心のうち

 名前を呼ばれている。

 鳴葉は遠吠えを背にして走っていた。


 海に接する緩衝地帯は、なぜだか少し恐ろしい。目に入る色が冷たいからだろうか。思えば少し、冬の空気に似ているかもしれない。

 木の根は深い青色で、幹から枝先にかけて白に変わる。重なりあった葉の下には実のようなものがぶら下がっていた。実のようなもの、と妙に曖昧なのは、鳴葉にとってそれはとても寒い日に見られる『つらら』によく似ていたからだ。つららの先は尖るものだけれど、この実は先がぽきりと折れて平らになっている。実は非常に硬く、到底食べられたものではないが、舐めると甘酸っぱくて美味しい。たまたま実を舐めていたリスに出くわさなければ、おそらく一生知り得なかっただろう。風に吹かれて実がぶつかり合うと、アメンボが起こす波のような柔らかさをもつ、大層涼しげな音を響かせる。それが『リン……』と鳴るたび、鳴葉の尾はぴくぴく揺れるのだった。


 さらに進むと獣の群れに出くわした。短い草ばかりなので、身体を伏して寛いでいる姿がよく見える。白い体毛の獣は、顔と耳、尾だけが黒ずんでおり、瞳は雨粒越しに見る空のように冴えている。

 鳴葉は横を通り過ぎようとしたが、その不自然さに足を止めた。

 鳴葉に気づいて群れのいくらかが逃げ出す。軽やかな身のこなしで跳躍すると、自らが乗った枝を大いに揺らして鳴葉を威嚇した。草地に残ったものは眼光鋭く睨みつけてきたものの、鳴葉に狩る気がないと判断したからか、視線をそっと外してむしゃむしゃ草を食べ始めた。上下に分かれた彼らの外見はとてもよく似ていた。けれど、体の形が違う。


「種族が違うのに、一緒に暮らせるんだ……」


 鳴葉は呆然と呟いた。

 不自然さの正体は種族だった。

 上に逃げ出したのがサルで、下に残ったのがネコである。別々の種族が共に過ごすのを見たのは初めてだ。寝そべるネコの下敷きにされているサルや、サルに獲物を分け与えるネコ。互いに毛づくろいし合う彼らが、今の鳴葉にはどうにも受け入れがたく感じた。



 時は昨日の夕暮れまで遡る。

 最終試練を終えた鳴葉は、人狼の資格ありと認められた。仮居で待っていた琉汀は、伊水の決定にいたく喜び、普段の落ち着きを忘れたかのように飛び跳ねた。鳴葉は琉汀を尻目に、核をもらい受ける場について伊水と話しを進めていた。

 縄張り外の狼が試練を受けに来た場合、核の受け取りに際し、人狼は自らの居で狼を休ませる。核を体に馴染ませながら、狼の役目について語るために設けられた場所でもあった。しかし、それらはあくまで任意であり、狼が必要ないと判断すれば帰路についても構わないのだという。

 鳴葉は既に十分な知識を得ていた。したがってその申し出を快諾するならば、相応の理由を探さねばならなかった。さもなければ自らの出番だとして、琉汀が鳴葉に寄り添い、懇切丁寧に説明をし始めるだろう。

 鳴葉はそれらを十分に承知したうえで、居への立ち入りを願い出た。彼はどうにかして琉汀と離れる口実が欲しかったため、この機を逃すわけにはいかなかったのだ。

 すると、琉汀は「いやだ」の一点張りで譲らない。鳴葉がありとあらゆる言葉を使っても琉汀は首を縦に振らず、鳴葉と離れ、ひとり仮居に置いて行かれるのを嫌がった。

 鳴葉は仕方なく実力行使に出た。


「僕は譲らない。琉汀も譲れないっていうなら、争って決めるしかない。白黒つけようか、琉汀」


 上下をつけるときの争いは、意志の強さを主張するのが目的だ。示し方は牙をむき出しにして威嚇したり、尾を太くして反り上げたりするなど様々である。一方が引けば強者の案を採用し、双方どちらも引かないのであれば、それぞれ別の手段で事を進めるときもあった。

 鳴葉は頭を低く、尻を高くした。彼は尾を綿毛のように膨らませるのが得意だった。

 鳴葉が構えると、琉汀は体を伏せて不承不承に言った。


「争う気はない。……わかった。鳴葉に従う」


 そうしてふたりの争いは、始まる前に終結し、琉汀はひとり仮居に残ったのだった。

 鳴葉が伊水の居に入ったとき、まるで色合い豊かな果樹の地に迷い込んだような心地になった。日差しの下であれば、より華々しく目に映っただろう。

 伊水によると、気がかりだった玲牙の怪我はそう深くなく、命に別状はないらしい。縄張り争いを知った家族に泣かれ、玲牙があたふたしていたとも笑いながら教えてくれた。さらに、「自分は役に立たないからこれくらいは」と口走ったせいで、みっちり怒られていたとも。


 核の受け渡しは事前に聞いていた通り、あっさり終わった。鳴葉が身構える暇もなかったため、彼は小首を傾げたほどである。

 伊水は鳴葉の胸元を指さした。


「ここに意識を集中してみて」


 鳴葉が言われた通りにすると、ほのかな熱を感じた。彼は尾を真っすぐ立たせて伊水を見る。伊水は満足げに頷いた。これで人狼に関する作業は、全て終わったのだ。


「僕、人狼になれたんだ。これで……、あの、伊水様にお願いがあるんです。力を貸してくれませんか?」


 鳴葉はそう切り出し、伊水に自らの計画を打ち明けた。

 伊水は眉を寄せ、間に縦皺を作りながらも黙って聞いていた。

 あらかた話が終わったあとで、伊水は気乗りしない様子で言った。


「琉汀を置いていくのは、あまり現実的ではないわね。きっとすぐ見つかってしまうし……、余計な刺激を与えるだけだと思うわよ」


 難色を示す伊水に鳴葉の尾がしおれる。だが、鳴葉も必死だった。鳴葉は人魚と琉汀についても語る。すると、伊水はどうとも表現し難い反応をしてみせた。


「噂でそれっぽい話を聞いてはいたけれど、ねえ。琉汀、人魚、琉汀……うーん、そうねえ」


 判然としない態度だが、伊水は何か知っているようだった。

 鳴葉は両耳を立てる。


「伊水様、それはどんな噂なんですか?」

「どんなと言われると。結局は又聞きだし、途中であれこれねじれている前提の話になるわよ? それに知っていても全部は話せないわ」

「僕の聞ける範囲で構いません」


 食い下がる鳴葉に、伊水は「話してもいいのかしら」とか「こじれたりしないかしら」などと呟いたのち、迷う素振りを残しながらも話し始めた。


「なんでも琉汀には運命の相手がいて、その狼を手に入れるために、人狼の協力を取り付けたとか。だから彼女は人狼の間で有名なの。人狼に協力させるんだから、相当な熱愛じゃないか。陽炎様と止柊様に続く、愛の物語が始まるんじゃないかって、そういう……め、鳴葉? どうしたの? も、もしかして、その……これはあなたが望まない話だった?」


 伊水の顔が青ざめる。鳴葉は無言で首を横に振った。


「……それなら、嫌じゃない?」


 確かめるような声音に、彼は顎を引いた。


「嫌じゃないのね?」


 今度は尾を左右に二度揺らす。


「ああ、良かった!」


 伊水は両手を握りしめて微笑んだ。運命との仲を邪魔するとでも思われたのかもしれない、と鳴葉は思った。彼の内部は既に冷え切っていたが、いつもの笑みを浮かべるのに、なんの苦労もなかった。


「伊水様」

「なにかしら?」

「明朝。彼女がここへ来たら、伝えて欲しいことがあります」


 その頃にはもう、僕はいないでしょうから――。


 鳴葉がそう告げると、伊水は水を断たれた芽のように悄然とし、顔を両手で覆ったのだった。



 走っていると、前方から独特な匂いが漂い始めた。じきに海へ着くのだろう。

 ここまでの道は伊水に聞いた。海は常に風が吹いているので、においを辿る獣にとっては難所になるという。鳴葉はしばらく海で身を隠し、夜になったら琉汀と過ごした洞窟へ向かうつもりでいた。


「そういえば、あれからなにも言ってこないな」


 遠吠えで名を呼ばれたきり、琉汀の声は聞こえなくなった。彼女がどこで何をしているかもわからない。鳴葉を諦めて、遠くへ行った可能性もある。

 考えごとをしながら木々の合間を走っていたせいで、鳴葉は段差に気づくのが遅れた。体を傾けて急停止する。そうして視界いっぱいに広がる光景に息を飲んだ。


「きれい……」


 ちかちか光る空が、地に横たわっている。砂と水面の狭間には、雲が消えては生まれ、浜辺を撫でつけていた。

 鳴葉の足が誘われるように動いた。見ているだけで、水辺に引き寄せられる。

 砂の上を歩くのは初めてだ。よろけそうになるが、今までにない感覚が新鮮だった。濡れた砂に爪が埋もれる。泥とは異なる感触に尾が揺れた。

 水溜まりとは全く違う。風も湿っていて、少し塩気がある。横歩きしている赤い生き物、あちらこちらに散らばる薄く白い石。荒々しい岩肌の海蝕洞窟。海の向こうにうっすら見えるのは山か、それとも島か。


 鳴葉が目を凝らしていると、耳がしびれるほどけたたましい音が響き渡った。鳴葉が驚いて空を仰ぐと、見覚えのあるトリが上空で旋回している。大きな翼を広げて飛ぶ姿は圧巻だった。トリは三度回ったのち、伊水の縄張りの方へ去って行った。魚を食べに来たわけではないようだ。

 鳴葉の視界は、再び海で満たされる。


「琉汀もこの景色を見たのかな」


 そう思うと過去を共有しているようで嬉しく、同じくらい寂しい。寒くはないのに、体がぬくもりを思い出して、ひとりでに恋しくなる。琉汀を置いてきたのは鳴葉だ。それなのに、置いていかれたようなむなしさを覚える。

 足元で光がちらついた。首を伸ばして正体を探る。小魚だった。鳴葉が足を動かすと、クモの子を散らすように逃げていく。


「僕もここから離れて隠れなきゃ」


 水面にぽつりと落ちた言葉とは裏腹に、鳴葉の体は動かない。すると、また魚が寄ってきて、鳴葉の近くですいすい泳ぐ。群れで動くさまは狼に似ていた。鳴葉は耳を下げ、何も考えず、ぼうっと魚の姿を追う。今はただそうしていたかった。

 ぽつん、と滴が落ちた。ひとつ、ふたつ。みっつと目から零れ落ちて、鳴葉はもう堪えきれなくなった。


「琉汀は僕の運命じゃなかった。琉汀はもうとっくに、自分の運命を見つけていたんだから」


 鳴葉は涙を流しながら笑っていた。しかし、ついにその顔はくしゃりと歪んだ。


「好きなひとがいるなら、そう言ってよ!」


 痛みで胸がはち切れそうだった。

 頭の中で実落の声がする。


『どんなに相手が立派でも、好意を持ったとしても、本当に信頼できるか時をかけてでも確認すること』


 琉汀の目的は、鳴葉を人魚へ引き渡すこと。それだけは常に、僅かもぶれなかった。その目的のために彼女は鳴葉の警戒を解き、心をほぐした。ただ、自分の心を奪ったのは彼女の計画外だったはずだ、と鳴葉は思う。

 人魚が自らの運命として――間違いなく番としての意味で――鳴葉を望んでいるのに、心を奪ってしまっては本末転倒だろう。それとも二心をいだく番を好むような、稀有な趣向の持ち主だったのだろうか。

 鳴葉の眉ひげが力なく下がる。


「僕だって……、君が運命を想うくらい、好きだったんだ」


 白い毛は誰にも舐められていないのに、びしょびしょに濡れていた。



 しばらくして鳴葉は頭を上げた。

 日はとうに高く、足元の魚は消えて風向きも変わっている。

 鳴葉は息を細く吐き出してから振り返る。離れた場所には琉汀がおり、柔らかな風に毛をそよがせて座っていた。

 見つけてくれた喜びよりも、どうして来たのかという苛立ちが勝る。

 ややあって、琉汀が腰を上げた。足音が鳴葉の耳を通って抜けていく。波にかき消されているのもあるが、単純に砂地の歩き方を心得ているようだった。


「僕のにおいを辿ってきたの?」

「いいや。トリが教えてくれなければ、私は気づかず通り過ぎていたさ」

「トリに? それは考えもしなかったな」


 単独狼の力を詳しく聞いておくべきだった。瞠目する鳴葉を琉汀が睨みつける。


「どうして私から離れた」


 鳴葉は薄く笑った。


「なぜ」


 鳴葉に問いかける琉汀の口がわななく。

 鳴葉は歯の上下を擦りつけた。下手に弁解しようものなら、奥底に隠した感情までまろび出てしまうからだ。


「だんまりか。では聞き方を変えよう」


 琉汀は苛立ちを尾に乗せて話した。


「心に決めたひとがいる。だから人魚には会えない。琉汀は運命と幸せに。鳴葉からの言伝だと伊水が言っていた。真実に相違ないと?」

「ない」

「……」


 全てではない。だが、おおむね真実だ。

 琉汀はきつく目を閉じたかと思うと、彼女らしかぬふらふらした足取りで近づいてきた。


「それは誰だ」

「……」


 鳴葉は無言を貫く。すると、琉汀はむき出しにしていた敵意を器用に片づけて、無垢な子リスが地面まで下り、首を傾げて木の実をねだるようなあざとさを取り出した。


「教えて」


 それでも鳴葉が答えないと知ると、あざとさを引っ込めた琉汀は実力行使に切り替えたらしく、彼の項を噛んで引きずった。


「放せ! 僕は行かない!」

「そうだ。鳴葉はどこにも行かない。私の傍にいるんだ」


 口調は軽いのに毛がちりつく。琉汀の怒気が伝播しているようだ。


「琉汀の傍にもいられない。僕は人魚に会いたくないんだ。会いたくないから、君を置いていったんだ!」

「だから、それで誰に会いに行くつもりだったのかと聞いている。おかしいだろう。私をあんな目で見て、あんなことを言っておきながら、今更……今更、他の獣など……」


 琉汀は鳴葉の言葉を待たずに、とんでもないことを言った。


「鳴葉は私が好きなんだろう! それなのに、よくもそんなでたらめを言えたな!」


 ――カチン。鳴葉の体の内側で岩がぶつかり合うような、高い音が鳴った。同時にカッと熱くなる。その勢いは、さながらごうごうと唸りながら雨を降らせる嵐のようだ。

 鳴葉は引きつった喉を動かして大声をあげた。


「たった今嫌いになった!」

「……」

「うわっ」


 両脚が砂にもぐる。鳴葉が振り返ると、琉汀は鳴葉を凝視したまま固まっていた。

 この機に乗じて逃げるか、と鳴葉は考えた。しかし、どうにも琉汀の様子がおかしい。鳴葉は二歩下げた足を見下ろし、鼻を振った。


「琉汀……?」


 鳴葉が名前を呼んだ途端、琉汀は朽ちた大木がなすすべなく横倒しになったときのような無防備さのまま、鈍い音を立てて倒れた。鳴葉は仰天して飛び退き、同じ速さで駆け寄る。


「えっ! ど、どうしたの。ちょっと、ねえ、大丈夫?」


 四肢を伸ばして横たわる琉汀は呆然としており、鳴葉がいくら声をかけても、うんともすんとも言わない。

 赤い生き物が濡れた砂の上をてくてく歩く。海に来たとき、真っ先に見かけたものの仲間だろう。横に移動する奇妙な歩き方をしている。途方に暮れる鳴葉の視線に気づいたのか、それは立ち止まり、一拍置いて目にもとまらぬ速さで去って行った。

 誰の助けも望めないと知った鳴葉はうろたえた。回らない頭で琉汀に覆いかぶさる。こうして触れ合うと彼女が喜ぶと知っていたからだ。


 琉汀が元通りになることを願う半面、知恵を絞って彼女から逃げてきたというのに、正気に戻そうとありとあらゆる手を使うなど、もう全てが台無しだと鳴葉は笑うほかなかった。

 鳴葉が何をしようとも、琉汀は反応しないままだ。


 ふたりの状況に呼応するかのように、しだいに雲行きが怪しくなってきた。

 水面の輝きはとうに消え、一変して寂しさをあおるような空模様になっている。

 このままでは雨に打たれる。だが、鳴葉に琉汀を運ぶ力はない。

 湿った鼻に雨がぽつぽつ当たる。

 鳴葉は琉汀を真似て、通りがかったトリに吠えてみたけれど、彼らは鳴葉に胡乱な目を向けて飛び立ってしまった。


「伊水様を呼びに戻りたいけど、今の琉汀を置いていくわけにもいかないよな。せめて遠吠えが届く距離に人狼がいれば、……あっ」


 鳴葉は唐突に閃いた。そして、すぐさま自分の体に念じる。彼はそうするだけで人狼になれると説明されたが、正直、半信半疑だった。


「うわ……本当に人狼になった……」


 瞬きのうちに鳴葉の手足が変化していた。

 鳴葉は立ち上がり、体を動かす。四肢は問題なく自分のものだった。しかも、不思議と体の動かし方がわかる。伸びた毛が背を撫でて、屈むと視界の横を遮った。鳴葉はそれを手で乱暴に払って背へ流す。

 衣の形は伊水に近い。首から腹部にかけて密着している上衣は、黒色でやや透けている。背中を覆う布はないけれど、毛で半分は隠れている。厚手の下衣は止柊のものに似ていた。動きづらさは露ほども感じられず、衣は狼の毛と同じくらい鳴葉の身に馴染んでいる。


 鳴葉は琉汀を持ち上げるとき、危うく後ろに転がりそうになってしまい目を剥いた。彼は腕の中にいる琉汀を抱え直すと、慎重な足取りで砂の上を行く。

 海蝕洞窟の中はひやりとした空気が漂っていた。岩も同様に冷たい。ここへ来る前に草をいくばかむしってくるべきだったと鳴葉は悔いた。探しに出ようにも、やはり琉汀からは離れがたく、雨も強くなるばかりだった。

 鳴葉は砂を蹴った。地表は濡れても地中は乾いている。砂を撒けば多少は冷たさも紛れるだろうと思ったからだ。ただ、一蹴りで砂浜を作り出すほどの力があるとは、彼も予想していなかった。


 いつか陽炎にしてもらったときのように、琉汀の頭を太ももに乗せる。それからネズミを舐めるような優しさで、黒毛に手を滑らせる。雨音を聞きながら、鳴葉は琉汀を撫でていた。

 鳴葉はときどき琉汀の首に手を当てた。それから鼻先に指を近づけ、呼吸を確認する。

 何度かそれを繰り返したあと、琉汀が身じろいだ。鋭い視線が指の持ち主をたどっている。起き上がろうとする琉汀から鳴葉が手を離したところで、紫陽花の瞳が丸くなる。


「……鳴葉?」

「うん。僕」


 鳴葉は満面の笑みを浮かべて返事をしたが、すぐに眉を曇らせた。


「琉汀が突然倒れてびっくりしたよ。あのあとすぐ雨が降ってきたから、近くの洞窟に移動したんだ。下、砂をまいただけなんだけど、冷たくない?」


 体を起こすのを途中でやめた琉汀は、尻尾をばたりと動かした。大丈夫の合図だろうと判断し、鳴葉は頷く。


「体はどうしたの?」

「……問題ない」

「問題ないわけないだろ。あんな倒れ方して」


 すすきのような尻尾をふたたび、ばたり、ばたりと動かす。鳴葉は琉汀が自ら口を開くまでじっと待った。

 琉汀は鳴葉の視線から逃げられないと察したらしく、瞼を下ろして、まるで嫌いなムシを無理やり食べるような顔をして言う。


「運命の相手にき……い、と言われたから、倒れた」

「き、って。もしかして、きら……」

「それ以上言うな」


 干からびる寸前の苗のように弱弱しく言うものだから、鳴葉は同じ言葉を繰り返すのをやめた。だが、ほんのさっき、鳴葉も力強く琉汀に言ってしまったばかりだ。知らぬ間に追い打ちをかけたらしい。


(嫌いだって? もしかして僕のにおいをさせて会ったのかな? だったら、そりゃあ怒るよ……。でも、これからは一緒にいられるのに。琉汀も琉汀だよ。どうして嫌いと言われたくらいで、運命を放ってこっちに来ちゃったんだ。君にとっての運命はその程度のものなの?)


 鳴葉は少々苛立ちを覚えたが、傷心する彼女を問い詰めるのはさすがに酷だろう、と思い直した。それに鳴葉は既に人狼だ。いくら知った仲とはいえ、狼同士の問題に突っ込める首はとうに失っている。

 項垂れて「そう」とだけ言う鳴葉に、琉汀は「いつ言われたと思う?」と自分から話を振ってきた。傷をえぐって欲しいのかと鳴葉は困惑する。


「聞かない。また倒れたら困るだろ」

「ついさっき言われた」

「自分で言うならなんで聞いたの?」


 鳴葉は琉汀の右耳を軽く引っ張った。

 とにかく琉汀は話をここで終わらせたくないようだった。会話で気持ちをまぎらわせるのはよくある話である。鳴葉に悲しみを吐き出し、消化したいのかもしれない。だが、鳴葉は彼女にこっぴどく振られたばかりだった。振った相手に自分の恋路を聞かせようとするなど、良心の欠片もないが、いくら無視しようとしても、琉汀は持ち前の粘り強さを発揮して諦めないのである。

 鳴葉は琉汀の耳を手放して、これ見よがしにため息を吐いた。


「わかったよ。君ってひとは、本当にもう。運命にきら……、えーと、そう言われた理由はわかる?」

「私が気持ちを言い当てたからだと思う」

「それでなんでき……って言うんだろ。照れちゃったのかな。それでつい、言い返したとか?」


 決定的な言葉を言おうとすると、琉汀の体が強張る。鳴葉が不自然に言い直しているのはそのせいだ。


「原因がわかるなら話は早い。ちゃんと謝った?」

「それどころではなかった」


 鳴葉は元気を無くしてしおしおと傾く耳に手を伸ばした。ついでに裏側を指でかいてやる。


「……すまない。悪かった。許して欲しい。どうか私を好きなままでいて」


 鳴葉の息が止まった。それを悟らせないよう、彼は意地でも手を動かし続けた。

 琉汀は焦れた様子で起き上がる。


「どうだ?」

「どうって、僕に言われても」

「鳴葉が私に言ったんだ」


 鳴葉は心の中で頷く。


(確かに言った)


 同時に得心した。琉汀は保証が欲しいのだろう。これで鳴葉が許せば、運命も許してくれるに違いないと、そう思いたいのだ。いつもの偉そうな態度とは正反対のしおらしさに、どれだけ運命の存在が大きいのかが知れた。

 鳴葉はひび割れそうな気持ちをひた隠しにして微笑んだ。


「大丈夫。きっと許してくれるよ」

「だから……、お前に、鳴葉に聞いているのに、どうして答えない? 私をどう思っている?」

「それは……」


 嘘をつけば見破られる。だから鳴葉は包み隠さず答えた。


「君が幸せであればいいと思ってる」

「鳴葉!」

「もういいだろ? この話はおしまい」


 手をひらりと振った鳴葉に、琉汀が近づく。ふたりの口が触れ合った。その行為は鳴葉にわずかな熱を与えた。食事をねだる仕草のはずだった。けれど、鳴葉は全く違う意味を持っているように感じた。


「私は鳴葉が好きだ」


 鳴葉は考えるより先に手が伸びた。琉汀を引き寄せ、きつく抱きしめる。


「嘘つき。そんなこと言っちゃだめだよ」

「嘘なんてついていない! 私は――」

「それは君の運命に言う言葉だ。少なくとも人魚が運命の僕にじゃない。そうだろ?」


 人狼になって良かった。

 鳴葉は心の底からそう思った。鳴葉の腕を振りほどこうとする琉汀を、こうも簡単に押さえつけられる。


「暴れないで。こうさせてよ。これで最後にするから……いった! 痛い!」


 鳴葉の叫び声が反響する。二の腕に牙が食い込んでいる。鳴葉は信じられない思いで琉汀を突っぱねた。すると、今度は手を噛まれた。鳴葉の目尻に涙が浮かぶ。


「痛いよ……噛まないでよ……。どうして噛むの? きっと血が出てる……」

「出てない」


 鳴葉の訴えは小さく弱い。琉汀の言うとおり血は出ていないけれど、彼女は目をトゲのようにつり上げて、ふぅふぅと息をしている。深いしわを鼻にくっきりと刻み、毛を逆立てながら、琉汀は親切にも告げた。


「大人しくして。傷つけたくない」


 牙は離さないけれど、鳴葉の肌が傷つかないように加減してくれているらしい。

 琉汀は鳴葉にのしかかる。押し倒された格好になり、衣擦れが耳に入った。鳴葉の鼻が低くなったせいで琉汀とはより近く、毛が薄くなった肌はより敏感に彼女を感じとる。鼻同士を触れ合わせると、また熱が欲しくなった。喉をそらせて顎を傾ける。薄く開いた口から見える舌を互いのもので擦り合わせたら、どんな熱が生まれるだろう。

 焦がれる想いが先走り、鳴葉の頬を涙が伝う。


「琉汀。僕のものになってよ」


 鳴葉は咄嗟に手を当てて唇の隙間を塞いだ。言葉で希うなど、狼にあるまじき行為だった。

 白くなるまで握った手に、琉汀が口吻を押しあてる。鳴葉の好きな青紫の瞳がじわりと潤んだ。梅雨明けの紫陽花を間近で目にすると、記憶の隅から、甘いにおいが香り始める。


「私はずっと前から鳴葉のものだ」


 鳴葉が首を傾げると、琉汀は泣き笑うかのように破顔した。


「幼い頃、私と同じ目の魚を捕まえた話をしただろう? そのときの魚は私だ。そして、その魚は人魚でもあった」


 琉汀はそう話しながら、鳴葉の頬を濡らした涙を舐めとった。


「鳴葉の運命。訳あって今は狼……、人狼になっているがな」


 固まった鳴葉の片耳を琉汀がしゃぶる。


「獣は人魚を知らなすぎる。だから人魚は陸に上がると苦労するんだ。連想する土台がないから、鳴葉は頑なに私を人魚だと認められない。そればかりか、さも自分には他のものがいるような口ぶりで……。実際にいるんだったか? そんなやつが。いったいどこの誰だか知れないが、私の方が賢くて強いんだ。どんな奴でも私を見たら尻尾を巻いて逃げ出すだろう。選ぶ前で良かったな」


 琉汀は自分が噛んだ部分を重点的に手入れしながら、嬉しそうに尾を振っている。彼女はさらに続けた。


「よく考えてみて。鳴葉を無理やり私以外のものに渡すつもりだったとしたら、そんな私を陽炎や止柊が笑って許すと思うか?」


 鳴葉は力なく首を振った。


「思わない。思わないけど、話についていけない……」

「つまり私と鳴葉が運命で、互いが互いを好いている。ひとたびくっついたらもう離れられない!」


 まさに双宿双飛だとでもいうのだろうか。

 鳴葉は指の隙間から琉汀を見る。彼女は取り乱したのがまるで嘘のように、いつもの自信ありげな笑みを浮かべていた。

 鳴葉は空いた方の腕で琉汀の頭を抱き寄せる。


「君が人魚で、僕がその運命。だから僕の運命は人魚で、君の運命は狼だった、と」

「そうだ」


 琉汀が前のめりで返事をする。それに対して鳴葉は、あいまいに笑うだけで何も言わなかった。


「信じないのか」

「どうだろう……いろいろこんがらがってて、僕もよく……。君に騙されてるんじゃないかって疑う気持ちも、少しある」


 鳴葉は琉汀を抱きしめてにおいを嗅ぐ。鳴葉が力を抜くよう促すと、戸惑う気配はあったが、彼女は黙って鳴葉に身を預けた。

 しばらく琉汀の体臭を吸っていた鳴葉は、あるひとつの答えを出した。彼は狼の姿に戻ると、臆することなく「話がしたい」と言った。琉汀はすんなり了承したものの、鳴葉の隣に座りたがる彼女を正面に置くのは、ことのほか苦労した。

 これは真面目な話し合いだと示すように、鳴葉は背を正して言った。


「君が人魚であり、なおかつ僕の運命である件についてよく考えた結果、信ぴょう性が薄いとして結論は後日改めることにしました」

「……」

「なんでそんな目で見るんだよ! 狼だけど実は人魚でした、って早々ある話じゃないんだからね! しかもあの魚とにおいだって違うし……。ともかく、自分が特異なことを言ってる自覚を持って」


 人魚に関する情報元は全て琉汀だ。鳴葉だけでは判断できず、答えを出せない。


「まぁ、今はそれでいい。日々わからせる。それより心に決めた相手とは誰だ?」

「君だよ」

「キミ? ……私?」


 鳴葉はこくりと頷いた。


「琉汀だって自分で言ったじゃん。私を好きなくせに、って。そうだよ。僕は君が好きなんだ。琉汀にも僕を好きになってもらいたくて必死だったんだから。でも、これからは君の隣に立てる。僕、琉汀を守れるようにもっと強く、賢くなるよ。それから僕にしか腹を見せられないようにする。君を僕だけのものにして……。そうだ、琉汀、聞いたよ。君、人狼に協力させてまで運命の狼を自分のものにしたかったんだってね。僕はてっきり、君に他の運命がいるのかと思って、すごく悲しかった」


 琉汀はしなびたニンジンのように、くたくたになっている。鳴葉は続けて言った。


「でも、僕も君を傷つけた。だから、うん。やっぱり責任を取るべきだと思う。お互いの一生をかけて。どう?」


 琉汀は水を浴びたニンジンに戻り、しゃきりと体を伸ばした。かと思えば、寝転び、四肢を広げて大胆に腹を見せる。

 鳴葉は明け透けな想いに身震いし、彼女に覆いかぶさった。



 しとしと雨が降り続いている。

 遠吠えと甘噛みで情を確かめあったあと、鳴葉は琉汀に包まれていた。置いていかれたのがよほど堪えたらしく、鳴葉が身じろぐたびに拘束が強まる。だから鳴葉は極力動かず、彼女に身を預けてだらけきることにした。


「あのとき、私は鳴葉に救われたんだ」


 鳴葉は記憶を探る。だが、やはりにおいと瞳の色以外は思い出せなかった。

 琉汀は破顔する。


「昔のことだ。洞窟ではああ言ったけれど、鳴葉が忘れてしまってもおかしくはない。が、知っておいて欲しいという思いはある。というわけで、これから昔話をしよう」


 鳴葉は耳を揃えて琉汀に向けた。

 琉汀が川辺に打ち上げられ、死を覚悟したあの日。琉汀は父と仲間の後に続き、初めての巡回をしていた。

 人魚にも治めるべき海域がある。琉汀の家族の管轄は、大雑把にいうと、ふたりがいる海蝕洞窟から嘉代の山、さらにその先も含めた海域だった。鳴葉が落ちた川もその中に含まれているらしい。川は水深が浅いので、人魚は魚に姿を変えて移動するという。

 共に行動していた仲間から、海とは違う川の危険を教えられたが、幼い琉汀はそれ以上の冒険に胸を膨らませるのに忙しくて、ろくに聞いていなかった。

 そうして琉汀は、気づけば川岸に打ち上げられていた。どれほど気を失っていたのかは定かではないけれど、鱗が乾き始めるだけの間、陸にいたのは確かだった。水の中に入らなければ、魚から人魚に戻れない。だが、川に戻ろうともがくほど、徐々に呼吸が苦しくなっていく。不安と後悔にさいなまれながら薄れゆく意識のなか、ひとりの狼が琉汀の前に現れた。


「それが鳴葉、お前だ」


 幼い鳴葉は琉汀をくわえると、川に浸すだけでなく、魚の意識を取り戻さんと手を尽くしてくれた。舐めたり噛んだりするのが狼の愛情表現だと、琉汀が知ったのは後になってのことだった。

 鳴葉は表情に出さないよう気をつけながら、こう思った。


(助けようとしたんじゃないよ。家族に見せびらかしてから、自分の獲物として食べるつもりだったんだ)


 川岸に転がっていたなら、魚は砂で汚れていたはずだ。そのまま食べられないこともないが、口の中がじゃりじゃりしてしまう。近くに水場があったなら、まず汚れを落とすはずだ。そうして食べた方が間違いなく美味しい。

 鳴葉はそう予想しながらも、話には水を差さずにおいた。鳴葉は当時のやりとりを忘れてしまっている。琉汀が助けられたと感じたのなら、それもまた正しい。


「そのお礼を言うためだけに、狼になったわけじゃないんでしょ?」


 鳴葉が肩越しに振り返ると、琉汀はしたり顔で頷いた。


「そうだ。鳴葉と番うためになった」


 人魚は一生に一度だけ、己の核を変質させ、別の種族に転じる能力を持つ。運命の相手を迎えに行くためだけに使う、人魚にのみ許された呪いのようなもの。鳴葉を迎えるべく琉汀は儀式を行い、狼――人狼になったという。

 また、人魚は人狼と同じく核を二つ持っている。質は違うようだが、人魚の核を――こまごました手順は省かれたが――鳴葉に渡す儀式を行えば、鳴葉は人魚に転じ、海の中で生きられるようになる。


「簡単にまとめると、二つある核のうち一つを使い、運命と同じ姿になる。無事に運命と気持ちが通じた後は、もう一方の核を運命に渡し、獣を人魚へ変える」

「琉汀は? 人魚に戻れる?」

「もちろん。狼に変えた核を元に戻せばいい。これは獣に変わるよりもはるかに簡単だ」


 知れば知るほど複雑怪奇な生き物だった。

 鳴葉は砂を集めて小さな山を作った。天辺に爪を差し入れ、渦のように動かし崩す。


「確認だけど、僕に人狼の試練を受けるように仕向けたのは、狼のままじゃ儀式ができなかったから?」

「そうだ。どうも狼という種族は、大地との繋がりが深いようでな。狼のままでは人魚にしてやれなかった」

「なるほどね。でも、それなら白良様のところへ寄ったのは? 人狼のなり方だけなら、陽炎様たちに聞いても良かっただろ」


 散らばった砂を大きな足がかき集める。


「鳴葉には誰かの望むように生きる道のほかに、自ら選んで歩く道もあると知って欲しかった」

「君も、僕が誰かのために生きてるって思ったの?」

「少なくとも会ったばかりの頃は、自分より家族を優先していただろう」

「それは悪いこと?」


 鳴葉が尋ねると琉汀は首を振った。


「物事は良し悪しどちらも兼ね備える。たとえば獲物を狩るとき、道を選ぶだろう? ぬかるんでいるが、獲物まで最短の道。駆けやすいけれど、視界が悪い道。万全はなく、どちらをとっても一長一短だ。ただ、獲物に見合った道を選べれば、容易く追い詰められるかもしれない。そのとき選ぶ道がひとつしかないのと、多くの道からひとつを選ぶのとでは、視野の広さが全く違う」


 鳴葉は再び山となった砂に爪を入れる。

 基準は家族。家族ありきの鳴葉。単独で生きられないなら、上位の狼に従って生きるのが、弱い狼の正しい生き方である。


(僕は従う道を選んできた。そもそも、他の道を選ぶ気もなかった。だってそのままでも僕は幸せだったんだから)


 父母に教えを受け、家族とじゃれ合い、敬愛する人狼の縄張りで過ごす。居心地の良さから、縄張りを離れていく家族に疑問を抱いた時期もある。縄張りで過ごした日々は、鳴葉にとってまぎれもなく幸福だったのだ。

 ただ、琉汀は勘違いをしている。鳴葉に新たな道を示したのは、白良ではなく琉汀だ。人狼になる方法を陽炎や止柊も教えてくれようとしたけれど、鳴葉が不要だと拒んだのである。琉汀の目論見通り、白良が新たな風を運んだのは事実だが、琉汀との出会いがなければ、鳴葉は今もただの狼でいただろう。

 鳴葉は肉球で砂山を崩し、平坦にする。


「君はすごいね。どれだけ視野が広いんだろう。僕が人狼になれなかったときの方法も考えてそうだ」

「そのときは私が狼として生きるさ」

「じゃあ僕が琉汀を好きにならなかったら?」

「私は泡になる」


 鳴葉は首を捻る。


「水の中でぶくぶくしてる、あの泡?」

「そう」

「人魚って泡にもなれるんだ」


 琉汀をまじまじ見ながら言うと、彼女は注意深く探るネズミのようにひげを動かした。


「でも、泡にならないでね。泡はすぐ消えちゃうから触れていられないよ」


 鳴葉は首を伸ばして琉汀の顔を噛む。返事をしない琉汀に鳴葉が念押しすると、彼女は甘い声で遠吠えをした。

 琉汀は鳴葉に口吻をすり寄せる。


「鳴葉。このまま狼として生きていたいか?」


 鳴葉はしげしげと琉汀を見つめた。


「琉汀は僕を人魚にしたかったんじゃないの?」

「したい。したいが、人魚になったら二度と陸には戻れない。そうすれば家族とも会えなくなる」

「なんだ、そんなことか」

「そんなこと?」


 鳴葉があっけらかんと答えたため、質問をした琉汀のほうが面食らったような顔をする。鳴葉は破顔して言った。


「琉汀は本当に狼じゃないんだ。狼は一度群れを出たら、もうそれきり会わないのが普通なんだよ。番を持てばなおさら縄張り意識が強くなるし。僕らは、その、人狼同士の番になるわけだから……、きちんと縄張りを構えても、陽炎様たちには会えるだろうけど」


 話の途中で鳴葉が立ち上がると、琉汀も急いで体を起こす。


「鳴葉?」

「琉汀は座ってて」


 鳴葉がそう言うと琉汀は横たわり、自分の唇を舐め始めた。鳴葉は琉汀のすぐ近くにいたのだが、彼女は落ち着かない様子でいる。見かねた鳴葉が頬を擦りつけてやると、彼女の尾は砂ぼこりを起こしたが、彼が離れると再び口を濡らすのだった。

 鳴葉は両足を揃えて腰を下ろす。すると、琉汀も同じ姿勢になって座った。体格差は鳴葉が人狼になっても変わらないままだ。琉汀は尾も振らずに鳴葉の動きを注視している。

 鳴葉は思い出したように言った。


「そういえば囲いを作ってるって言っていたよね。もう完成した?」

「まだだ。もうすぐ出来上がるが……?」

「そっか。僕を囲いに入れたら、琉汀は安心するんじゃない? 一応聞くけど、その囲いが海だとは言わないよね」


 鳴葉が確認するように尋ねると、琉汀は口を舐めたり欠伸をしたり、明後日の方向へ視線を向けたりした。ただし、鳴葉の耳が伏せられたことを見逃さなかった。琉汀はすかさず鳴葉を両脚の間に挟み、彼の耳の先を舐める。


「琉汀……」

「不満があるなら包み隠さずに言え。ああ、今日の明日で人魚になれとは言わない。あと少しだけなら陸で暮らしてもいい。私は運命には優しくするって、そう決めている」

「それは助かる。僕も嬉しい。でも、そこじゃない」


 琉汀の舌が離れた隙に、鳴葉は体ごと振り返る。


「君の言う囲いはとても広い。広すぎる。限度ってものがあるだろ」

「……」


 琉汀は目を丸くして鳴葉を見下ろす。そして首を斜めに傾げ、続きを聞きたがるような素振りをした。


「琉汀は囲いの中に僕がいれば、それで満足? 君の近くにいなくても不満はない?」

「……ある」


 鳴葉は琉汀の肩に前脚をかけ、頬を噛む。


「できれば僕を目の届く場所に置いておきたい?」

「おきたい」

「よかった! それならやっぱり、もう少し狭いほうがいい。琉汀が嫌じゃなければ、まずは狼の縄張りくらいにしておこう」


 鳴葉は琉汀の頬や首、肩をついばむ。

 海は広い。陸から離れた場所の水底は見えず、沼や川よりも深いのだろうと鳴葉は思った。そんな場所は落ち着かない。ふたりで過ごすのなら尚更だった。縄張りは家族が増えるに従い、範囲を広げていくものだ。

 鳴葉が主導権を握っていた甘噛みは、途中から琉汀に取って代わられ、鳴葉の体は隅から隅まで湿るに至った。

 横たわってくたりとする鳴葉を、琉汀は腹の下に隠した。


「海が囲いというのは、半分正しくて半分違う。鳴葉が嫌がると思って言えなかった」


 鳴葉の視界は黒一色だ。鳴葉はすっぽり覆われたまま尋ねた。


「まさか、君の体の下とか?」

「そうだ」


 冗談を言ったつもりの鳴葉は呆気にとられた。


(琉汀の広狭はどうなっているんだ?)


 海と琉汀の腹の下。ふたつは比較しようがないだろう。その広さは天と地ほどの差がある。

 当の琉汀は満足げだった。鳴葉にも伝わる振動がその証拠である。狼は尻尾に隠しごとができないのだ。


(これでよく海が囲いだなんて言えたな!)


 鳴葉の尾は徐々に振り幅を大きくし、琉汀の腹部を何度も叩く。


「今度はとびきり狭い! 寝返りも打てないじゃないか」


 鳴葉は脚で琉汀を退かそうとするが、彼女は全く動く気配がない。

 鳴葉は体を横たえたまま移動し、琉汀の胸元からひょっこり顔を出す。琉汀はぴんと伸びたひげを海風にそよがせて、威風堂々としている。鳴葉は彼女の姿にしばらく見惚れていた。


「いつか僕の体も囲いにする。僕は雄だから、琉汀よりも大きくなるよね?」

「……、どちらか一方ではなく、互いが互いの囲いになれば良い」

「うーん。ま、それもそうか」


 琉汀と鳴葉は互いの口吻の先を触れさせる。はみ出た舌が密着すると、鳴葉は尾の付け根がしびれてうっとりした。


「これは人魚にとっての挨拶?」

「まさか。狼でいうところの甘噛みに近い。ただ、これをするのは運命にだけ。私以外には絶対にしないで」

「僕はまだ君を運命と信じたわけじゃ……わかったわかった。琉汀とだけね。僕これ好きだな。もう一回しようよ」

「一度と言わず何度でも」


 ふたりは再び鼻を近づける。

 もしかしたら、明日にも本当の運命が現れて、琉汀を返せとなじられるかもしれない。今の鳴葉には琉汀の話が確かかどうかを調べるすべがない。信じたいという感情だけが先走り、事実は宙ぶらりんになったままだ。


 鳴葉が撒いた砂はじゃれ合ううちに散り、ふたりが寝転ぶ場所はとっくにぬるくなっている。

 風の匂いが変わった。もうじき雨が止み、薄暗い雲も消えるだろう。波がぶつかり、水しぶきが岩にしみを作る。

 鳴葉は仄暗い洞窟で過ごしたひと時を懐かしく思った。


 もし、琉汀が運命ならば、近いうちに海底で暮らす日が来る。甘い匂いの花は、海の中でも咲いているだろうか。食べ応えのある果実や、昼寝に適した寝床はあるだろうか。今後どんなに恋しがっても、陸の喜びは二度と味わえない。

 それは琉汀も同じだったはずだ。なのに、彼女は海の喜びに背を向けて陸へ来た。運命に傾ける琉汀の想いは疑いようがなく、鳴葉は今すぐにでも信じてしまいたかった。だが、彼は用心深くあるよう実落から教え込まれている。さらに上位の序列に身を置き、弟妹たちの見本になる立場だったため、自身の願望で目を眩ませるには抵抗があった。

 鳴葉は琉汀に毛づくろいをされながら、惜しむように呟いた。


「早く君の運命になりたいよ」

「なら、さっさと私を信じてしまえ」

「それはだめ。狼はそう簡単に信用しないんだ。好きな相手ほど、時をかけて見定める。信じた相手に嘘をつかれるのも嫌だしね」


 鳴葉がそう言うと、琉汀は不満げに鼻を鳴らす。


「私は鳴葉に嘘をついたことなんかない」

「僕もそれを信じたい。だから、これから確認しに行こう」


 鳴葉は琉汀の下から這い出る。毛は未だに湿っているけれど、外を歩くうちに乾くだろう。


 洞窟を出ると暗雲はすでに薄く、晴れやかな青空が顔を出し始めている。そこへ横歩きの生き物――後で知ったが、カニという名らしい――が現れた。なんとはなしに気になって、鳴葉は後をついていく。浜辺に辿り着くと、それは濡れた砂の上で立ち止まった。頭から幾度波を被っても倒れず、堂々とした佇まいだった。ややあって、それは器用に穴を掘って砂に潜る。丸見えだった穴は、訪れた波があっという間に消してしまった。もはやどこにいるかも見当がつかない。

 鳴葉は傍らに立つ琉汀に笑いかける。


「僕たちも帰ろう。まずは伊水様の居に寄って、そのあと陽炎様のところ。人狼の姿なら琉汀とも並走できる。暗くなる前に着けそうだね」


 鳴葉の提案に琉汀は首を振った。


「核を分け与えられたばかりだろう。走り回るのは控えた方がいい。その代わり、姿を変えて私の背に乗れ」

「琉汀の背中に?」


 鳴葉が瞳を輝かせると、琉汀は誇らしげに顎を上げた。

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