試練

 伊水の縄張りへと近づくにつれ、草木の質が変わっていく。周辺の木はどれも太くて短い。幹から伸びる茎は、沼底から勢いよく湧き出した水のように伸びて、大ぶりの葉が頭上を覆っている。花はどれもチョウのように鮮やかで、鮮烈な色彩だった。

 鼻を撫でていく風は温かく、心なしか甘いように感じる。

 地面はふかふかしていて足先が僅かに沈む。


 ムシが多いせいか、トリをよく見かけた。彼らも黄や赤といった派手な色合いの羽毛を持つ。飛んでいるときは目につきやすいけれど、そうでないときは花や果実にうまく紛れていた。


 鳴葉は葉に溜まった水をちびちび飲む。沼がない土地では、こうして飲み水を確保するのだそうだ。空気が甘いなら水にも味があるのかもしれないと鳴葉は思ったが、陽炎の地とそう変わらなかった。


 鳴葉と琉汀が丘に出ると、黄色い花が咲いていた。向日葵だ。揃って一方向を向いている。大きな体の琉汀でも、花びらに触れられないほど背丈がある。向日葵は互いに邪魔にならないよう、一定の間隔をあけて咲いていたので、ふたりは楽にすり抜けられた。


 丘を歩いてしばらくすると、鳴葉たちはイヌに出くわした。小柄ながらも牙をむき出しにし、けたたましく吠えている。

 狼は遠吠えが主で、イヌほど無節操に吠えないため、これには鳴葉も琉汀も顔をしかめた。大方、彼の縄張りに鳴葉たちが入り込んだのだろう。

 ふたりは示し合わせることなく、駆け足で先を進んだ。


 休憩は白良の縄張りへ向かうときよりも、格段に少なくなった。また、鳴葉は琉汀と狩りをするうちに、めきめきと力をつけていった。複数で分担していた獣の追い立てや足止め、牙を穿つに至るまでの一連の流れをふたりで担うとなれば、脚も頭も動かし続けなければならない。集中する時が以前よりも増したぶん、体力を程よく残しながら最適解を探り出せるようにもなった。


 琉汀の口から食事を与えられるだけだった日々は既に遠い。

 ふたりだけの時は順調に過ぎていった。


 空に花が咲いている。赤、青、黄色が青空によく映えた。よくよく見れば空に花が咲いたのではなく、木と木の間にとても細い蔦がぶら下がっていて、その蔦が花をつけているようだ。

 琉汀は鳴葉に鼻で合図した。


「もうすぐ伊水の縄張りにつく。こうも様変わりすると驚くだろう」

「うん、大きさも色も。見たことないものばっかりだ。縄張りってこんなに違うんだね」


 陽炎の縄張りは緑が多い。季節によって赤や茶に変わるが、伊水の縄張りほど色彩豊かではなかった。


「縄張りは人狼の好みが反映されるといわれているからな。伊水はこういった地が好きなんだろう」


 鳴葉は爪で地面をかく。今まで土地に意思があるなど考えたこともなかったが、恩恵や実の種類、植物の色形など人狼を慮る面に「もしや」という思いが頭をよぎる。

 鳴葉は爪を引っ込めて、足裏で土を撫でた。


「人狼になったら、僕はどんな恩恵をもらえるかな? 温泉だったらいいな」


 数日に一度入っていた温泉も、縄張りを離れてからはすっかりご無沙汰だった。


「あの熱い沼か」

「うん。温泉は好きじゃない?」

「あまりな」


 彼女にも苦手なものがあったのかと、鳴葉は妙な関心を覚えた。


「ふぅん。じゃあさ、琉汀は自分が恩恵をもらうとしたら、どんなものになると思う?」


 鳴葉はそう尋ねたものの、琉汀は恩恵に対し、これといった興味がないように思えた。恩恵だけではない。彼女が欲しているのは、以前囲いに入れたいと話していたものくらいなものだろう。だから鳴葉は琉汀の答えをそう期待していなかった。

 琉汀は鳴葉を見据えて言った。


「白くてふわふわしているもの」

「ふわふわ……? 綿毛とか?」


 琉汀の足が止まった。ふと見れば、目と鼻の先にひょうたんに似た植物が群生している。天辺が魚の口のように開いており、中が少しだけ見える。どうやら空洞になっているようだ。鳴葉が上から覗き込むと、中でムシが死んでいた。無言で琉汀の隣へ戻る。


「どうした?」

「なんでもない。ここで伊水様を呼ぶの?」

「いや。呼ぶには良い距離だが、場所を変えよう」


 鳴葉は鼻を動かした。甘い香りに混じって狼のにおいがする。誰かの仮居が近くにあるようだ。鳴葉は頷き、琉汀の後に続いた。


 いくらか進むと、目新しい花が咲いていた。中央部分が黄でふちは白色。夏のとても暑い日にのみ地面を飾る、割れた卵の成れの果てに似ている。朱果が喜んで食いつきそうだ。


 琉汀が遠吠えをすると、ふたりの元へ雌狼がやって来た。鳴葉は目を丸くした。彼女が卵のような毛色をしていたからだ。顔から腹にかけては黄身の毛、ほかは白身色だ。やや細身に見えるのは、整えられた毛が後方に向かって流れているからだろう。

 雌狼の後ろには、険しい顔をした黄身色の雄狼が控えており、彼は現れたときからずっと、夕陽色の目で琉汀を睨みつけている。


「鳴葉と琉汀ね? わたしがこの縄張りを治めている人狼、伊水よ。この子は玲牙れいが。鳴葉と同じく、試練を受ける者です」

「伊水さん、どう見たって俺のほうが将来有望じゃないですか?」


 玲牙の言葉に琉汀の両眼が細くなる。


「あんな図体でいながら、ここまでひとりで来られないなんて。試練を受けさせるまでもないと思います。結果は察しがつきますよ」


 玲牙は琉汀を見据え、吐き捨てるように言った。

 途端、鳴葉は尾がしびれた。隣から言いようのない圧を感じ、体が勝手におののいている。琉汀に慣れた鳴葉ですらこれだ。大口を叩いた玲牙は縮こまって、可哀想なほど震えている。


「試練を受けるのは私ではない。ここにいる鳴葉だ。だが、同じ口で鳴葉をけなしてみろ、その頭かみ砕いてやる」


 琉汀が一歩前に出たので、鳴葉は更に進んで彼女の前へ出る。


「ついてきてもらった僕が言うのもなんだけど、試験を受けるのが琉汀だったら、ひとりでここまで来ていたよ。それくらいわかるだろ?」


 玲牙は表情をより険しくし、鳴葉に対して吠えた。


「お前ら、俺をバカにしたな!」

「バカにはしてないよ。試練を受ける相手を誤解するのはわかる。琉汀はすごい狼だからね。ただ、こんな勇ましい狼のにおいを嗅いでおきながら、自分の方が将来有望だって言うのは自信過剰すぎるよ」


 鳴葉も黙っていられず、姿勢を低くして睨み合う。琉汀は尻尾を振って鳴葉の毛をついばんだ。

「お前こそ伊水さんを前にして、そいつが勇ましいだとかよく言えたな! 節穴の目で人狼になろうだなんて、分不相応にも程がある。むしろそんな目、俺がくり抜いてやるよ。感謝しろ!」


 いきり立つ玲牙に琉汀の目が煌めいた。


「頭をかみ砕くつもりだったが、やめだ。時をかけて丁寧に殺してやる」

「琉汀、それじゃもう脅しに聞こえないよ。琉汀が本気になったら、このひと死んじゃう」


 鳴葉は琉汀の顎を優しく噛む。それを見て玲牙の怒りは更に増したようだった。


「またバカにしたな! 俺のにおいを嗅ぎきれてないのはどっちだ!」

「鳴葉。私はもとよりそのつもりだが?」

「だから、だめだってば。争うためにここまで来たんじゃないでしょ?」


 激昂する玲牙などそっちのけでふたりが会話をするので、彼は今にも咬みつかんばかりの形相になった。

 伊水は小首を傾げて言った。


「あなたたち、このまま言い合いを続けるのかしら? それならわたしは戻るし、聞く気があるなら話をするけれど」


 鳴葉と琉汀は口を閉じる。玲牙も牙を隠して伊水を見つめた。

 伊水は尾を振り、続けて言う。


「あら、遠慮しなくていいのよ。ケンカは仲良しの証でしょう。違う縄張り同士でも仲良くしたいのなら、それがいいと思うわ?」


 花のような笑みを浮かべながらも、芯の強さを匂わせる。

 伊水の言う「あなたたち」に含まれているはずの玲牙は、伊水が間に入った途端に水を得た魚になった。胸を反らして偉ぶっている。

 伊水は鼻ひげを揺らして玲牙に告げた。


「玲牙、自分は関係ないような顔でいるけれど、あなたもですからね」

「えっ、お、俺もですか?」

「驚くこと? きっかけを作ったのはあなたでしょうに」


 鳴葉は琉汀とそっと目配せする。それから伊水に頭を下げた。


「挨拶の途中で話を遮ってしまってごめんなさい。試練について聞かせてもらえませんか?」


 伊水は目元を和らげ、鳴葉に歩み寄る。頬が触れそうなほど近づくと、ほのかに向日葵の匂いがした。途端、琉汀が落ち着かない様子でうろうろし始める。

 伊水は素早く鳴葉から離れた。


「──こほん。いいでしょう。では、これよりケンカを禁じます。ケンカするなら試練放棄と見なすわよ。全員そのつもりでね。玲牙、あなたもよ。黙って話を聞ける?」


 玲牙は耳を伏せ、鳴葉と同じように頭を下げる。


「ちなみに、琉汀に突っかかるのもだめよ?」

「……はい」

「約束ね」


 伊水は厳かに頷く。彼女は鳴葉に振り返り、声を弾ませて言った。


「試練の間、あなたたちが過ごす場所を作っておいたの。ついてきて。案内するわ」

 


 無数の小石を埋め込まれた道が大蛇のように伸びる。道の両脇に咲く紫色の小花は開いたばかりらしく、蕾がムシの休憩場所になっている。

 伊水の縄張りに入ると、細長い木が増えた。樹皮はマツの実に似ている。枝はついておらず、天辺から四方に葉が伸びている。葉と葉の間には夕陽色の実がいくつも生って、辺りにさわやかな香りを漂わせていた。

 鳴葉は角が取れた大石を通り過ぎたところで、像を見つけた。体と同じ大きさのくちばしを持つ、おかしなトリだった。道の左右に五つ並んでいる。くりくりした目を見ていると、鳴葉は幼い弟妹を思い出した。

 ふと、鳴葉は視線を感じて足を止める。木の傍らにトリがいた。琉汀よりも高さがある体躯に反し、小顔でくちばしも小さい。瞳は赤色、目尻には滴を逆さにしたような模様がある。頭部から胸部までは薄い灰色で、腹部は梅色。脚にかけてだんだん色が濃くなり、イチゴ色に変わる。草で見えないものの、足先はきっと夕焼けのような深い色なのだろう。

 全くといっていいほど微動だにしないので、鳴葉ははじめ、そのトリが目を開けて死んでいるのかと思った。

 トリの顔が動き、視線が絡む。鋭い眼光に鳴葉の背中が引きつった。異変に気付いた琉汀が鳴葉の片耳を口に含む。


「あれには近づくな。頭から飲まれるぞ」

「飲む? あんな小さな口で?」


 鳴葉は再び視線を戻す。

 トリは琉汀のような狼がいるにも関わらず、堂々とした面構えだ。自らを狩ろうとする獣を返り討ちにしてしまえそうな雰囲気もある。だが、やはりあの口で狼を丸吞みするのは難しいだろう。

 トリは険しい顔つきのまま片翼を広げた。それは鳴葉を軽々包み込めそうなほど長く、大きい。鳴葉の喉から短い悲鳴が漏れる。

 伊水は呆れた声で言う。


「おどかさないの。あのトリは魚しか食べないじゃない」


 鳴葉は琉汀を睨んだ。彼女は悪びれる様子もなく謝る。


「すまない。鳴葉の怖がる顔が見たくて、わざと嘘をついた」

「……君さ、正直すぎるって言われない?」

「言われないし、言われたこともない」


 そう断言する琉汀に、鳴葉は口をむずむずさせた。

 伊水は足を止めずに話す。


「歩きながらだけれど、試練の説明をするわね。聞いていてわからないことがあれば、ふたりとも隠さず言って。ものによっては、琉汀のほうが詳しいかもしれないけれどね?」

「含みのある言い方をするな。いらぬ勘違いをするものだっている。迷惑だ」


 琉汀が食い気味に言うと、伊水は目を輝かせた。


「まあ! そうなの? 勘違いされたくないの? それは気をつけなくちゃいけないわね。誰に、とはあえて聞かないでおくわ」


 琉汀と伊水のやりとりは太陽と暗雲のようだ。後者は湿った風を引き連れて、落雷も間近である。

 鳴葉は巻き込まれないよう、ふたりから静かに離れたけれど、距離をあけたぶんだけ琉汀がついてくるため、すごすごと元の位置に戻った。


「少なくとも僕は誤解しないよ。琉汀が有名だってこと、もう知ってるんだから」

「有名かどうかはともかく、単独狼の情報は人狼同士で共有されるんだ。伊水も白良から聞いたんだろう。あのおしゃべりめ」

「あら、それは違うわ。あなたの話をしていたのは別の人狼。あれこれ噂されて大変ね?」

「フン。周りのやつらなんざ、心底どうでもいい。知っていて欲しいひとに、正しく伝わりさえすればな」


 琉汀の視線が鳴葉に向けられる。鳴葉は琉汀に寄り添いながら玲牙を見た。先ほど彼に誤解されたばかりなので、急に自信を無くしたのかもしれない。

 鳴葉は琉汀を見上げて言った。


「きっと伝わるよ」

「……そうだといいが」


 めずらしく気弱になっている。鳴葉は少し後ろに下がり、尻尾で琉汀の後ろ脚を叩いて元気づける。その弾みで彼女の尾と絡まりそうになったため、鳴葉は飛び退いた。

 尻尾を巻きつけるのは交尾の誘いである。誘いに応じるときは互いの尾を絡ませ、応じないときは尻尾を下げたままにしておくのだ。

 後方から唸り声がする。玲牙が鼻にしわを寄せていた。だが、伊水との約束を守るつもりはあるらしく、彼は何も言わずにそっぽを向いた。

 伊水は口角を上げる。


「試練は三日間。一日目は獲物を狩り、二日目は体力を知る。三日目の内容はまだ迷っているから、当日に教えるわね。今回はふたりで試練を受けるから、お互いに競う気持ちがあるかもしれないけれど、本来の目的を忘れないように。さあ、着いたわ。ここよ」


 石の道が途絶え、足元に木の実のからがびっしり敷き詰められている。形はドングリとクリのあいのこで、踏むとぷにぷにして潰れないだけの弾力があった。寝床にするには十分な広さだ。

 鳴葉は跳ねたり駆けたりしてから言った。


「こんな面白い地面、初めてです!」

「でしょう? 気に入ってもらえたみたいで良かった。ここがふたりに過ごしてもらう場所よ。試練の間、他の狼には寄りつかないよう言ってあるけれど、何か問題があったときは知らせてくれる?」

「わかりました」


 伊水が玲牙を振り返る。


「あなたも。気づいたことがあったらお願いね」

「はい」


 伊水は満足げに頷く。


「試練は明朝。日の出とともに、このあたりを寝床にしているトリが一斉に鳴き始めるの。それを合図にわたしと玲牙が縄張りを出ます。鳴葉は迎えが来るまで、ここで待っていて。琉汀、あなたは試練の場所までついてきてもいいけど、手出しは厳禁よ」

「お前に言われるまでもない」


 玲牙は目をつり上げた。彼は尾を太くして琉汀にくってかかる。


「お前、伊水さんに向かって、その口の利き方はなんだ? ただの狼のくせに、礼を欠くのもたいがいにしろよ」

「狼なら人狼を敬うべきだと? それを単独で動く私にも求めるか」


 琉汀の問いに、玲牙は呆れを隠さず答えた。


「単独でも群れでも関係ないだろ。伊水さんは人狼なんだ。狼の上に立つ方だぞ。そんなこともわからないなんて、恥ずかしいやつ。話しているだけで程度が知れる」


 鳴葉は鼻を琉汀の横腹にこすりつける。冷静に玲牙と向き合っている琉汀を差し置いて、自分が怒りに任せて吠えるわけにはいかない。琉汀は対話の姿勢を保ち、伊水との約束を違えずにいる。

 琉汀は失笑し、伊水へ水を向けた。


「お前を敬うのは人狼であればこそ。中身は敬うに値しないらしい。ずいぶんな言われようだ」

「なっ、言いがかりだ! 伊水さん違います、俺はそんなこと思ってません! こいつが言ってるのは全部でたらめです。お前、単独狼だからって調子に乗るなよ!」


 尾を小さくした玲牙は伊水の前に駆け込んだ。当の伊水は目を瞑り、考え込んでいるようで、玲牙を視界にも入れない。

 琉汀は鼻ひげを動かして一笑した。


「しかし、話にならんな。鳴葉は己の立場を理解し、健気に耐えているというのに」


 琉汀の柔和な眼差しが鳴葉を映す。鳴葉は力なく尻尾を振り、琉汀に額を擦りつけた。


「約束は約束」


 伊水はそう呟いて顔を上げた。


「守ってくれているひとがいるのに、破ってなにもなしじゃ平等じゃないもの。玲牙。あなたはわたしとの約束を違えた。よって試練放棄と見なします」

「そんな! 伊水様があんな風に軽んじられても、黙って見ていろと言うんですか!」

「ええ」


 玲牙は少しの間、茫然と立ち尽くしていた。伊水は玲牙の頬に口吻を擦りつける。


「わたしの狼でいてくれるのなら、わたしの言葉を受け入れて。縄張りへ戻りなさい」


 玲牙は到底聞き入れられないようで、体をぶるぶる震わせていた。しかし、伊水に二度促される前に、鳴葉たちに背を向ける。のろのろと歩き出すその足取りは、琉汀に噛みついた狼とは似ても似つかない。


「本当にいいんですか?」


 鳴葉は玲牙が完全に去ってから尋ねる。

 約束を違えるのは悪いことだ。けれど、試練という重大な場を前にして、玲牙からその権利を取り上げるとは思わなかったのだ。

 伊水は疲労をいくつも重ねた顔で吐き出す。


「わたしの縄張りでは約束を重んじていて、大なり小なり、できないことは約束しない。できることだけ約束するの。約束を破れば、そのたびに信用を失う。自分の力量を正しくはかったり、堅実さを示したりするにも、約束はわかりやすいものなのよ。それがこの地に住む狼の共通認識なんだけれど……、あの子には難しいみたいでね。だから、わたしと訓練していたの。同族相手に約束破りを繰り返していたら、住みにくくなっちゃうでしょう?」


 伊水はまたも目を閉じてため息をこぼす。


「どうすれば良かったのかしら」

「条件反射の部類だろう。本能が強い、と言えば聞こえはいいが。向いていないとわかっていながら、あれによく人狼の試練を受けさせようとしたな。己が認めた相手にしか協調性を発揮しないのでは?」

「そうだとしても、望むものに対して機会は等しくあるべきよ」

「いずれあれの元につく狼のことを考えても?」


 琉汀の指摘に伊水の顔が歪む。

 その可能性に彼女が気づかないはずがないだろう。それでも、望むものには機会を等しく与えるという、己の方針に従うと決めたに違いない。核をわけ与えた相手が、たとえば悪しき人狼になったとして、その責を与えた側にも負わせるのは酷な話だ。

 鳴葉は琉汀の足をやや強めに噛んだ。彼女の尻尾がだらりと下がる。


「部外者でありながら過ぎたことを言った」

「……いいのよ。ただ、少なくともこの子の前でする話しじゃなかったわね」


 伊水はそれだけ言うと、踵を返して去って行った。

 鳴葉は琉汀の脇腹をつついた。


「君、ただの狼じゃないでしょ」

「なぜそう思う?」


 鳴葉は苦虫を噛んだ。心底驚いたふうに言うのだから、かえってわざとらしい。


「人狼みたいなんだもん。他の単独狼に会ったことがないから、比較できないけどさ。それにしたって人狼との会話が、なんていうか、対等だろ。……なに、その顔」


 琉汀は真夏の太陽のごとく、力のある微笑みを浮かべている。触れてもいないのに、鳴葉の毛をじりじりと焦がすような強さがあった。


「そうして私をどんどん気にするといい」

「気にしてるし、いつも考えてるよ」


 琉汀は体を屈め、目の高さを鳴葉に合わせた。


「鳴葉。お前が人狼になったら話したいことがある」

「今がいい。今すぐ聞きたい。琉汀のこと教えて」


 鳴葉は出来る限りの甘い声でねだりながら、琉汀の口吻を優しく噛んだ。彼女はいたく喜んだ様子で鳴葉を噛み返す。間近にある紫陽花色の瞳が甘く歪んだのに気づいた鳴葉は、口先を舐めたり、琉汀の脚の間に自ら収まったりして、話を聞き出そうとした。しかし、いくら奮闘しても琉汀は頑なに首を縦に振らなかった。


「だめ。人狼になってから」


 鳴葉はかなり落ち込んで、ばたんと寝転がった。琉汀に片耳を舐められながらも、鳴葉の胸はしくしく痛む。


(人狼になったらって言うけど、そうなったら僕を人魚のところへ連れていくんだろ。琉汀、僕は嫌だよ。君が僕を人魚へくれてやるつもりでも、僕は君が好きだ。ずっと君の傍にいたいのに)


 鳴葉の中で熱い想いがひしめき合う。それらを抱えたままでいるのは、照れや矜持のせいだとか、駆け引きで出し惜しみしているのでもなく、単に狼のさがであった。狼が好いた相手を振り向かせるときに示すのは、あくまで行動力であり、言葉は全く重要ではなかった。


(ここまでしておきながら、琉汀はなんで僕を好きじゃないんだろう。僕のどこがいけない? 体の大きさ、賢さ、強さ……どれも琉汀に及ばないのはわかってる! それでも僕は琉汀が好きなんだ。でも、君が僕を好きにならないままなら、僕は君から離れるしかないんだよ。だって君以外の番なんて考えられないんだから。それでもいいの?)


 鳴葉が消えたら、琉汀はいったいどうするだろう。怒るだろうか。それともいなくなったものは仕方がないと諦めて、人魚の元へ向かうだろうか。役目を終えた彼女は自らの運命を探して――許容しがたい想像が、鳴葉の頭の中を駆け巡る。


(人狼になってから伝えるつもりでいたけど、それじゃあ遅い。後悔するくらいなら、好きだと伝えよう。僕はまだ大人の体じゃないけど、だからってこれをしない理由にはならない。もし、これをやっても琉汀の答えが変わらないのなら……、僕より人魚を優先するなら……)


 鳴葉は意を決して立ち上がった。彼の胸が波打つ。

 鳴葉が位置を探る間、琉汀は嫌がる素振りを露ほども見せず、むしろ楽しげに鳴葉を眺めていた。彼は琉汀の好意的な視線に気を良くし、自らの尻尾を琉汀の尾に絡めた。そうして鳴葉は、自らの気持ちを明かそうとした。


「琉汀。僕の運命は……」

「人魚だ。それ以外はない」


 鳴葉の尻尾があっけなく振りほどかれる。

 琉汀の答えは明白だった。

 鳴葉は牙を噛み締める。彼の尾は垂れたまま、しばらく動かなかった。



 鳥のさえずりを合図に迎えた試練一日目。

 伊水は人狼の姿で現れた。服に散りばめられた煌めく石と、赤や黄色の花が鳴葉の目を引いた。彼女に似合う華やかな装飾で、地肌のほとんどが空気にさらされており、隠れている部分のほうが少ない。装身具は右足にひとつ。聞けば、それは貝殻だと教えてくれた。

 鳴葉が伊水の胸元を注視していると、琉汀が鳴葉の頬に噛みつき、「どこを見ている」と責めた。急に噛まれたものだから、鳴葉はとても驚いて、答えるよりも先に振り払ってしまった。すると、彼女はいかにも傷つきましたと言わんばかりに尾を垂らす。鳴葉はそれを見てしまうと「なんでいきなり噛んだの?」という疑問も「噛まれて痛かった」なんて文句も出せなくなった。


「伊水に見惚れたのか」


 琉汀は声を抑えながら尋ねた。いつになく真面目に聞くので、鳴葉も真面目に答えた。


「うん。琉汀の目の色に似てるから」


 伊水の胸元を飾るひとつの石。青と紫が混じってほのかに光っている。


「すごく綺麗な石だと思わない? 僕、ああいう色が好きなんだ」


 鳴葉は琉汀に鼻先を戻す。彼女はしずしず寄ってきて鳴葉の頬を舐めた。方向構わず振られた尾が音を立てている。その間ずっと、伊水はにこやかな笑みを浮かべていた。

 ひと悶着終えたのち、鳴葉は伊水と共同で狩りをした。昨日のうちに琉汀と下見を済ませた鳴葉にとって、獲物を追い詰めるのはさほど難しくなかった。


 二日目は伊水との追いかけっこだった。人狼をつかまえるのが目的ではなく、体力勝負の意味合いが強い。終わりを迎える頃には鳴葉の息は絶え絶えで、琉汀から大いに心配されたのだった。


 三日目の内容は当日の朝、見晴らしの良い丘へ移動したあとに告げられた。行きがけに通った向日葵の咲く丘である。


「最後の試練はわたしとのお喋りです」

「お喋り。……お喋り?」

「ええ、そう。お喋り。大事よ?」


 無口な者は何を考えているかわからないため、下位の狼から怖がられてしまう。寡黙なところが素敵という意見もあるが、親しみやすいほうが良いだろう、というのが伊水の意見だった。

 三人の人狼を知る鳴葉にとって、伊水の考えに異論はなかった。

 だが、狼は縄張り外の者には攻撃的に、それでいて家族とは親しみを込めて話す。同じ会話でも方向性がまるで違う。さらに言えば、家族との会話は暗黙の了解を含んでいる。わざわざ説明しなくても通じるからこそ、会話が弾んで楽しめるのだ。それを『縄張り外』で『知り合ったばかりの人狼』と行うとなれば、会話の難易度は格段に上がる。


(難しそうだけど、こういう状況でのやりとり、最近見たばっかりだ)


 初対面同士でありながらも、白良と琉汀、ふたりは親しげだった。想像の中のふたりが同時に嫌そうな顔をする。鳴葉は堪え切れずに笑ってしまった。


「あら、その笑い方。さては思い出し笑いね?」

「はい。白良様と琉汀のやりとりを思い出したら、つい」 

「どんなやりとりかしら?」


 鳴葉は咄嗟に転がった。横を向くと至近距離に伊水の顔があったからだ。急に距離を縮められると、いくら人狼相手でも警戒してしまう。


「あ、あの……?」

「あらいやだ、ついつい。驚かせちゃってごめんなさいね。琉汀はひとまず横に置いて。できれば白良様、陽炎様や止柊様の話を聞かせてもらえたら嬉しいわ。些細なことでも構わないから!」


 伊水は謝りながらも鳴葉との距離を狭めてくる。鳴葉はひとつ質問しようとしたが、聞くまでもなく、振りたくられている尾が既に答えてくれていた。


「あの方たちのこと、とてもお好きなんですね」


 伊水はことさら豪快に尾を振ってから、照れくさそうに笑った。


「人狼なら誰もが憧れると言っても過言じゃない方たちだもの! 白良様からあなたが来ると知らせを受けたときから、聞きたいのをずっと我慢していたのよ」


 鳴葉は、伊水が逃げるように去ったと聞いていたが、おそらく彼女は二人と挨拶するだけで精一杯だったに違いないと思った。

 今度は鳴葉のほうから伊水に近づく。


「わかりました。じゃあ、さっそくお喋りしましょう」


 好きな人の話となれば花も咲く。話題は陽炎と止柊に偏りがちだったが、鳴葉はたびたび伊水に問いかけることで、話のすそ野を徐々に広げていった。伊水が人狼になったときにはもう、三人は有名だったこと。有名であるがゆえ、人狼の多くは彼女たちの近くに縄張りを持てなかったこと。それらを聞いた鳴葉は、思わず苦笑いを浮かべた。


(近づけば狼の矜持が折れそうになるから、か。僕が琉汀に感じる気持ちみたいなものか)


 鳴葉は眉ひげを揺らした。


「わたしがこの場に縄張りを構えたのは、三人の言葉があったから」


 伊水は昔を懐かしむように目を細める。


「わたしは南の土地で育ったの」


 伊水がこの地へ来たのは、人狼になった後だという。彼女は縄張りを探し求めながらも、しばらく単独狼の真似事をして過ごした。


「土地によって、人狼の決まり事が違うみたいなのよね。このあたりでは、人狼が他の人狼の縄張りへ入るとき、予め許可を得なきゃいけないのよ。それをわたしは知らなかったの。わたしは何にも知らないまま、あるとき陽炎様の縄張りに入ってしまった。しかも、止柊様と白良様がいらしている日に」

「……」


 鳴葉は体がぶるりと震えた。

 伊水は眉間に皺を寄せ、こくりと頷く。


「あのときの止柊様と白良様の様子は、今でも説明できないわ」


 恐怖を感じた伊水は、すぐさま近くの茂みに身を隠したらしい。怯える体をなだめながらも、彼女は混乱していた。今までは縄張りの主と出会ったとき、挨拶さえしていれば滞在を許された。だから彼女はいつものように、声を掛けようとしただけだった。

 隠れてうんともすんとも言わなくなった伊水を、彼らもおかしいと思ったのだろう。陽炎が先頭に立ち、どこから来たのか、縄張りへ入るときの作法は知っているかを伊水に問いかけた。その声があまりにも優しかったので、彼女は半泣きになりながらも返事をしたという。

 無断で縄張りに立ち入っただけでなく、最後まで顔を合わせられずにいた伊水に対し、彼らは手を差し伸べようとしてくれた。

 そう語る伊水の喜びが伝わってきて、鳴葉は自然と微笑んだ。


「困ったことがあれば頼るといい。そう言ってくださったの。わたしは縄張りを持たない人狼だったのに。悔やむとすれば、あの方たちの気遣いに対する返事の仕方がわからなかったことね」


 伊水は目を伏せた。


「自分の脚で立ち続ける生き方をよしとしてきたから、誰かに心配されるとか、手助けしてもらう考えがなかったの。ここに居を構えてから会いに行ったとき、緊張してろくに挨拶できなかったのもそうね……。どんどん後悔が増えていくわ……」


 そう話しながら、ついには両手で顔を覆ってしまった。

 鳴葉には伊水の様子を探る目的もあったので、彼女の話を聞けたのは幸いだった。それにたった今明かされた後悔ならば、もしかすると鳴葉でも溶かしてしまえるかもしれない。

 くたりと耳を寝かせた伊水に鳴葉が言う。


「陽炎様たちは今も伊水様のことを案じていました」


 伊水の動きが止まる。しかし、鳴葉は気にせず言葉を続けた。


「伊水様と前に出会ったことがあるって知らないから、今は人狼の義務感から気にかけているようですが。知ったら喜ぶと思いますよ。緊張しても白良様が間に入ってくれるから心配いらないです。陽炎様も止柊様もいます」


 伊水は耳を鳴葉に向けながらも、どこかぼんやりした面持ちでいる。鳴葉は伊水の前脚をちょいちょいと突いた。


「試練が終わったら、会いに行きませんか? 僕と一緒に……、いえ、僕は一緒には行けないですが、琉汀がいます」


 伊水が呆然としているので、鳴葉はいよいよ心配になってきた。彼は内心首を捻る。三人の話題を出したときのような、喜びによる大袈裟な反応を期待していたのだ。

 そんななか、突然、伊水が泣き出した。彼女の頬を、葉に溜まった雨水のような、大粒の涙が伝う。

 鳴葉は耳と尾をぎゅっと立ち上げ、伊水の前で右往左往する。


「い、伊水様⁈ どうしました? あの、大丈夫……、ぜんぜん大丈夫じゃない!」

「どうしたのかしら? どうしましょう。ふふ、止まらないわね!」


 泣き笑う伊水に対し、どうしたら良いのかわからずまごまごしていた鳴葉は、逆に、彼女からなだめられる始末であった。落ち着けと言われてしまえば静まるほかなく、伊水の言葉に従い地に尻をつける。すると、伊水の手が鳴葉をめちゃくちゃに撫でた。毛並みの方向などお構いなしなので、毛はぼさぼさになったが、鳴葉はでたらめな手つきの触れ合いを拒みはしなかった。


 しばらくして、すっかり調子を戻した伊水が鳴葉の毛づくろいを申し出た。立派なたんぽぽに例えられるほどの有様だったらしい。

 鳴葉の毛を整えている最中、伊水は自分のにおいが移らないよう細心の注意を払っているようだった。それには首を傾げたものの、鳴葉はそれなりに心地良い時を過ごした。


 鳴葉と伊水は、双方の縄張りや家族について語らう。

 単独狼についても話した。伊水も彼らから噂話をよく仕入れるらしい。そして、気になる噂があれば自身の足で確認しに行くという。てっきり単独狼や人狼に関する、いわゆるひとの噂が風に乗っているのかと思いきや、それはあくまで『ついで』にあたるらしい。たいがいは綺麗な花が咲いたらしいとか、美味い実を発見したので食べにおいでという、単独狼を介して行う季節の便りだった。それはたしかに自分の足で確認する価値のある噂話だと、鳴葉は思った。


 伊水の縄張りに生える色とりどりの植物は、やはり彼女が育った地に関係していた。伊水が生まれた場所では、春と夏が交互にやってくる温暖な地域で、色鮮やかな植物が群生しているらしい。それを基にして、伊水の縄張りに適した形の、似たような植物が生えているようだ。

 時はゆるやかに過ぎていった。

 鳴葉の試練はつつがなく終わりを迎え、残すは試練の結果のみとなった。


 いざ発表となったとき、伊水の雰囲気ががらりと変わった。

 上空を鋭く見据え――遠吠えがいくつも響く。

 鳴葉の目が吊りあがった。


(縄張り争いだ)


 辺り一帯が緊張に包まれる。争いに関わらない獣も騒がしくなった。

 伊水はしきりに耳を動かして、状況を把握しようとしている。衣を握りしめた手は白く、震えていた。

 鳴葉は立ち上がって言った。


「伊水様、行ってください」

「鳴葉も知っているでしょ。私が行っても何もできないわ」

「怪我の手当てもだめですか?」


 伊水ははっと目を見開き、首を振る。


「怪我の手当ては禁じられていない。いつもしているもの。……鳴葉、ありがとう」


 伊水は鳴葉の頭をひと撫ですると、高く跳躍して姿を消した。

 ややあって、鳴葉は後ろを振り返る。そこには玲牙の姿があった。実は、一日目から彼は鳴葉たちの近くにいた。伊水が彼を咎めずにいたので、鳴葉も見て見ぬふりをしていたのである。

 鳴葉は片耳だけ玲牙に向けて尋ねる。


「縄張り争いは君のとこじゃないの?」

「違う」

「そっか。じゃあ試練の邪魔をしに来たの?」

「……違う。お前が人狼に相応しいのか、見定めにきた」


 鳴葉は玲牙の言ったことがにわかに信じられず、確認の意味を込めて繰り返した。


「見定めに? 君が、僕を?」

「そう言ってるだろ」

「……」


 鳴葉は怪訝な面持ちで玲牙を見つめた。

 玲牙は鼻を上げた格好で問いかける。


「ふん。で、どうなんだ」

「なにが?」

「お前どんくさい奴だなあ。全部説明が必要なのか? ったく。試練の調子はどうだって聞いてんだよ」


 鳴葉は今度こそ自分の耳がおかしくなってしまったのかと思った。


(それを僕に聞くのか? おかしいだろ。それじゃあ何を見定めに来たって言うんだ?)


 玲牙は今まで出会ってきた狼とはあまりにも違い過ぎて、いっそ狼の姿をした未知の獣だと思った方がしっくりくる。そこでふと、鳴葉自身、玲牙は話が通じる狼だと思い込んでいたと気づいた。理解不能の未知の獣に例えるあたり、冷静に考えるふりをしながら、それなりに動揺しているらしい。


 鳴葉にとって、玲牙はでたらめな思考の持ち主だ。理解できない相手に対し、本能的に恐れを抱くのは悪いことではない。

 鳴葉は背を向けて逃げるか迷った。関わると面倒な相手だ。戦う意思があったなら、迷わず牙を剥きだしていただろう。


(こんなとき、父さんなら)


 もし鳴葉が玲牙だったら、実落はどんな言葉をかけてくれるだろう。

 鳴葉は実落の姿を思い浮かべながら、慎重に言葉を選ぶ。


「気になるのは、いいことだと思う。でも君は、僕を見定めに来たんでしょう。だったら最後まで自分の目で判断してみたら、……どう?」


 玲牙は鳴葉を睨んだ。


「それを聞いてどうする? 俺が判断したところで、お前もどうせそれは違うって言うに決まってる」

「だから? 意見の違いなんてよくあるだろ。違って何が悪いんだよ?」


 鳴葉が問いかけると、玲牙はふくれっつらでそっぽを向いた。


「……誰に言っても違うと言われるのは、よくあることって言えるのかよ」


 鳴葉は少しだけ考えてから頷いた。


「言えないかもしれない。逆に言えば、君も周りの言いたいことを理解できていないってことだろ」


 玲牙は片耳を鳴葉に向けただけで答えなかった。鳴葉は気にせずに続けた。


「君は家族を理解できていない。だけど、家族からは理解されたい。すごく大胆な考え方をするね」


 鳴葉はそう言った後で、これは言い方が悪かったなと反省した。案の定、玲牙の毛が逆立っている。


「お前は理解される側だから、悠長に構えていられるんだよ!」


 鳴葉は牙を舐めた。


(このひとはきっと群れで一番下の狼だから、余計に不安なんだろうな。賢くない、鼻が利かない、我慢もできないんじゃいいところ一つもなさそう。でもなあ。悪いけど、家族が否定しちゃうのもわかる。今もこうして、僕のところへひとりで来るくらいだし。僕でも咬み殺せそうなにおいをさせてる自覚、あるのかな? ないだろうな。琉汀にも突っかかっていたもんね。その後にどうなるか予想するだけの経験も、想像力もないから……死んでほしくないから、違うとか、やめろって言われるんじゃないかな。ま、そういう僕も琉汀に会うまでは同じ穴のモグラだったんだけど)


 鳴葉の眉ひげが上を向いた。


「理解するのもされるのも、考えるだけじゃ限界あるよ。自分の気持ちを言うだけじゃなくて、相手がどう考えているかを聞くのも大事。僕はそういうふうに家族から教わったよ」

「聞いてもわからなかったら?」

「いっぱい経験を積むしかないよ。でも、いいんだ。わからなくても」


 玲牙は奇異な目で鳴葉を見る。

 鳴葉は同じ目を彼に返してやりたくなったが、自らの序列を思い出してやめにした。


「そりゃあ理解できたら最高だけど。理解できなくても、それ以外の形で大切にできればいいじゃん。毛づくろいするとか、腹を見せるとか。相手に伝わればなんでもいいくらいの気持ちでさ。なにをしたら喜ぶかは、相手に聞いてもらうとして」

「教えてもらえなかったらどうする?」

「あのさ、悲観的に考えすぎじゃない? 教えてくれるよ。嫌われてなければ」

「……」


 玲牙は口をつぐむ。鳴葉は彼の尻尾を踏んだのかもしれないと思い、恐る恐る尋ねた。


「教えてもらえなかったこと、あるの?」

「……いや」


 まだ、という小さな声が聞こえた。

 鳴葉は近くに落ちていた向日葵の種を爪で転がす。


「そう……。教えてもらえるといいね」


 玲牙がこくりと頷く。出会い頭に威嚇してきた姿からは想像もつかない仕草だ。

 生意気でけんか腰。けれど、幼く素直な面もある。根はいい奴なんだ、という言葉は彼に似合う――もっとも、いくら根っこが良くても、咲いた花が臭ければ誰も近寄らないのだが。


 そこへ、別のにおいが混じる。

 鳴葉は眉間に皺を寄せた。風上から流れてきたであろうそれに、覚えがあったからだ。

 玲牙も気づいたらしく、しきりに鼻をひくつかせている。


「伊水様の狼?」

「違う」


 鳴葉は玲牙と視線を交わし、すぐさま移動した。

 向日葵の合間を抜けると、木の陰で横たわる狼を見つけた。数は四。全て灰色狼だ。

 鳴葉は茂みに身を隠して目を眇めた。


「あいつらだ」

「なんだよ、知り合いか?」

「違う。縄張り争いした群れなんだ」


 鳴葉はそう説明しながらも、腑に落ちないでいた。


(縄張りを奪い取れなくて逃げて来たにしても早くないか? さっきまで別のところで争っていたのも、あのひとたちだよね。きっと強い狼がいたから逃げてきたんだろうけど、僕らの時といい、どうして格上の縄張りに争いを仕掛けるんだろう? 鼻が利いてないのか?)


 鳴葉の中で疑問はいくつも浮かぶ。しかし、答えを出すだけの情報がない。

 鳴葉は玲牙と向き合った。


「伊水様に知らせよう」

「待て」


 鳴葉たちの気配に気づいたのか、休んでいた狼が次々と立ち上がる。ふたりは様子をうかがいつつ会話を続けた。


「それよりも、あいつらをここから引き離すほうが先だ」

「理由は?」


 鳴葉が問うと、玲牙はちらりと彼を見てから言った。


「この先には俺の縄張りがある。うちは母さんが率いているんだけど、母さんは今、巣穴から離れられない」


 雌が主導者の群れは珍しくないが、雄の群れに比べて縄張りを奪われやすい時期がある。それが出産期だ。腹が大きくなると、雌は子どもを産むための巣穴にこもる。無事に産み終わっても、子どもがある程度育つまで、ほとんど外に出なくなる。その間、群れで一番強い狼が抜けるのだ。縄張り争いが起きれば、主導者不在で争わなければならず、厳しい状況に陥るだろう。

 鳴葉は尾を下げた。


「でも、いいの? 君の縄張りじゃ、約束も大事なんでしょ。何かあれば伊水様に知らせるって約束したのに、それを破ったら今度こそ……」

「構うかよ。どっちが大事かなんて、比べるまでもない」


 鳴葉は正直なところ、彼が自分より家族を選ぶと思っていなかったため、内心ではとても驚いていた。


「わかった。じゃあ、あいつらをここから離すのを最優先にしよう」


 鳴葉は空に向かって吠える。目を見張る玲牙に、彼はにやりと笑った。

 縄張りの中で過ごしていた自分はずいぶん甘ったれだった、と鳴葉は思う。過去を掘り起こすと、恥ずかしくて転げ回りたくなるほどには幼かった。けれど、琉汀と出会いを経て少しは成長したとも思えるのだ。


(今の僕ならやれる)


 格上だとわかる狼はただひとり。右耳に傷のある雄狼が、この群れの主導者だろう。

 雄狼は群れを率いて近づいてきた。鳴葉と玲牙は並んで彼らと対峙する。


「へえ? あんときの雄か。生きてたのか」

「助けてくれたひとがいたからね」

「はっ。運が良かったって? この死にぞこないが。俺の息子は死んだのに、なんでお前は生きてんだ?」


 おそらくそれは、心からの言葉だった。ひび割れた声音は嘆きのようだ。

 縄張り争いの後、鳴葉と共に川へ落ちた息子を探しに、彼らはここまで来たのだろう。だが、ようやく探し当てた家族は既にこと切れていた。残された家族の気持ちは想像に及ばない。

 鳴葉が黙っていると、玲牙が毛を逆立てて言い放つ。


「負け狼はすっこんでろよ! 死んだのは弱かった。それだけだろ!」


 雄狼はあからさまに気分を害したように尾を振った。


「誰だお前。……、華奢ななりで知性も低い。絶望的だな。力量差がわかんねえ狼ほど声高に話す。自分から阿呆だと言ってるようなもんだろ」

「はあ⁈」

「怒ったか? 怒るよなあ。本当のことをひとに言い当てられんのは、腹が立つもんなあ? でもしょうがねえ。それだけバカさ加減が半端ないってこった」


 雄狼は目に憐れみを浮かべて言う。


「それなのに、よりによってだぜ? 知性を試される狼に生まれたか。可哀想に。ここにいるってことは、この先の縄張りの狼だろ? そんななりじゃ縄張り争いは無理だろう。どうだ、逃がしてやろうか? いいぜ。どうせお前の家族も、すぐお前を追いかけることになるからな」


 怒りは我を失わせ、判断力を鈍らせる。それが命取りになると知っている者の振る舞いだ。

 鳴葉が玲牙を見ると、彼は口角を上げて体を震わせていた。


「この……っ、好き勝手言いやがって!」

「ちょっと、落ち着けよ」

「これだけバカにされて落ち着けるか!」

「それでも落ち着け! 家族を守るんだろ!」

 

 鳴葉は負けじと大声で言い返す。玲牙の目が揺れ、夕陽色の瞳に冷静さが戻る。

 感情が昂ったとき、それを大いに上回る感情をぶつけられると、たいてい正気に戻るものだ。けれど、興奮を促す方法でもあった。真逆の結果にならずに済み、鳴葉は大きく息を吐き出す。


「大丈夫だよ。助けは呼んだ。すぐに来てくれる」

「へえ。奇遇だな。こっちにも助けが来たりしてな? ま、今度こそ殺してやるさ」


 空気が動いた。灰色狼が駆ける。正面から向かってくる狼を、鳴葉と玲牙は左右にわかれて振り切る。すると、群れは一斉に玲牙を追い始めた。鳴葉も踵を返してあとを追う。

 地の利があるとはいえ、格上が相手だ。すぐに追いつかれてしまうだろう。

 向日葵の間を駆け抜けるうち、群れのひとりが左方向へ抜けた。ぐんぐん先へ駆けていき、玲牙を追い抜きがてら回り込む。玲牙が動揺した隙を見逃さず、すぐ後ろにいた雄が彼の背中に噛みついた。


「がぁっ」

「玲牙!」


 鳴葉は最後尾にいた雌に体当たりした。雌は土埃を起こして転がるも、即座に立ち上がる。そこへ追随していた灰色狼が加わった。

 鳴葉は牙をむき出しにして威嚇する。寄りつく格下など相手にしている暇がない。鳴葉が唸れば遠ざかる、その程度の狼だ。


(玲牙はどうなった?)


 鳴葉は耳で様子を探る。すると、あるべき場所にひとりぶんの気配がない。


「鳴葉!」


 はっとして振り返る。鋭い目、血のついた牙。それらがゆっくり近づいてくる。

 あ、と息が漏れる。

 待ち望んだにおいが、すぐ傍にあった。

 鳴葉の目の前から雄狼が消える。向日葵のしなる音に続き、頭上の葉が煩わしそうに揺れた。遅れて吹いた風にひげがそよぐ。

 鳴葉の前に現れたのは、クロガモのような艶やかな毛色をもつ、美しい獣だった。


「琉汀」


 鳴葉が名を呼ぶと、琉汀は鳴葉をその目に映す。彼女はさっと鳴葉の状態を確認した後で、残った狼たちに向き合った。


「あなた、どうして……」


 雌狼は愕然とした様子で琉汀に語りかけた。先ほど鳴葉が体当たりした狼だった。それはまるで、予想外の行動にどう対処してよいのかわからないといった風にも見えた。

 ふと、彼らも琉汀と同じ人狼のもとで過ごしていたのだと鳴葉は気づいた。

 琉汀は彼女の問い掛けに答えず、一方的に言い放った。


「お前たちは必要ない。去れ」


 琉汀の示す先には雄狼の姿がある。琉汀に投げ飛ばされて失神したのだ。雌狼は琉汀を見つめながら、失望の色を隠せない様子で項垂れていた。

 鳴葉はその反応を不思議に思ったが、琉汀がぐるりと方向転換して、彼の体のあちこちに鼻をくっつけ始めたため、意識は自然とそちらに向いた。


「怪我は?」

「僕はないよ。でも玲牙が咬まれたんだ」


 鳴葉がそう言うと、琉汀はあきれた様子で玲牙を一瞥した。


「大口を叩いておいてこのざまか」

「うる、さい……!」


 鳴葉は琉汀の毛をついばみ、焦れたように言う。


「玲牙を伊水様のところへ連れて行きたい。力を貸してくれる?」

「鳴葉がそれを望むなら」


 琉汀は身をひるがえし、玲牙を軽々くわえた。玲牙は片足に力が入らないようで、とても軽傷とはいえない状態だ。

 鳴葉は狼一家を見遣る。彼らは倒れている雄狼を囲い、目覚めるのを待っているようだ。


 争えば弱いものが傷つく。傷つかないよう、強いものと群れる。そうすることでしか自分の身を守れない。自分の力量を理解し、受け止め、行動する賢い選択だ。狼はそうして生き長らえてきた。だからこそ雄狼は、もっと他に選ぶ道があったのではないか。家族を失い、想像を絶する悲しみを抱えたのだとしても、彼を失えば他の家族も同じ道をたどるだろう。主導者が感情に流されすぎれば、弱きものごと崩壊してしまう。

 鳴葉の爪が地面に食い込む。


(でも、同じ状況に陥ったとき、僕もあの雄と同じ道を選ばないと言えるか? どうしたら良かったかなんて、結局、後になってみなきゃわからないのに)


 ひとの行いを断じる口だけの存在になっていないか。彼らを見ると、鳴葉は不安になる。群れを守れるだけの賢さと力が、果たして自分にあるだろうか。


「おい、お前……、鳴葉! ぼーっとしてんな」


 一向に動かない鳴葉を訝しんで、玲牙が声を掛ける。鳴葉が振り返ると、琉汀はぽかんと口を開けて佇んでおり、玲牙はといえば緩んだ口から落とされまいと、足と尾で釣り合いをとっていた。


「は? 急に馴れ馴れしいが?」

「い、いいだろ、別に。鳴葉だって、俺を名前で呼、いてぇ! おい、牙! 背中に当たってる! わざとだろ!」

「重ねて呼ぶから正気を失っているのかと思った。そうであれば、お前を埋めてやれたんだが。なに、鳴葉の頼みでなくても海草くらいは添えてやる」

「そこは肉を添えろよ!」


 まるで子どものケンカだ。

 鳴葉は追い越しざまに自身の横腹を琉汀に擦りつけ、意識をこちらへ寄せる。


「お待たせ。行こう、琉汀。玲牙もあんまり動くと傷が深くなるよ」

「……フン」

「さ、走るぞ」


 そう言って琉汀は本当に走り出したので、玲牙が怒号を飛ばす。


「痛いだろうがふざけんな!」

「ふざけていない。わざとだ」

「なおさら悪いだろうが!」


 鳴葉は賑やかな声に小さな笑みをこぼして、ふたりを追いかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る