳げなくて、よく馬鹿にされるんですよ」


 そう言って、俺は目元を擦ると再び彼女へと視線を向ける。なんだか、彼女には拍子抜け以上に、親近感が湧いたのだ。


 すると、呆気に取られたような表情をする文乃さんは、ふふっ心地よさそうに鼻を鳴らす。そして、その大人っぽい唇の端っこを少し持ち上げると、


「そっか……私たち似たもの同士だね。湊くん」


 にへらと気の抜けたような表情を浮かべたのだった。


 不意に出てくる女性らしい部分に、心臓が跳ねて再び、誤魔化すように味噌汁を啜る。


 刹那、味噌味の湯気越しに、彼女は目玉焼きを美味しそうにほおぼったのが見えた。


 ……。


「いや、似てるのはそのエピソードだけで、あとは全然似てません」


「え、待って湊くん。今めっちゃいいい雰囲気だったよね?」


 どうやら、お隣に引っ越してきた人は、面白いお姉さんだったらしい。


 




 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る